生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

天正寺(住職・佐々木奘堂)活動の全日程

2017年01月01日 | 天正寺

◎天正寺住職・佐々木奘堂の活動のご案内。

天正寺や京都、東京、茨城での坐禅会を中心とした活動日程は、こちらをクリックください

 禅や坐禅というのは、難しい理屈や方法というのは全然ありません。 本来もっている自分の力を発揮するようにするだけです。

 私たち人間は、普通に(自然に)していると、座っていても寝ていても、自分の力を発揮せず、知らず知らず自分を苦しめる姿勢になっていがちです。

坐禅会では、坐る(あるいは立つ)という人間の一番の基本を、
シンプルに力強く行なっていきます。
 年齢、性別、職業、経験の有無、体が硬いかどうかなどに、全く関係なく、
誰でも共に取り組んでいけますので、ぜひご参加お待ちしてます。

 
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つい瞑想

2016年09月20日 | 「ブッダの言葉」序

「つい瞑想」

澤木興道氏のお弟子さんで曹洞宗の高僧の酒井得元氏の本(著作集1)を読み、感銘を受けた(平成8年に84歳で亡くなられています)。

引用します。

 

じっと静かに坐れば、人間は必ず瞑想をするものである。それが悪いとか善いとかはともかく、それがいつの間にか、その人の作業になってしまうものである。…それは結局、全身全霊を徹底的に仏に捧げたことにはならなくなっているのである。徹底的に仏に全身全霊を捧げたところには、正身端坐があるのみである。

 

ところが、全てを仏に捧げ尽した正身端坐であったはずではあるが、元来、人間が坐ったのであるからつい瞑想したり、思索したりするようなことにもなってしまう。すなわちそのような私事をするようなことになれば、その時には正身端坐ではなくなって、私事の姿勢となってしまう。

 

とかく、人間は黙坐をしておれば、自然に、何かを瞑想し、陶酔に陥るものである。…この誤りを犯さぬためには必然的に、いずれにも流され偏向することない最も正常なる正身端坐がなければならないのである。

 

以上、酒井氏の本からの引用。

 

 本当に酒井氏の言う通りだ。「人間は必ず瞑想をするもの」「つい瞑想したり、思索したり」とあるが、これは人間のクセだ。

 

 私はこれを読んで、ホッとした。「つい瞑想する」のは人間のクセなのだから、それを恥ずかしいと思う必要はない。

 

・ああだこうだ、心に何かが思い浮かんでゆく…。

・それをそのまま思い浮かばせたまま、それを気づいている心…。

・あるいは、呼吸に集中したり、体の感覚に意識を向けたり…。

・今、ここに気づいている…。

・すべての思いがなくなったような心になった…

・青空のような、宇宙空間のような、雲や何か物と次元の違う気づきの心…。

 

 こういう瞑想にふけっているのが、私たち人間のクセだ。

 そのクセを直そうとするのも、また瞑想になるわけだし、同じクセだ。

 

 この「つい瞑想」するクセはほっといて、ただ正身端坐すればよい。

 

 瞑想は雑念と同じで、死ぬまでなくならないであろう。

 瞑想や雑念があろうがなかろうが、完全にほっておいて、正身端坐あるのみ。

 

 つい瞑想してもいいじゃないか。人間だもの。

 そういうクセのある人間が、ちゃんと坐ろう。ちゃんと立とう。これだけでよい!

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イチローの言葉から(志、気持ち)

2016年08月11日 | 「ブッダの言葉」序
大リーグメジャーで、通算3千本ヒットを達成した後のイチローの言葉。

質問:現在42歳だが、今も昔も変わらずに準備を怠ることがない。どうしてここまで野球を好きでいられるのか?

イチロー:うまくいかないことが多いからじゃないですか。これが、もし成功率が7割を超えなくてはいけない競技であったら辛いと思います。3割で良しとされる技術なので、打つことに関しては。これはいくらでも自分の志といったらちょっと重いですけど、それさえあればその気持ちが失われることはないような気がしますけどね。

以上、ヤフー!ニュースより。
端的に生きる上で一番大切なことが述べられていると思います。
「なぜ準備を怠らないでいられるのか?」
「なぜそこまで好きでいられるのか?」
答え:
「うまくいかないことが多いから(失敗してダメだと思うことが多いから)」
「志、それさえあれば、その気持ちが失われることはないと思う。(志があれば、準備を怠らない気持ち、好きでい続ける気持ちが失われることはない)」

素晴らしい言葉です。
最近、私のしてる坐禅会で、孟子の「気を養う」の箇所をよく読んでいます。
孟子「志は気の帥なり。志いたれば気次ぐ。(志が気を導く。志がしっかりすれば、やる気は次いでやってくる)」

イチローのように偉業を達成する人や、オリンピックでメダルを取るような偉業を達成する人でなく、私たち普通の人でも、この志、気持ちを失わず、生きていける道があることを、孟子だけでなく、禅も、お釈迦様も語っています。
何と嬉しく、ありがたいことではないですか。
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川の中で思った不思議

2016年08月10日 | 「ブッダの言葉」序
それにしても不思議だ。

川の流れの中で、自分の手足で水をこぐ気持ちがあれば、腰もすわり、気も充実している。
それが、陸の上、つまり畳の上とか、布団の上で、寝ていると、腰抜け状態で、自分に害を与えるあり方だ。

ゆるやかな自害だ。

私が、布団の上で、寝ている時は、ゆるやかな自害をしていることは、最近気づいたのだが、川を流れてゆく時は、私は、自害を脱することができることに、今回初めて気づいた。

思い当たる理由:
陸上では、普通(自然)にしていると固まっていて、ゆるやかな自害。
「俺はこう思う(こうする)」とか「誰それの考えや方法はこうだ」とか、自分の思いや誰かの考えとかに、どうしても知らず知らず、完全にとらわれてしまっている。

それらすべてを、積極的にすべて放つ道。

昨日気づいたことで挙げると、足を完全に放たないと、腰も呼吸も、縛られている。
流れの中では、それがない(ホントびっくりした)。
椅子に座っても、いわゆる坐禅しても、寝ても、完全に足を放つことできる。

絶対に必要なのは、やる気、気持ち、意志、志、そういうもの。
(自然にしていると、ゆるやかな自害)

別に、オリンピックで金メダルをとるとか、ノーベル賞とるとかの、難しいことでは全くない。

ただちゃんと背骨を起こし(フリーにし)、妨げのない呼吸をし、生きる気持ちに充ちているだけ。

これだけのことをやっていこう。
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美山川の流れの中で思ったこと

2016年08月10日 | 「ブッダの言葉」序
昨日、美山川の川の中で味わわされた屈辱。

私が、人生で、一番エネルギーを使い、情熱を注いで探求したこと、それは、ちゃんと立ち(座り)、ちゃんと呼吸すること。

坐禅とは、ちゃんと坐り、ちゃんと呼吸することと思い、それがちゃんとできるよう努力してきた。

「腰をすえ、丹田(下腹)が充実する呼吸をすること」、これができるよう、私は、坐禅してる時、椅子に座ってる時、寝てる時、努力してきた。

できなかった。

何十年も努力して全然できなかったことが、川に流されている時は、完璧にできている。昨日、川の中で、それを確かめた。

くやしかった。

私は、人生、いったい何をしてきたのか?

「坐禅」とかいって、思い込みの中で、自分を縛り、人を縛ってきただけだった。

取り繕いのみの人生。

これまで取り繕うことだけをしてきた。自分を縛り、人を縛る。

これからは取り繕いを脱することに、すべてをかけよう。

こう美山川の流れの中で思った。
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