生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

自分のすべてをささげる、来る日も来る日もーーボルト

2012年08月30日 | 「ブッダの言葉」序
「自分の人生をささげる、と決めている」
という前田敦子の言葉を、先に紹介しました。

先日、ウサイン・ボルト(言わずと知れた、
百、二百メートルの連続の金メダリスト)
を特集した番組を見ました。

その中で、ボルトの言った次の言葉が強烈に心に残りました。

「俺がeffortless(努力なし)で、この結果を出していると
思っている人もいるが、そうじゃない」
と言った後、次の言葉を語りました。

「day in day out sacrifice」(来る日も来る日も、犠牲)

「day in day out」は、熟語で、意味は、
「明けても暮れても」「毎日毎日」、
「行住坐臥(何をしていても、どんな姿勢でいても)」
と訳しているのもありました。

「sacrifice」は、通常、
「犠牲」「いけにえ」「供え物」
などと訳されます。
自分自身をささげることでしょう。

「sacrifice」の語源は、前半が、「sacred」と同じで、
「聖なる」「神聖な」です。
語の後ろは、「…にする」で、 要するに、
「神聖なものにする」という語源です。

「明けても暮れても、サクリファイス」
「来る日も来る日も、自分の命、全生活をささげる」
というような意味になりましょう。

私は、感動しました。

ボルトは、「自分がレジェンドになる」と、よく言いますが、
金メダルを取ることや、世界新記録を出すことよりも、
「day in day out sacrifice」という生きる姿勢自体が
レジェンドなのでは、と私は思いました。

どんなに才能のある人でも、
「単に超速く走った」ということでしたら、
ただそれだけのことですね。

逆に言えば、別にオリンピックに出るかどうかとか、
才能や実力のあるなしに関わらず、
この 「day in day out sacrifice」で生きることは、
誰でも可能ですし、そのことで私たちの日常が、
「サクリファイス(聖なるものになる)」
ことがありうると思います。

「自分のすべてをささげて生きる」ーーこのような生き方、
「自分は、そのように生きている」と言えることは
決してないでしょうが、私は憧れますし、
宗教家としてはそのように志さねばと思います。
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私の卒業旅行ーー乗り継ぎの香港から

2012年08月29日 | 「ブッダの言葉」序
前田敦子がAKBを卒業しましたね。

何でしょうね、特にずばぬけた才能があるわけでないですが、
素敵な感じしますね。

3年前、AKBの最初の総選挙で、一位となり、
前田は、次のように語りました。

「私はAKBに自分の人生をささげる、と決めている。
これから皆さんに恩返しができるよう、
みんなで力を合わせて頑張っていきたい。」

「自分の人生をささげる」

実にすごいことです。
実に素晴らしいことだと思います。

私自身の話になりますが、 ちょうど24年前の今頃、
私は、大学4年でした。
大学卒業を翌春にひかえ、就職活動もしました。
(社会勉強も兼ね、20数社回りました。)
今の時期は、ある大きな会社に内定もしていました。

そのまま大学を卒業して、就職、と思いきや…

河合隼雄先生の元で学びたいという気持ちと、
普通に就職しようという気持ちの間で迷い、 結局、
河合先生の元で学ぶ道を選びました。

「一度きりの人生、チャンス、可能性にかけず、
このまま就職して、いいのか?!」
と思ったからです。

結局、秋に内定を取り消し、京大大学院受験のため、
大学卒業も、1年、先延ばししました。

ここで先延ばしした「卒業」、
その後、どうなったのでしょう?

一年後、大学を卒業し、京大大学院に入り、
念願通り、河合先生の元で学びました。
河合先生に、教育分析といって、要するに一対一で 繰り返し会う
という指導も受け(これも念願でした!)、
その過程で、「このままじゃ、ダメだ。修行しなくては」
と思い、2年間の修行をし、
その後、大学で就職し、大学の先生をしている間に、
「このままじゃ、大学の教授になろうが、
何になろうが、 全然ダメだ。修行しなくては!」と思い、
結局、完全に出家しました。
そして、ある程度の修行期間を経て、
2年前の12月に、大阪の小さな禅寺の 住職になりました。

修行に卒業はありません。(強いて言えば、
死ぬときが、一つの区切りでしょう。)
ですが、生ぬるい、いい加減なあり方からは、
卒業しないと、ホント、ダメだなと思います。

一人のアイドルである前田敦子さんが、
「私はAKBに自分の人生をささげる、と決めている。
これから皆さんに恩返しができるよう… 」 と語って、
実際すごい苦労・努力しているのに、
宗教家がノウノウ・ヌクヌクとしていたら、
全く恥ずかしいかぎりです。

約1年8ヶ月ほど、住職をして、
ここで、私も卒業せねば、と思い立ちました。

大学でも卒業するためには、卒業論文が通らないと
卒業できませんし、論文ではないですが、
私の卒業に向けて、来春までに、二冊本を 書こうと思います。
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源に立ち返ること(続き)

2012年08月29日 | 「ブッダの言葉」序
ブログ滞っていて、本当にすいません。
今、関空にいて、これからインドに向かいます。
(そのことはまた書きます。)

「源に立ち返ること」の後半です。

 例えば、「坐る」という私たちの一番身近な
姿勢を例にとります。

坐禅というと、特別な坐り方に思われるかもしれませんが、
実は特別でも何でもありません。
当時のインドでは、椅子に坐るのでなく、
地面や床に直接お尻をつけて坐りましたので、
坐禅のような姿勢になるだけです。

今、みなさんが、椅子に坐っているのと同じで、
坐るというのは本来、お尻が着き、足が解放されて楽になり、
上体にも何の負担もなく楽で自由なあり方です。

みなさん、足も上体も解放されて自由に坐ってますか? 

幼児を見ると、足も上体も実にのびのびして坐っていますね。
坐ったまま足をあげるのも自在だし、起き上がるのも、
私たち大人のように、「どっこいしょ」となったりしませんね。

 私は電車などで人が坐っている姿勢を見て
いつも思うのですが、自分では楽な姿勢をしているつもりで、
実は腰痛や肩コリの元になる辛い姿勢をしている場合が多いです。
柔らかいソファーに坐る場合も同様ですが、
いっけん楽な感じがするのは確かですが、
その姿勢で30分もいたら、実は疲れたり、
腰痛の元になったりしがちなのです。

 坐禅会で、坐禅している人の姿勢を見ても、
腰が曲がり、重心を失っている場合が多いです。
それだと、30分坐るだけでも、腰や上体が、
すごく疲れてしまうのです。
 
「ただ坐っているだけで、疲れきってしまう。」
これって、ゆゆしき事態だと思いませんか? 

私たち人間は、流されるにまかせて、
自然に坐っていたのでは、人間本来の原点から外れてしまう……

ここに人間の大問題があると思います。

 「坐禅」というのは、何も特別なことでなく、
本当に人間の原点に立ち返って、ただ坐るという単純なことです。

これは、「自然のままに」とか「自分が楽なように」
というのではダメだと思います。
ただ自然のままに流されているのでなく、
「これじゃ、ダメだ」と心底から思い、
自分自身の原点に立ち返っていく道があります。

私は、坐るや呼吸するという、一番身近な行為で、
人間の原点に立ち返っていく道があるというのは、
とてもありがたいことだと私は思うようになりました。

 それでは、原点に立ち返って、ただ坐るということを、
毎回していこうと思います。
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