生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

一番大切なことは?

2017年06月17日 | 「ブッダの言葉」序
天正寺で、坐禅会をメインに活動していますが、
そこで一番大切に思っていることを書きます。

天正寺に来る人が、
事業主か雇われている人(従業員)か、
会社の社長か部長か平か、
公務員か民間か、
大きい会社か小さい会社か、
学生か、フリーターかニートか無職か、
なとのことは、全く問題にしません。

それらは、すべて、
社会的立場、肩書き、
いわば「衣」です。

「衣を脱げ(その社会的立場を捨てろ=辞職しろ)」と言うつもりは全然ありません。
「衣(社会的地位等)がつまらないものだ」という思いも全くありません。

ただ、お寺では、それら一切の衣は、全然問題にしません。
 
一切の衣を脇へ置きませんか?
(一切の衣を脇へ置いたところに立ち返りませんか?)

このことだけが、私が住職をしている禅寺での基本中の基本と思っています。

ただ「脇へ置く」だけですので、
衣を捨てろとか、どうしろというのでありませんから、
難しいことは何もありません。

どういう教えを信じているか、例えば、
仏教徒か、キリスト教徒か、他の宗教の信者か、あるいは無宗教か、
なども(社会的地位と同様)「衣」かと思いますので、
それらの衣に関しても一切問題にしません。

また、社会的地位だけでなく、
「悟りの境地に達した」だの
「無になった」だの、
そういう「心の境地」というような「衣」も
寺では全く問題にしません。

「そのような一切の衣を脇に置いて立つ(脇へ置いたところに立ち返る)」、
これだけを唯一の基本としています。

これが趙州のいう「主人公」、
臨済のいう「随処に主となる」かと思います。
(繰り返しますが、ここでの「主」は、
社会的立場が、雇われている身=従業員か、事業主か
の問題とは何の関係もありません。)

このような教え(ブッダや臨済禅師)に出会えたことは、
本当に生きる勇気を内からみなぎらせてくれるものだと
私自身、実感しています。

このような言葉を常に学びながら、力強く生きていこうではありませんか?
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「落ち着いた心」を目指すこと

2017年06月17日 | 「ブッダの言葉」序
「落ち着いている心の状態を目指すのが仏教」でしょうか?

もしそうだとしたら、
仕事をしている時よりも、
風呂にはいったり、
コーヒーを飲んだり、
親しい友人と一緒にいる時のほうが、
はるかに心が落ち着いていますね。

これって、仏教かどうかとなんの関係もないような気がしますが、
どう思われますか?

「風呂につかっている時はお釈迦さまの心に近く、
病気で苦しんでる時や、仕事でアクセクしてる時はお釈迦さまの心から遠い」
のだとしたら、「は?」って思いませんか?

これだと責任ある仕事をして忙しい人は救われず、
裕福で余暇を楽しんでいる人が、ブッダの心の実践者
みたいになってしまいますね。

あわただしい仕事中であろうが、
重い病気で苦しんでいようが、
どんな苦境にあろうが、
生きる力強さの元となる何か、
力強くやり抜く勇気を与えてくれる何かのほうが、
はるかにはるかにはるかに大事ではないでしょうか?

私にとって、
お釈迦さまの言葉(アッタカヴァッガ)や、
臨済禅師など禅の言葉は、
まさにそのようなものです。

どんな逆境にあっても、どんな仕事をしている時でも、
常に持ち前を発揮して生き抜く姿勢、
強いて言えばそれが「坐禅」かと思います。
(別に坐禅と呼ぶかどうかは二次的な問題ですので、呼ばなくてもかまわないですが)

「どの教えが正しいか」とか、
「これこれの境地になった」などは、
相対的な次元のことではないでしょうか?

そのようなあらゆる相対的なものを脇へおいたところに立ち返りませんか?

ここに、持ち前を発揮して生き抜く姿勢の秘密があります。

このような力強い生き抜く姿勢(=坐禅)を、
関心ある方、共に行じていきましょう。
(どのような心の状態になるかとか、脳波やセロトニンがどうかなどに関しては
私は天にすべてをまかせて、気にすることをやめています。)

ここで書いたことは、私が人生で学んできた中で、最も大事なことです。
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「禅定」に関して

2017年06月17日 | 「ブッダの言葉」序
禅定とは、
「今ありのままを見つめる」とか、
「心を静める」とか、
「無になる」
とかの実践の意味で用いられている言葉かと思われます。
(具体的には、例えば、呼吸を数える数息観など)

禅宗(正確には臨済宗)で大事にしている、
いわゆる禅宗四部録の中に
「坐禅儀」
というものがあります。

そこに「禅定」に入ることが大事だと、繰り返し説かれています。
六百数十字の短い文章ですが、その中に「12回」も、
「定」の文字が用いられています。

例えば、
「定力を護持するのが大事」「禅定の一門が急務だ」などと

道元さんは、その「坐禅儀」のことを、
「坐禅を何もわかってない人が書いたものだ」
「捨てて見るなかれ」などと明記してボロクソに言っています。

「坐禅儀」に12回、「定」が用いられてますが、
道元さんが書き直した「普勧坐禅儀」では、
「坐定」の一回だけで、それ以外、「定」を全カットしてます。

「禅定」というような、
心を静めるとか、
今ありのまま見つめるとか、
そういうのは、心理学的にも実益としても意味を持つのは確かだと思います。
ですが、「実際に役立つから、それが仏道」というものではないですね。
(でしたら、電車もパソコンもスマホも実生活に役立ちますが、
それイコール仏教ではないですね。)

道元さんは、「定」が、真の仏道(生きる上で根本の大切なもの)
とは無関係だと確信しています。

私自身、「ありのまま見る」とか「今を感じる」とか、
口当たりのよい言葉に迷ってましたが、
そのようなことをしていても、(一時しのぎにはなったとしても)
私の心が本当の意味で満足するとか、本当に人のためになるということは
「ない」との確信が、ますます強まってきました。

ちなみに、「臨済宗」では、「禅定」を大事にしているのでしょうか?

臨済宗のことは、よくわかりませんが、少なくとも、
臨済禅師をはじめとして、六祖禅師、馬祖禅師など、
最盛期の禅師方で「禅定」を大事にしている人は誰一人いません。
 (疑問に思われる方は、私の編纂した
『禅の言葉』(アマゾンで購入可)でご確認ください。)

ここは、本当に大事なことだと痛切に思います。

「心をどのような状態にもっていくか」
などと気にしていたら、永遠に私は救われるはずないし、
心が本当には落ち着くことさえないと、確信しました。

そのようなことは、放っておきませんか?
(もちろん、禅定や瞑想をするのは、
趣味とか、身体技法と同レベルのこととしては、
確実に意味をもつと思います。)
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私の人生最大の「依りかかり」「顛倒」

2017年05月15日 | 「ブッダの言葉」序
お釈迦さまは、一番古いお経アッタカヴァッガで、
繰り返し「依りかかり」のことを語っています。

「依」の問題を繰り返し語るのは、臨済禅師も同様です。

「依」の問題が、仏教でも禅でも根幹の問題です。

この旅で、「依」の問題が、私自身の態度の盲点になっていたことを、
これまでより痛感しました。

「衣(社会的地位、肩書)」や「道具(パソコンや車)」や
「方法(運転やパソコンの技術や身体技法等)」が、
「依りかかり」とイコールでは全然ありません。

お釈迦さまも、当然、衣を着ましたし、食器など道具を使ったでしょうし、
食器を使う等の技術も用いたでしょう。

これ自体、依りかかりでも何でもありません。
当然です。

ですが、
「この衣着てる俺はお前より偉いんだよ」とか、
「この道具(例えば高級車)を持ってる俺はすごい」とか、
「この技術(瞑想法・身体技法等)で熟達した自分はすごい」と思うところ、
このプラスアルファのいやらしいところが、
お釈迦さまの語る「依りかかり」だと思います。

お釈迦さまが用いた技術で確実と思われることは、
例えば、「大便した後、お尻を左手でふいた」ことです。
ですが、「この技術が、仏教の大事な技術だ」と思ってたり、
威張ってたりしたら、それは「依りかかり」でしょう。

私は、お釈迦さまが、独自の「身体技法」を開発したとか、
説いたなんて、うかつにも思い込んでいて、
それを探していました。

何という、お釈迦さまと無関係な何かを求めて、
外をうろうろ捜し歩いていたことでしょう。

お釈迦さまは、
「私が、この教えだとか、この方法をやれ、などと説くものは何一つない」
と明確に語っています。

「他の多くの修行者たちは、この教えが一番だとか、
こういう境地になったと語っているが、
それは『依りかかり』だ。
いろいろな『依りかかり』があることを知って、
それを離れて争うことを私はしない」
と明確に語っています。

ですのに、私は、
「いや、お釈迦さまが説いた教えがあるはずだ」とか
「方法があるはずだ、それを探して人に伝えるぞ」
なんて思っていました。

お釈迦さまの開発した身体技法があるなんて、
うかつにも思い込んでいたのでした。

お釈迦さまも臨済禅師も、
それが「依りかかり」だと繰り返し私に語ってくれているのに、
私の耳に入っていなかったのでした。
(臨済禅師は、「仏という依」「菩提という依」などと
繰り返し語ってくれています。)

禅の道場でも、当然衣を着るし、道具を使うし、
例えば野菜の栽培や料理の技術も用います。
これは農家の方や料理人も、もっとプロとしてその技術を用いているのですし、
「これが禅の技術だ」などというものではないですね。

お釈迦さまがが、
「この野菜栽培の技術、料理法の技術が私の教えだ。
これを習得することが仏教だ」
なんて説いたはずがありません。

ですが、私は、うかつにも、お釈迦さまが
「坐る技術」とか
「瞑想の技術」
などを説いたはずだ、なんて思い込んでいたのでした。

何という、うかつさ、依りかかり、本末顛倒でしょうか。

例えば、「足首回し」をすると足の血行が良くなります。
当たり前です。
ですが、「これが禅で大事だ」なんて言うとしたら、
「依りかかり」「顛倒」以外の何物でもないことに、
私は気づかなかったのです。

 人間の依りかかりがいかに私自身に深く巣食っているか、
この恐ろしさが、私が人生で出会った最大の恐ろしさです。

「お釈迦さまが身体技法を説いた」という思い込みが、
私の「依りかかり」だと気づけたことが、
今回の旅の最大の収穫です。

特にお釈迦さま、臨済禅師、聖徳太子に感謝いたします。
(5月14日、シカゴでこれを書く。)
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「こんな杯(酒)飲みたくない」に関して

2017年05月13日 | 「ブッダの言葉」序

「この(不味い酒or毒の入った)杯を取り下げてくれ」という思いに関して:

「杯(Cup)」は、「ワールドカップ」とか「~杯」のように、優勝(した人やチームに与えられる美酒を入れる杯)を競って争う大会自体を指す意味で用いられています。

「杯」自体は容器ですから、美味しい酒が入る場合もありましょうが、不味い飲み物も入るでしょうし、ソクラテスが飲んだような「毒」が入る場合もあるでしょう。

美味しい酒(飲み物)を飲みだいと思うのは自然(当たり前)です。不味い飲み物や、ましてや毒は飲みたくないと思うことも当然です。

自分や周りの人(家族や仲間)にとって快適な状況であることを望み、つらい状況を避けたいと望むことも、自然で当たり前のことです。

「状況(環境)」を「杯(酒)」で喩えて表現すると:

「不味い酒or毒の入った杯は取り除けてくれ。美味い酒をもってこい」

というのが、私たち人間の「自然」「当たり前」かと思います。

このような人間の「自然・当たり前」に対して、仏教やキリスト教は、どのような教えを説いているのでしょうか?

私は宗教学者でありませんし、よくは知りません。

ただ、ある種の仏教では、「こんな不味い酒飲めるか。ふざけるんじゃねー」みたいな感情自体を、減らしたり、その感情が発露しないよう訓練するみたいです。

例えば、「不味い・美味い」というアレコレを「考えない練習」したり、「ふざけるんじゃねー」という怒りに対して「怒らない練習」をしたり。

そのような仏教が一定の有効性をもつことは確かでしょう。

ただ私個人は、そのような仏教を明確に苦手です。

私は、「怒らない練習が大事」とか言われるだけで腹が立つ人間ですので、そのような仏教は、私の救いには決してなりません。

ありがたいことに、一番古いお経アッタカヴァッガでは、そのようなことを一言も言いません。

「何々の境地を目指すなんてのは、それじたいが『依りかかり』だから、それが『依りかかり』だと明確に知って、完全に放っておけ」と言っています。

何と素晴らしい言葉でしょう。
何という救いでしょう。

さて、キリスト教は、「こんな酒飲めるか」みたいな人間の自然に対して、どういう教えを説いているのでしょう?

私はよく知りません。
ただ、キリストご自身が、神様に向かって「この杯を取り除けてほしい」と明確に祈ってはいます。

ですから、キリストご自身は、人に対しても、「不味い酒は飲みたくない、などと思ってはいけませんよ」と説くはずがありません。自分でそれ言ってるのですから。

何というありがたいことでしょうか。

「この不味い酒を取り下げろ」の思いが「宗教の極意である」とは、私は思いません。

ですが、そのような思いは、「宗教の極意に反するものでは全然ない」と明確に思います。

西田幾多郎は、「父よ、御心にかなわば、この杯を取り除けたまえ、されど、わが心のままをなすにあらず、御心のままになしたまえ、とかいう語が宗教の極意である」と明確に書いています。

「この不味い酒飲めるか、美味い酒をもってこい」という気持ち自体を無くそうとか減らそうと努力する必要は全くなく(だって絶対に不可能ですから)、私には決してわかることのない、腑に落ちることのない「あなた(天)の望むこと」を祈ればよいのです。

ここに西田のいう「宗教の極意」というか、人生ギリギリの極意があります。

西田は、禅の主義を猛然と実践した人ですが、私が思うにも禅の極意もこれ以外にないと明確に確信しています。

たまたま人間に生まれて、これほどありがたいことに巡り会えたことは、何という奇跡でしょう。感謝以外ありません。

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