生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

天正寺(住職・佐々木奘堂)活動の全日程

2017年01月01日 | 天正寺

◎天正寺住職・佐々木奘堂の活動のご案内。

天正寺や京都、東京、茨城での坐禅会を中心とした活動日程は、こちらをクリックください

 禅や坐禅というのは、難しい理屈や方法というのは全然ありません。 本来もっている自分の力を発揮するようにするだけです。

 私たち人間は、普通に(自然に)していると、座っていても寝ていても、自分の力を発揮せず、知らず知らず自分を苦しめる姿勢になっていがちです。

坐禅会では、坐る(あるいは立つ)という人間の一番の基本を、
シンプルに力強く行なっていきます。
 年齢、性別、職業、経験の有無、体が硬いかどうかなどに、全く関係なく、
誰でも共に取り組んでいけますので、ぜひご参加お待ちしてます。

 
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祈れ祈れ

2016年07月25日 | 「ブッダの言葉」序
祈れ祈れ、すべての物をささげて、名も利も学問も。

西田幾多郎の1901年10月16日の日記に、毛筆にて大書された言葉。当時、西田31才。

本当にそうだ。
西田は学問を放棄したのではない。
ただ学問や名利を、すべて放って祈り(西田の場合は、禅・坐禅)に生きる中に、学問や家族や弟子との関係がある。

私は、別に学問しないし、名も利も特に求めていない。
私の場合は、宗教(仏教とか禅とか)の教えや方法や、その理解や習得具合(境地)など、それらすべてをささげて(放って)、祈れ、祈れ。

私の人生の根幹(一番大切なこと)は、これのみ。
(他のすべてーー食べたり寝たり、パソコン使ったり、電車に乗ったり、物や金等ーーは、この重大事を生きるためにある。そうでないと、「悟り」などただの傲慢・思い込みだし、「思いやり(共感)」「対人関係」等も本末転倒のままだ。)

祈れ、祈れ、すべての物をささげて、名も利も仏教の教え・方法・理解・境地も。
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「禅定」で、ともすると実に恐ろしいことになること。

2016年07月19日 | 「ブッダの言葉」序
一昨日、早稲田大学図書館に行ったのは、平野元良著『養生訣』を見たいがためでした。江戸時代の1835年に出た本で、二百年近く前の貴重本ですし、見るのは敷居が高いようで、見ることはできませんでした。
それで、ネットで調べてみました。その本から恐ろしい文を引用します。

禅の世界にいると、今の時代でも、しばしば次のような人に出会います。
坐禅や禅定(禅の瞑想)を修行した人に関して、二百年前、平野元良は次のように書いています。

「もと観想(こころもち)を以て行うことなれば、自己はよく修し得たりと思うものも、多くは偏見に溺して禅定成就せざるのみか、これに因って病を生ずるものもまた多し。…
その状恰も痴呆にひとしく、また狐狸にばかされたるが如く、あるいは大悟徹底を自慢して、その言行ほとんど狂人に類似(にたり)たるもの多し。」

以上、1835年『養生訣』より引用。

恐ろしい文ではないですか?

「観想」を「こころもち」と読ませているのは、原文にその振り仮名がついてます。
自分の「こころもち」ですから、自分では「修し得た」「大悟徹底した」と思っても、「ひょっとして、自分のこころもちの偏見に溺しただけではないだろうか?」という疑問すらなくなると、ホント大変なことになります。

平野元良は、「痴呆にひとしく、また狐狸にばかされたるが如く、あるいは大悟徹底を自慢して、その言行ほとんど狂人に類似」という人が「多し」と書いています。
坐禅・禅定により、自分では「修し得た」「大悟徹底」したと「自慢」する人(狂人のようになった人)が二百年前も多くいたのです。

現代は、そのような人は少なくなった、と思いたいところですが、実情は二百年前と全く同じに思えます。

私は、京都で禅の専門道場に通い始め、その後、出家修行して以来、かなり長く禅寺にいるので、平野元良が言うような人と出会うという悲惨な体験を、かなりたくさんしてきました。
それで、「大悟徹底した」などと言う人と議論することは決してするまい、と誓うに至ったのです。
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決意2(石槌山にて)

2016年07月10日 | 「ブッダの言葉」序

私は、「これが仏教だ」とか「禅だ」とか、全く問題にしないで生きていく決意表明をしましたが、ましてや、「悟り」とか「見性」などという言葉や体験は、私にとって、完全に意味不明です。

意味不明の言葉で、人と議論するには、とても虚しいです。よって、そのような議論を今後一切やめようと固く決意。

なお、「ありのまま」とか、「気づき」などの言葉も、「これまで~だと思い違いしていたことに気づいた」というように、日常語では私も使いますが、「ありのまま」「気づき」など深い体験や気づきをめぐっては私は全くわかりませんので、日常語より深い意味でそれらの言葉も決して用いないと決意。

では私は人生、何をして生きていくのか?
次に書きます。
(石槌山の夜明し峠にてこれを書く。)
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誓い(木津川辺りにて)

2016年07月04日 | 「ブッダの言葉」序
誓い(2016年7月4日、木津川辺りにて)
私は、学歴が高い低いとか、社会的地位(会社や寺関係での位)が高い低いとか、収入の多い少ないなどの競争をすべて下りたはずだ。

「これが本当の仏教だ」とか、「禅の道はこれだ」とか、「禅定(瞑想)で~の境地になった」とか、何らかの(身体的あるいは心理的、あるいは霊的な)境地を目指すとか、そういう一切のことからも完全に下りよう。

何らかの境地になることを目指す気持ちがあるうちは、葛藤・無縄自縛の真っ只中であり、自由とはほど遠い。
「これが本当の仏教だ」「これが禅だ」などと思ったり求めたりしているうちは、自ら奴隷になった状態であり、「主」であることからはほど遠い。

そのような「教え」「境地」などを、今後の私の人生で、一切問題にしないで生きていこう。
そういう一切を振り払って立つ、これだけで死ぬまでやっていこう。
(1185年6月23日、ここ木津川辺りで、平重衡が斬首された。その木津川辺りでの誓い)
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