「禅的柔軟」と名づけて、講座をしたりしてますが、
その名前が、自分で今一だと思うと書きました。
「禅的」って、いったい何を意味するのでしょう?
実は、「これこれが禅的」みたいなものは、何もないと
私は思っています。
端的に言うと、「禅的」なんてものは本当なはいと思うのです。
すべての「何とか的」というものを、できる限り脇へのけて、
探求していく道があると私は思うようになりました。
それを強いて「禅的」と呼んだのです。
ですので、「禅的」ということが実体化されるというか、
何らかの実質があると思われると、もう禅的でなくなります。
さまざまな思い込みや、先入観、身に染み込んでいる癖、
正しいと思う方法、コツ・・・これらで私たちはみな、染まっているのが
実状だと思います。
当り前だと思っていたり、染みついていたりして自覚できないことも
多々あるのが現状だと思います。
これらをすべて自覚できるとか、抜け出ることができると、
私は全く思っていません。
ですが、生きる根本の姿勢として、自分が正しいと思うことや、
誰かの意見(ブッダとか禅僧とかいろいろ含めて)で自分が正しいと信じたこと、
これらを、できる限り、脇へ除けて生きていく姿勢は可能だと思います。
そのような姿勢を共に生きていく場を開き、
人と共に行じていきたいと思っています。
なぜこのように思うにいたったのか?
それは、禅でよく言う「調身」「調息」でさえ、いかに思い込みの
中で行なわれ、自分や人を害してしまうこともあるか・・・という
怖ろしい体験をしてきたためです。
続く・・・
●この前の文章 「禅的柔軟」の講座のご案内
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その名前が、自分で今一だと思うと書きました。
「禅的」って、いったい何を意味するのでしょう?
実は、「これこれが禅的」みたいなものは、何もないと
私は思っています。
端的に言うと、「禅的」なんてものは本当なはいと思うのです。
すべての「何とか的」というものを、できる限り脇へのけて、
探求していく道があると私は思うようになりました。
それを強いて「禅的」と呼んだのです。
ですので、「禅的」ということが実体化されるというか、
何らかの実質があると思われると、もう禅的でなくなります。
さまざまな思い込みや、先入観、身に染み込んでいる癖、
正しいと思う方法、コツ・・・これらで私たちはみな、染まっているのが
実状だと思います。
当り前だと思っていたり、染みついていたりして自覚できないことも
多々あるのが現状だと思います。
これらをすべて自覚できるとか、抜け出ることができると、
私は全く思っていません。
ですが、生きる根本の姿勢として、自分が正しいと思うことや、
誰かの意見(ブッダとか禅僧とかいろいろ含めて)で自分が正しいと信じたこと、
これらを、できる限り、脇へ除けて生きていく姿勢は可能だと思います。
そのような姿勢を共に生きていく場を開き、
人と共に行じていきたいと思っています。
なぜこのように思うにいたったのか?
それは、禅でよく言う「調身」「調息」でさえ、いかに思い込みの
中で行なわれ、自分や人を害してしまうこともあるか・・・という
怖ろしい体験をしてきたためです。
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