生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

パルテノンを前にして思うこと(続)

2017年01月11日 | 「ブッダの言葉」序
パルテノンを前にして思うこと(続):


身体の問題も同様だ。
私は、小細工、作り事、応急処置的なこと、つまり、その場しのぎばかりしてきた。

どこかで聞いた話や、流行っている話を、自分なりの試行錯誤でアレンジして、ああだこうだとやってきた。
身体技法や呼吸法とか瞑想法とかで、これが仏教(禅)の方法だとか何とか。

私は、そのような「応急処置的方法」が悪いとは、全然思っていない。(例えば、激しい痛みの時に、痛み止めの服薬や注射は、とても有効だ。)

だけど、根本の姿勢が間違っていて、そのために種々の問題が起こっているのに、根本の姿勢は直さず、枝葉末節のその場しのぎばかりしていたら、どうなる?

例えば、姿勢が歪んでいるため、腰痛・肩こりが起こっているのに、姿勢の歪みは直さないまま、痛くなったら痛み止め・マッサージその他でしのいで、元の姿勢を直さなかったら、再発とその場しのぎの繰り返しが続くだけではないか。

これが私の生き方だった。

根本の姿勢が悪くて痛みが出た時でも、例えば、ドーパミンが出るようにすると、とりあえずは元気が出て、それによって痛みから逃れやすくなる。(嫌なことがあった時など、酒を飲んだりするは、私にもある。)

あるいは、セロトニンが出るようにすると、痛みを感じるのを和らげることができる。

これらを覚醒剤を使ってやると逮捕されてしまうが、瞑想法でやる分には逮捕されることはないし、金もかからずに、痛みや苦しみから逃れたり、和らげたりできる。(実際、ドーパミンやセロトニンが出やすくする瞑想がある。)

確かに、瞑想(禅定)に習熟することで、そのような効果が得られる。
シータ波が優勢になったとか、セロトニンが出たとか、科学的に検証もできる。

私は、これらを、有効な方法だと思っている。
対症療法は、対症療法として実際に有効だ。

これらを仏教や禅の瞑想(禅定)だと思っている人も実際いる。(信教の自由は日本国憲法でも保証されているし、それはそれで良いと私は思う。)

それはそれとして、私が思うこと:
対症療法もよい。だけど、もし、根本の姿勢が歪んでいるなら、それをまず改めることが先決ではないか?

どの身体技法がいいかなどの対症療法を、すべていったん脇へおいて、まずは萎縮してない足で地面を踏んで立ち直せる姿勢になろう。

まずこれだ。

(この点で、パルテノン神殿のメインの場所にいる方々は全員、腰が立っている。立っている人も、坐っている人も、寝ている姿勢から起き上がろうとしている人も。)

ああだこうだをすべて脇へおき、萎縮してない足で地面を踏んで立ち上がること、常にここに立ち返ろう。

これが私の人生のすべてだ。
(2017年1月17日、アクロポリス(パルテノン神殿がある丘)の麓でこれを書く。)
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私の人生最大の問題

2017年01月11日 | 「ブッダの言葉」序
(パルテノンを前にして思う)私の人生の最大の問題:


それは、対症療法的、応急処置的な生き方、つまり、その場しのぎ的な生き方ばかりしてきたことだ。
確かに、その場しのぎ100%の生き方でも、受験勉強してどっかの大学や大学院に入るとか落ちるとか、何か資格とるとか、その場しのぎ的論文を書いて大学の先生になるとか別の就職をするとか、決まりきった文句や仕方を覚えて僧侶になったりは可能ではある。

「これにどういう意味があるのだろうか?」と考え出すと、できなくなってしまうかもしれないから、意味など考えず、「どれが得(勝ち組)か」と打算だけ考え、「その場しのぎ」に徹したほうが、うまくやれる可能性が高まる。
(その場しのぎ100%に徹することが、人生の勝ち組になる秘訣かもしれない。それに疑問さえ感じなければ。)

仏教や禅も、僧侶や学者としてやっていくだけなら、その場しのぎ100%で、実際上、完璧にやっていける。

実に簡単だ。
仏教といっても、かなりたくさんに分かれているが、その中で、自分に縁があったものとか、「これが一番正しいと思える」とか、自分の性に合うとか、そういうものを選び、それを学んだり、行じたりしたらよい。

自分が選び、所属した団体が「正しい」とか「勝れている」としている教えや修行法を学んだり、習得していったら良い。そうすれば、その集団内では、「これが最高の仏教だ」とか、「~の境地になってきた」などと言って満足していられる。

正直言うと、私は、ここに書いたようなことが、仏教や禅を学び行ずることだと、100%思っていた。
(というか、一番古いお経の言葉を百回以上読む中で、実際上そう思い込んでいたということに気づかされた。)

一番古いお経アッタカヴァッガで、お釈迦様は、そのような姿勢(あり方)自体が、「依りかかり」であり、「居着き」であり、「執着」だと、繰り返し言ってくれている。

お釈迦様は「そのようなお前の姿勢(あり方)が、まさに縛りだ」と私に言ってくれている。

何と衝撃的な言葉か!

お釈迦様は、そのようにいう根拠も述べている。それは:

「自分が、そうだと思う(見る)と、そのように思えて(見えて)しまう」

ということだ。

例えば、自分が偉いと思っていると、本当にそう思えているということだ。

人間は、この問題を決して抜け出ることができない。

この問題の深刻さを本当に徹底して見つめたのがお釈迦様だ。
これが生きる力だ。

(この問題に気づかないまま仏教や禅を学ぶと、「仏教最高!」 とか、「禅修行でオレは、『とらわれなく、ありのままを見る』あり方ができるようになってきたぞ」みたく思えてしまう。)
 
(ここに、私の大学時代からの悩み、卒業論文で取り上げた問題の決着があった。この問題の真っ只中に生きること、これが即、生きる力が湧き出る泉だ。この泉を放っておいて、仏教の考えや修行みたいなものを外に探しうろついていたとは。)
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「苦難は、学ぶ機会であり、そして恵みだ」と思った。

2017年01月06日 | 「ブッダの言葉」序
ぎっくり腰とディオニュソス。
妙な組み合わせですが、私が、「いかに(人生)立つか」「いかに坐るか」に真剣に取り組むことを促してくれたのは、この二つです。

ぎっくり腰になったおかげで、その痛みにより、「これまでの姿勢が悪い」と気づかされました。

ぎっくり腰が完治しないうちは、知らず知らず悪い姿勢ていると、「痛み」が姿勢の悪さ、自分自身で辛苦を作り出していることを教えてくれます。

「もしも、ぎっくり腰になっていなかったら…」どうなっていたてしょう?

自分の足や腰に害を与え続けるだけでなく、人の足や腰にも害を与え続けていたと思います。

「足の痛みを我慢して、ただ坐る、これだけだ」

なんて、害毒を垂れ流していたように思います。(恐ろしすぎる…)

これを思うと、ぎっくり腰は、私にとって本当に恵みでした。

ギリシャの誰か哲人の言葉に、「苦難は学問である(パテーマはマテーマである」とあります。

パウロは、「パテーマ(苦難)はカリスマ(恵み、賜物)である」ということを繰り返し言います。

本当にそう思います。苦難は、大切な学ぶ機会であり、天からの恵みだと思います。

ちなみに今、関空。22時45分出発予定の飛行機が飛ばない…。はたして、アテネ、ディオニュソスの元にたどり着けるのか?

 
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天正寺(住職・佐々木奘堂)活動の全日程

2017年01月01日 | 天正寺

◎天正寺住職・佐々木奘堂の活動のご案内。

天正寺や京都、東京、茨城での坐禅会を中心とした活動日程は、こちらをクリックください

 禅や坐禅というのは、難しい理屈や方法というのは全然ありません。 本来もっている自分の力を発揮するようにするだけです。

 私たち人間は、普通に(自然に)していると、座っていても寝ていても、自分の力を発揮せず、知らず知らず自分を苦しめる姿勢になっていがちです。

坐禅会では、坐る(あるいは立つ)という人間の一番の基本を、
シンプルに力強く行なっていきます。
 年齢、性別、職業、経験の有無、体が硬いかどうかなどに、全く関係なく、
誰でも共に取り組んでいけますので、ぜひご参加お待ちしてます。

 
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艱難の中にあって「立ち上がる」こと

2016年12月30日 | 「ブッダの言葉」序

先の私のフェイスブック投稿で、ある方からのコメントで次のようにありました。

「我艱難をも愛する 

艱難は忍耐を生み 

忍耐は練成を生む 

練成は品性を生む 

品性は希望を生む 

希望は人を決して裏切らず」

 この言葉に、どれだけ勇気付けられたかわかりません。 

(コメント引用ここまで)

 

 私もこの「ローマ人への手紙」5章の一節に励まされることが多いです。

艱難は避けたいと望み、快楽を求めるのが、私たちの普通の心でしょうが、艱難の中でも快適な環境の中でも、どちらでも、自分がダメになることもあるし、忍耐・錬成・品性を高め発揮する恵みを生きる場合もあります。

 苦境であるか、快適な環境であるかよりも、その境を生きる私たち各自の姿勢、つまり自分の人生の主であるか否かが問題なわけです。

この一つ前の文章(5章2節)に、「今私たちが立っている恵み」という言葉があり、これもすごく大好きです。

ギリシャ語原典を挙げると

χάριν (favor) ταύτην (that) ν (in) (which) στήκαμεν (we stand)

 

「私たちは恵み(カリス)の中に立っている、その恵み」

というような意味です。 

パウロが以前、艱難の中にあった時、イエスに「この苦しみを取り除いてください」と三度(繰り返し)祈ると、イエスは、「我が恵み汝に足れり(私の恵みはあなたに十分だ)」と言います。(原典では:

ρκε ("Sufficient) σοι (to you) (the) χάρις (grace) μου (of me)

χάρις(カリス)が「恵み」です。

これも本当にすごい言葉だと思います。

パウロはこのイエスの言葉を(幻の中で)聞き、どんな艱難、屈辱、迫害の中にあっても希望の中で力強く生き抜くようになります。

私たちは十分な恵みを受けています。どんな屈辱や艱難の中にあろうと。

パウロが、繰り返し用いる重要な言葉は、「艱難(パテーマ)」「立ち上がること(アナスタシア)」「恵み(カリス)」です。

 どんな艱難にあっても、そこで「自分の足で立ち上がること」、これ自体が希望であり、恵みではないでしょうか。

(誰か特定の人や神に、例えば「この病気治して」と祈ると、恵みで病気が治るとかいうのではなくて、死に至る病いだろうと何だろうと、その中で、自分の足で立ち上がろうと思えること、その方向で歩み出せること自体が希望であり恵みだと思います。)

天正寺においては、どんな艱難辛苦に陥った時でも、快適な環境にある時でも、「自分の足で立ち上がること」を根本としていきます。

 このように思えて、実際に立ち上がる姿勢に立ち返ること自体が、恵みであり希望であると思います。

(いわゆる「坐禅」も、たいていは死んだ足で坐る「死坐」である場合がほとんどですが、「自分の足で立ち上がる」ことが、いわゆる坐禅中でも、可能だし、一番大事なことだと気づくと、死坐でなく、活き活き溌剌とした坐りと大転換します。これだけを天正寺でやっています。)

 

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