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生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

人の縁の不思議さ――卒業シーズンで思うこと

2011年03月09日 | 思ったことなど
卒業シーズンですね。
この春、学校を卒業したり、仕事や部署が変わる人も多いでしょう。
卒業式、追いコンの季節で、
別れと出会いは、感慨を起させますね。

 今、私、大阪大学で非常勤講師をしていまして、
臨床心理学を学ぶ大学院生に、5回の講座を受け持っています。
 昨日、その阪大の臨床心理教室の追いコンがありまして、私も行ってきました。
そこでの一こまを書きます。

 大学院を終え、追い出される方の一人が、私のところに来て、言うには、
「お久しぶりです(11年ぶり)」とのことです。
 11年前、ちょうど2000年の3月、私は京都大学の臨床心理学教室の助手を
していました。その3月で助手を辞め、一冊本を書いた後で
完全に出家することにしていました。
 挨拶に来た阪大院生は、11年前、筑波大学の3回生から4回生に上がる学生で、
臨床心理学を学びたく、その進路や、どこの大学院がいいかの相談で、
茨城から京都まで来たとのことです。

 そこで私は、次のようなことを言ったそうです。
「臨床心理の大学院もたくさんあるけど、
『本当に臨床をしている』という香(かおり)のする先生がいる大学院を
選んだほうがいい。」

 「香」とか、そんなシャレた言葉、言ったのか、私は忘れてましたけど・・・
おそらく次のようなことを言ったのだろうと思います。

 心理臨床も、いろいろな方法や学派があり、一つの学派や大学の中でも
様々なのですが、ともすると自分自身が臨床する現場で必死にやっていく
ことから、ちょっと離れてしまう場合もありがち。
大先生として、上の立場に立ったり、本を書いたりすることばかりに
エネルギー使っている場合もありがち。
現に苦しみもがきながら臨床の現場で人と会っているかは、
よーくその人を見れば感じとれると思うので、そのような香のする先生の
元で学んだ方がいい。

 その筑波大から来た学生さんは、阪大の大学院を選び、そこで学び、
この春、卒業で、ある大学病院で働かれるとのことです。

 昨日、追いコンに、私が出たのも、偶然ですし、
11年ぶりの思わず再開は、縁というものの不思議を思いました。

 私の講座にも、追い出される学生さんも、けっこう出席していて、
4月から東北など遠くに行かれる方とも昨日話しました。
ここで出会っていなければ、一生出会う縁がなかったかもしれません。

 どこでどのように人と出会い、どのような影響を残すか・・・、
これは自分でわかってる範囲を超えている、すごいことだと思います。

さりげない出会い、さりげない一言が、
思わぬ良い影響を与えたり、人を元気づけてたりすることもあるし、
逆に、人を傷つけていることもあるでしょう。
 いつか再開して、関係を続けられることもあるし、
ずっと出会えない場合(死んでしまったり、生きていても会えない)もあります。

 このようなことを思うに、その都度の出会いや縁を、本当に大切にして
いかないと、と思います。

 このブログや、寺なのでの私の活動も、そのような不思議な縁の中に
あるものですし、いろいろと出会いをつむぐものになればと願っています。


●関連する記事

 坐禅会・シャリースでの縁


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大学受験ネットカンニング事件で思うこと

2011年03月05日 | 思ったことなど
 「カンニングも、とうとうここまで来たか」、と思いますね。

 仙台の予備校生は、4つの大学を受験し、特に
「京大にどうしても入りたい」との気持ちが強く、京大受験でのネットカンニング
で一番気合いを入れていたことは、ネット投稿の量からもわかりますね。

 私個人の話になりますが、実は私も、大学に入って1,2年の頃から、
当時、京大教授の河合隼雄先生の本に大感激し、
「この先生を知っていたら、京大を目指したのに・・・」と悔やみました。
 今の大学を退学し、京大を受験し直すとか、大学卒業後に京大に3回生から
編入するとか、いくつか道を考えました。
結局、京大の大学院を受験して合格したので、
「京大で河合隼雄先生のもとで学びたい」という夢はかない、
それが今の自分につながっています。
 ちなみに今でも、これまでの人生で直接に出会った中で、
一番すごいと思う人、影響を受けた人は河合隼雄先生です。

 「京大にどうしても入りたい」という動機自体は、何も悪くないですね。
ですが、その目的をかなえようとする手段で、不正をしてしまったのが
今回の事件ですね。不正をするのは犯罪で、当然悪いことです。が、
「不正にいたらない範囲で手段を選ばない」とか、
「手段・方法で不純なものが混じってきてしまう」というのは、
私たちが生きる上でいつもぶつかる根本問題のように思います。

 ブッダ(お釈迦様)の言葉は、この問題を、徹底的に見つめています。

 実は私、今回の事件の舞台である京大で教えていたこともありますので、
試験監督もしました。「試験監督の心得」みたいのを渡され読みますが、
ものすごい躍起になってカンニング摘発に燃えていたわけではなかったので、
巧妙なカンニングされてたら見逃していた可能性もありますね。

 去年の今頃は、京都のノートルダム女子大で非常勤講師で1コマ
授業をもっていて、「試験監督の心得」を渡され、読んで、そこに
実際になされたカンニングの実例もあり、けっこう驚きました。
 一つ挙げます。今回の事件でも、膝あたりで携帯を操作したようですが、
女子大生も、ミニスカートをはき(しかも携帯電話の保護色になるような色の)、
それでスカートの辺で携帯でカンニングするというもの。下手に試験監督が
スカート辺を注視したら、セクハラで訴えられるかもしれませんし、
そういう微妙なところをついたカンニングですね。

 カンニングや不正受験の歴史は、人間に試験があるところまでさかのぼる
のではないでしょうか。
 中国でも、科挙の試験で、不正があり、死刑にするなど罰を強化しても、
それでも不正は出てくるとか・・・

 今回の事件で、科学技術がどんどん発達し、カンニングの技術も
ここまでになったか、という感慨もありますね。
 科学技術が進化すると、それにつれ、不正の技術も進化する・・・
 それを取り締まろうと監視や罰を強化するが、それでも不正しようとする人
は跡をただず・・・

 こういういたちごっこは、人類の歴史が続く限り、永遠に続くのでしょう。
 これは私たち人間のあり様そのものなのでしょう。

 いったい私たちは何をしているのか?
 ブッダの言葉は、こういう根本問題に、私たちを引きもどし、新たな目を
見開かせる力をもった言葉です。
 それを紹介していければと思います。


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本物に触れることの大切さ

2011年02月25日 | 思ったことなど
 「これはすごい! 本物だ!」と驚いた経験は、
みなさ、どのくらいありますか?

 私は本物に触れることは、人生でものすごく大事なことだと思っています。
 偽物(にせもの)や、似せた物、それっぽいもの
だけしか触れていないと、本当に満足できないですよね。
 ともすると、それっぽいもの、「なんちゃって」みたいなもの
なのに、それが蔓延してると、つい本物だと思い込んでしまっている
ことって多いように思えます。

 仏教でも禅でも、「本当の師につくことが大切だ」と強調されます。
 禅では、修行者は「雲水」といいます。行雲流水の略で、
行く雲、流れる水のように、本当の師を求めて、道を求め歩むことです。

 通常は、「それっぽいもの」に囲まれているので、
本物に出会うことは、すごい衝撃になるのでしょう。
逆に、本物に出会って、衝撃を受け、それで初めて、
「これまで、それっぽいものしか知らなかったんだな」と
気づけるように思います。

 本当のものや人に出会うと、
「誰でも、本当のとこを生きることができるんだ」
と勇気をもらえるように思います。

 私がブログのタイトルに挙げた、ブッダも禅も、ものすごい衝撃ですし、
パルテノン神殿にある彫刻も、
モーツァルト作曲のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」も、
私はものすごい衝撃を受けました。

 私のこのブログでも、私自身、本物に触れたいし、
それを伝えていきたいです。
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敷居は低くしたいです

2011年02月23日 | 思ったことなど
 このブログは、といいますか、私のやることすべては、
敷居は低いのが私の念願です。

 専門用語や難しい修行のことを言うつもりは全くなくて、
誰にでもわかる日常語で語り、
誰にでもできることを、共にしていきたいというのが
私の念願です。

 ブッダの一番古い言葉アッタカヴァッガも日常語だけですし、
最初期の素晴らしい禅僧方も、臨済禅師、六祖禅師など、
日常語でしか説いていません。(もちろん私たち日本人にとっては
漢文ですが、当時の日常語だけで語られていると思います。)

 私が開いている坐禅会も、日常語だけで話し、
誰にでもできる動きや姿勢をしていこうと思っていますし、
それだけで本当に大事なことが探究できると確信していますので、
このブログや坐禅会に、今のままの自分で参加していただくと、
とても嬉しく思います。
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