生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

天正寺(住職・佐々木奘堂)活動の全日程

2017年01月01日 | 天正寺

◎天正寺住職・佐々木奘堂の活動のご案内。

天正寺や京都、東京、茨城での坐禅会を中心とした活動日程は、こちらをクリックください

 禅や坐禅というのは、難しい理屈や方法というのは全然ありません。 本来もっている自分の力を発揮するようにするだけです。

 私たち人間は、普通に(自然に)していると、座っていても寝ていても、自分の力を発揮せず、知らず知らず自分を苦しめる姿勢になっていがちです。

坐禅会では、坐る(あるいは立つ)という人間の一番の基本を、
シンプルに力強く行なっていきます。
 年齢、性別、職業、経験の有無、体が硬いかどうかなどに、全く関係なく、
誰でも共に取り組んでいけますので、ぜひご参加お待ちしてます。

 
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最大の恩恵

2016年04月08日 | 「ブッダの言葉」序
「最大の恩恵」
私がこれまで50年生きてきた中で、最大の恩恵(grace)は何かと考えてみた。
もちろん、親や親族からの恩恵、教えを受けた先生や師からの恩恵、友人や共に学んだり修行した仲間からの恩恵など、実にたくさんの恩恵をこれまで受けてきた。
その中で、「このような恩恵を受けようとは夢にも思わなかった」と奇蹟と思える恩寵を一ついただいた。
それは、「勇気」だ。「疑う勇気」だ。
それも、周りの人全員(それも何千万人とかそれ以上の人々)が「当然」のことと思っていて、誰一人疑問を抱いていないことに疑いをもつことだ。これには、とてつもない勇気が要る。なぜかというと、そのような疑問を抱いた人は、たいがい迫害されたり殺されたりするからだ。
このような勇気をもって生き抜いた人が、かつてこの夜に存在した。私が知っている範囲で言えば、ブッダ(「アッタカヴァッガ」という一番古いお経でのブッダ)、聖徳太子、臨済禅師(をはじめ傑出した禅僧)、法然上人(や親鸞上人)だ。(ここに挙げた人はみな、通常思われている「仏教」という枠組みを完全に越えている。)
このような勇気が、かつてこの地球上で発揮されたこと、これを知ったことが、私が生きていく上での、一番勇気を与えてくれた。
このような疑い・勇気に、たまたま巡り会えたことは奇蹟だ。
このような凄まじい姿勢を日々新たに学んでいくことが私のライフワークだ。(狭い意味での体の姿勢でなく、生きる姿勢。)
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セブで思ったこと。

2016年04月03日 | 「ブッダの言葉」序
今、セブ島に、英語の勉強で来ています。思ったこと、考えたことなどを、英語で綴っていきます。

Maybe I am much more a product of the conditioning than I think.

Is it possible to be free from all the conditioning?

Maybe my consciousness itself is conditioned in every aspect and in every way.

It's impossible to be free from the conditioning by my consciousness.

Is there any way?
Yes, there's a way.

Let go of everything that I'm conscious of, and let it be.

Let go of everything, and stand (or sit) between Heaven and Earth.

That's the only way that I know.
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「瞑想」してきました。

2016年03月09日 | 「ブッダの言葉」序

昨日(3月8日)、「瞑想」してきました!

講師(瞑想の指導者)は小池龍之介さんでした。

その3日前に天正寺で「クリシュナムルティのDVDを見る会」を行ない、彼が「瞑想」に関して語った言葉を聞いたばかりで、こんなにもすぐにクリシュナムルティの語る瞑想の境地を体験できるとは!

今回の「瞑想」で私がした体験は、クリシュナムルティが語ったこと、そのままでした。あまりにもピタリ一致していて、逆に少しびっくりしたほどです。クリシュナムルティのことを「20世紀最大の偉人」と呼ぶ人がいるのも、よくわかります。(私にとって、同時代に生きた人の中で、仏教や禅を学ぶ上で、一番恩恵を受けているのは、クリシュナムルティです。)

クリシュナムルティほど、「瞑想」によって、「brain(脳)」や「mind(精神・心)」に、どのような影響があるかを、的確かつ明確に語った人はいないと思います。

彼が「瞑想」に関して語る言葉を原文で挙げます。

There is the meditation of the Zen Budhists. Then there is the Buddhist meditation, .

To the speaker, all that is no meditation. Because those are all the result of conniving, maneuvering. So gradually, if you practice all of those things, your brain becomes inevitably dull.

 

The practice of meditation is no meditation. Sitting on the banks and looking, you know, making the mind more and more dull, and saying Yes, I've spent an hour, marvelous.

 

意訳しますと:

「禅の瞑想(坐禅や禅定)があります。仏教の瞑想もあります。(他にヒンズー教やチベットの瞑想などいろいろあります。)

私にとっては、それらはすべて瞑想ではありません。なぜかというと、それらはすべて、conniving(黙従、企て)や maneuvering(巧妙な工夫、策略)の結果だからです。そのような瞑想を実践すると、徐々に、必ず、脳が鈍くなってきます。」

「瞑想のpractice(実践、練習)は瞑想ではありません。川岸に坐って、観察(心の目で見ること、瞑想)を行なったりしていると、精神は、ますます鈍くなってきます。ですが、本人は、「素晴らしい瞑想を一時間すごした」などと言ったりしています。」

 

ここでクリシュナムルティが語っていることは、まさに昨日の私の瞑想体験そのものです!

your brain becomes inevitably dull」「making the mind more and more dull

2回、dull(鈍い)という言葉が用いられていますが、心や脳が、ますますdullになることは「避けられないinevitably」と言っています。

私としては、私以外の人の頭が鈍くなると、別に言えません(他人の心の状態までわかりません)が、この佐々木奘堂という私自身は、瞑想を行なうと、必ず「dull」になると、ものすごく実感できています。これは昨日の2時間の経験だけでなく、これまでに千時間を超える時間、瞑想(数息観など、禅定や三昧を心がけた実践)してきてますから、「本当にクリシュナムルティのいう通りだ」と私自身に関しては完全に断言できます。

 

心を観察するのも心です。「気づき」といっても、その気づきも、ある枠内での気づきです。

ここにある盲点を、「瞑想」とか「気づき」とかで乗り越えるのは不可能です。(頭がdullになった中で、「気づきの心」みたいなのを体験できたと思い込むことは十分可能です。)

 

瞑想や禅定などによって、生きることの根本問題に取り組むことは不可能です。このことに明確に気づき、瞑想(禅定)を全く問題ない画期的な開けの中で生きたのが、ブッダであり、禅だと思います。

このようなブッダの言葉や禅が、そもそもあることに、たまたま巡りあうことができ、それを学べるというのは本当に幸いなことだと思います。

 

ちなみに、瞑想は、心理学的に大きな意味をもちますし、有用だと思います。パソコンや電車やリポビタンDのような道具であり、それらは私もよく利用しますし、恩恵を受けています。そのような、必要な人にとっては有用となる道具の一つとして、瞑想は意味をもつものと、私は本当に思っています。必要な人は用いたらいいと思います。

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私の人生の根本的間違いと、心得の条(仏教・禅・坐禅を学ぶに際して)

2016年02月18日 | 「ブッダの言葉」序

私の人生で、最もエネルギーや時間をつぎこんで、学び行じたのは、「仏教・禅」です。

「坐禅」に費やした時間も膨大です。

 

学び、行じ始めてから、約25年ほどたちます。(自分で本を読んだり、自分なりに坐禅をしていた時期を入れると30年くらいになりますが、京都の相国寺専門道場の在家修行者の坐禅の会に入会し、先輩の指導を受け、さらに老師について参禅修行をし始めてから、およそ25年です。)

 

 エネルギーや長い時間を費やしたら、ちゃんと学べるのでしょうか?

 そうは問屋がおろさないようです。

 間違った仕方で、学んでいたら、10年たっても、20年たっても、30年たっても、間違ったままのようです。

 悲しいことですが、事実そうです。

 これは、誰か他人のことを言っているのでなくて、まさに私自身が、本当に完全に間違ったまま、仏教や禅を学び、間違った姿勢のまま坐禅を行じていたんだな、と思います。

 

どのように間違っていたのか、そのポイントを4点。

 

仏教や禅を学ぶ際の根本の間違い2点。

・その1:「『仏教というのは、これこれの教えなんだ!』というような教え(物の見方や修行法など)が、どこかにあるかと思っていた。」

 私が、そのようなものを学んでも、「これが本当の仏教なんだ」と自己満足したり、人に威張ったり、独りよがりになるだけ。

 「仏教という教え」がどこかにあるかどうかでなくて、そのような私自身の姿勢自体が間違い。このことをはっきり語ってくれているのが、一番古いお釈迦さまの言葉。

 

・その2:「坐禅をして、『〜観』をするとか、『禅定に入る』とか『三昧』体験するとか、『無になる』とか『青空体験する』とか何とかかんとかの体験をして、自分が優れた人間になるとか思っていた。」

 完全な勘違い。私のような人間は、「無の体験」をしても、どんな優れた「禅定」体験をしても、それで威張ったり、独りよがりになるだけ。

 「無になる」とか「特別な境地になる」とか、すべて「依りかかり」だ。これが一番古いお釈迦さまの言葉。

 

「坐禅」での根本の間違い2点

・その3:「萎えた足で坐っていた。」

 「坐禅」というのは、足が痛くなるもの、これが当たり前、「足の痛みに耐えるのが坐禅」と思っていた。足の血流を悪くし、関節に無理をかけ痛めるようなことをしていた、これが私の坐禅だった。

 もともと、足にも、血がちゃんと流れているし、関節にも何の無理もない。そのありかたのまま坐れる、ということを全く思いもしなかった。何と、心が萎えてしまっていたことか!

 

・その4:「縮んだ腰で坐っていた。」

 私が普通に(自然に)していると、だらけて、丸まった腰。これは腰が萎縮していて、このまま時間がたつと痛くなる。

 「腰を立てるぞ」と頑張っても、実は、無理な力がかかった腰(腰がちゃんとのびておらず、縮んだ腰であるのは、先の丸まった腰の時と同様)。

 この二つの間に、「適切な腰・ちゃんとした腰があるはずと思って、努力してみたが、全然だめで、縮んだ腰のままだった。

 「こっちか、あっちか、その間か(丸まってるか、反ってるか、その間か)」では絶対に間違い通しのままで、そういうのを積極的に完全に放たないとダメと、ようやく二度のぎっくり腰の体験から気づいた。

 3と4は、「足が萎えていた」「腰が縮んでいた」という単に「体」の問題ではなく、心が萎えてしまっていたということ。「萎えない足でいられる」と、ほんの少し思うこともないくらい、心が萎えてしまっていたとは!

 

間違いから脱する心得4点

1.「この教えが仏教の教えだ」みたいのを完全に気にかけない。(そのように言っている人を否定しないこと。)

2.「禅定」「三昧」「〜観」「無になる」というようなことを完全に気にかけない。

 以上の2つは、お釈迦さまが一番古いお経で繰り返し言っていることで、ものすごく勇気づけられるので、繰り返しそれを読むべし。

 

3.常に足が萎えないように。(特にアキレス腱、足の裏を萎えさせない。)

4.常に腰が縮まないように。(丸まったままでなく、反るのでもなく、その間でもなく、元から腰全体を放ったままにする。)

 

 以上、人生50年が過ぎ、仏教や禅や坐禅を学び行じ始めてから25年たって、ようやく気づいた心得の条。

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