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生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

「禅的」とはいったい何?

2011年06月26日 | 
 「禅的柔軟」と名づけて、講座をしたりしてますが、
その名前が、自分で今一だと思うと書きました。

 「禅的」って、いったい何を意味するのでしょう?
 実は、「これこれが禅的」みたいなものは、何もないと
私は思っています。
 端的に言うと、「禅的」なんてものは本当なはいと思うのです。

 すべての「何とか的」というものを、できる限り脇へのけて、
探求していく道があると私は思うようになりました。
それを強いて「禅的」と呼んだのです。
ですので、「禅的」ということが実体化されるというか、
何らかの実質があると思われると、もう禅的でなくなります。

 さまざまな思い込みや、先入観、身に染み込んでいる癖、
正しいと思う方法、コツ・・・これらで私たちはみな、染まっているのが
実状だと思います。
 当り前だと思っていたり、染みついていたりして自覚できないことも
多々あるのが現状だと思います。
 これらをすべて自覚できるとか、抜け出ることができると、
私は全く思っていません。

 ですが、生きる根本の姿勢として、自分が正しいと思うことや、
誰かの意見(ブッダとか禅僧とかいろいろ含めて)で自分が正しいと信じたこと、
これらを、できる限り、脇へ除けて生きていく姿勢は可能だと思います。
 そのような姿勢を共に生きていく場を開き、
人と共に行じていきたいと思っています。

 なぜこのように思うにいたったのか?
それは、禅でよく言う「調身」「調息」でさえ、いかに思い込みの
中で行なわれ、自分や人を害してしまうこともあるか・・・という
怖ろしい体験をしてきたためです。
 続く・・・

●この前の文章 「禅的柔軟」の講座のご案内

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坐禅の質問「煩悩がなくならないけど・・・」への返事③

2011年03月01日 | 
●質問3
「坐禅をしていても、煩悩や妄想ばかりで、『無』や『本当の自分』になれそうにもないのですが、どうしたらいいいでしょう?」

 欲望は死ぬまでなくなることはないでしょう。

 そのような自分がどのように生きていくかということが問題です。

 「無」だとか、「本当の自分」みたいのものが、
欲望にまみれた自分とは別のどこかにあるのでしょうか?
 そもそも、「無にならないと」と思ったり、
「本当の自分」が今の自分を離れてどこかにあると思っている
ことも妄想なのではないでしょうか?
(ちなみに、「妄想」という言葉は、禅で使われた言葉で、
余計なことをあれこれ思い煩っていることを指します。
現代では病的な症状を指すようですが、普通の人に普通に起って
いることを、「妄想」と禅では千年以上前から呼んでいます。)

 欲を無くそうなどと、私は人にすすめていません。
(そもそも不可能でしょうし、良いこととも思えませんし。)

 例えば、「ただ坐るとは?」「ただ立つとは?」を真剣に修して
いくだけでも、自ずと余計な問題は跡をひそめていくことでしょうし、
「無」だとか何とかを思い煩うのは余計なことだと私は思います。
 そのようなことは全くおかまいなく、ただ坐るなどを修していけばよいと
私は思います。
 
 「欲がなくなってから」「こだわりがなくなってから」などと思っていたら、
そのような日が来る前に死んでいくことになるだろうと思います。

 貴重な今という時を、いかに生きていくかが禅の問題で、
欲望・煩悩・妄想などがあるなしにこだわることは全くないと
思います。そんなことは気にせず、ただ坐ればよいと思います。


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「体の硬い私は・・・」坐禅の質問へのお答え②

2011年02月27日 | 
●質問2
「体の硬い私は、少しの時間、坐禅の姿勢をとるだけでも、
ひどく痛くて、続けられません。このような人は、まず身体を柔軟にしてから、
坐禅したほうが良いのでは?」

 まず、痛いのを我慢して、無理に坐禅することを、私はすすめません。
私自身の体験を言いますと、かなり長い時期にわたり、
「痛さを我慢して坐るのが修行だ!」と頑なに思って修行していました。
道場での「大接心」という一番厳しい時期には、
一日10時間以上坐禅しますし、それが7日間続きます。

 その結果、私は、膝を痛め、結局、両膝を手術しています。
2回の手術、それぞれ8日間の入院、金も数十万円を使ったわけですし、
痛い思いもしますし、人にも迷惑をかけますし、何もいいことがありません。

 これは「坐禅」が悪いのではありません。

「足に悪い坐禅をした」ことが悪いのです。
「痛さを我慢して坐るのが修行だ」と思っていたことが悪いのです。

本来、坐禅は、ただ地面(床)の上に坐るだけのことで、
足に悪いものでは決してありません。
去年、インドに行き、ヨガを2日間習いましたが、ヨガの先生は、
楽々に足を組んでいまして、逆立ちしたままでも
足を楽に組んだりほどいたりしていました。
ですので、坐禅の姿勢をとっていても足に全く負担をかけず、
楽に坐っているだけです。

お釈迦さまも当然、坐禅の姿勢が楽だったでしょう。

「痛さを我慢して坐るのが修行だ!」というようなのとは全然違うでしょうし、
ましてや、痛いのを我慢した時間が長いから、
「自分は厳しい修行をして偉くなった」などと思うのは、
本末転倒もはなはだしいと思います。

 ですので、身体を柔軟にすることを私はすすめます。
 私も、膝などに負担をかける坐禅は間違いで、何もいいことがないと
わかってから、ストレッチを毎日し、股関節などを柔らかくしました。
すると坐禅は楽になります。

 ですが、ここに盲点があり、股関節がいかに柔らかくとも、
「ただ坐る」ということは、全く別の問題であることがわかってきました。
私自身、股関節はかなり開くようになった後でギックリ腰を起しました。

 また有名なバレリーナの方も、股関節や、背骨の動く範囲的には
超柔らかいですが、ヘルニアになっています。
 私自身、二人ほど、クラシックバレーをしている人を指導したことがあり、
足の開く角度や背骨の曲がる角度という意味での柔らかさと、
ただ立つ(負担をかけず、効果的に動く仕方で立つ)ことは
別の問題だと思いしりました。

 ですので、角度とか形の意味での柔軟を、はるかに超えた問題があります。
そこは、体が硬いか柔らかいかとは別の問題です。

 そのような問題があることがわかったので、私は強いて、
「禅的柔軟」という言葉を作りました。
 そこは、常に今の自分が修していくしかないものです。
 ですので、体が硬い今のままで、坐禅会に参加していただき、
共に修していければと思っています。
 股関節が柔らかくなった後に参加したら、より進歩していると
いうものでは全然ありません。
 
 坐禅は、常に今、修していくしかないものです。

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「坐禅の本質が形にないのなら・・・」の質問への返事

2011年02月23日 | 
●質問1「坐禅の本質が形でないのであれば、椅子に座るのでも良いのでは?」
 この質問にお答えします。

 確かに、禅の本質は、坐るか寝るか、立つか歩くかなどに全く関係ありません。
じっと止まっているか、動くかにも全く関係ありません。
 禅宗の実質上の最初の師ともいえる六祖は、
「禅とは、動かない(不動)とか動くとかでない」
「集中して心を見つめるとかでない」ということをはっきり述べていますし、
臨済も、
「坐禅をして精神集中して、これが修行だと思うのは、おそろしい誤りだ」
とはっきり述べています。
 ですので、坐るか寝るかさえ問題でないのですから、いわゆる坐禅の形を取るか、
椅子に座るかというような問題ではないことは、もちろんです。

 寝た姿勢か坐った姿勢かというような問題でなく、どのような形であろうと、
いかに生きているのか(どのような姿勢で生きているのか)という問題があります。
そこに禅や坐禅の問題があります。
(ですが、はじめから形に執らわれたままだと、何が問題が
見えません。)

 ここで卑近な問題で、腰痛や肩こりの問題を例にとりましょう。
よく、「人間は立つ(直立する)から、腰痛になる宿命だ」などと言われます。
もっともな感じもします。では、寝たきりだと、腰痛がないかというと全く違います。
実は、かりにずっと寝たままでいても、そのまま普通にしていると
腰痛になってしまいます。
私は、「動作法」というのを開発した人の本を最近読んでいるのですが、
その人は、多くの脳性マヒで長年寝たきりの子どもたちとも関わった人で、
その人が言うには、ほとんどの脳性マヒで寝たきりの患者さんたちは、
ひどい腰痛や肩こりで苦しんでいるのだそうです。
脳性マヒの子どもらが、そのままでいると、より腰痛が激しくなるだけで、
横たわっているだけでひどい苦痛になるのだそうです。
 ですが、いかにベッドの上で寝た姿勢でいるかの、リハビリ・訓練のような
ことをやれば、腰痛は改善します。
中には、「立つようになることはない」と医者が見放した子どもでも、
立てるようになることがあるそうです。

 ここから考えさせられるのは、人間は、寝ていても、立っていても、
普通にしていては、腰痛になる宿命だということです。
では、それが人間の宿命なら、「腰痛というありのままを受け入れよう」と思えば
いいかというと、それでは、腰痛が激しくなるだけです。
「ありのまま」「自然に」などと言っていてもダメで、
寝たきりだとしても、いかに寝た姿勢でいるかの訓練や探求がないと、
より苦痛が大きくなるだけなのです。

 ですので、人間は、「いかなる姿勢でいるか」を各自が探求しないと
いけない運命にあるように私には思えます。
 そして、その探求は、単に腰痛を改善するだけの意味にとどまらず、
「いかに生きるか」の探求でもあり、どこまでも深い意味があると思います。
 
 椅子に座るでも、坐禅の姿勢で坐るでも、その形が問題でなく、
いかなる姿勢で生きるかという問題があり、そこを私たちは探求すべき宿命に
あるように私には思えます。

 この形を超えた姿勢の探求が、坐禅の問題であると思いますし、
そこを関心ある人たちと共に探求していければと思っています。
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禅(Zen)とは?

2011年02月15日 | 
 ブログの題名に「禅」と入れましたが、禅とは一体何なのでしょう?

 私の禅との関わりは:
 私が禅に関心を持ち始めたのは大学時代で、それから25年くらいたちますし、
大学院に入ってから京都にやってきて、居士(在家の男性の修行者のこと)の
坐禅会に入ってからも、20年ほどたちます。正式に出家してからも、
かなりの年月がたちます。
 そして去年の暮れに、禅寺の住職となり、より本格的に禅を学び伝え、
関心のある方と共に行じていきたいと念願しています。

 禅とは? 坐禅とは? ということが、私がこれまでの人生で一番探求してきた
ことです。その過程で、ある種の確信も強くなってきてますし、同時に疑問も大きく
なっているのですが、その中で、いろいろと思うことを、このブログの「禅」の
カテゴリーで綴っていきたいと思います。

 禅のことを語るのが難しいのは、どこかに「禅の思想」なり、考えみたいのが
あって、それを伝える・学ぶという発想自体が、すでに禅に背いているからです。
 また、坐禅のことを伝えたり行じたりするのが難しいのは、
どこかに「坐禅」という身体の姿勢、呼吸法、瞑想法、心の集中法みたいなもの
があって、それを学ぶ・行じていくという発想自体が、坐禅に背いているからです。

 このような問題が、禅や坐禅の一番の基本にあります。

 かといって、禅が特別のものかというと、全く違います。
 私は臨済宗というのに属しているのですが、臨済禅師は、「平常」ということ
をさかんに繰り返します。禅と特殊なことだと思うのは完全な間違いで、
「平」、つまり高くも低くもなく、本当にふつうのことですし、
「常」、特別な時間でなく、いつもの日常のことです。
 特別な人のためのものではなく、私ら普通の人間が、いつも日常生きて
いる中に禅があります。(どこか他のところにはありません。)

 本当に自由で、あらゆる枠を超えています。
 「なんとか宗」「なんとか派」というのは、後になってできたグループ分けで、
臨済禅師に臨済宗を開く意志など、さらさらなかったです。
道元禅師も、「禅宗」と呼ぶことさえ、ひどく嫌いました。
 禅があらゆる宗派を超えていることは、ブッダの元々の教えが仏教や宗教を
超えていることと同様です。
(この点は、「ブッダ」のカテゴリーで書いていきます。)

 さて、私の去年・おととしと、私個人の経験からも、「禅」が、一般にも、
宗派を超え、自由なものだと考えられているのだなと思うことがありました。
 おととしの三月、東京大学の学生相談所主催で、私が講師として呼ばれ、
「心の安定と坐禅」という講座を2日間にわたりしました。
 去年は、京都大学のカウンセリングセンター主催で、8回にわたり、
「ストレスマネジメント講座 禅的ワーク」というような講座をしました。
 禅が宗派的なものだったら、このように一般の大学から呼ばれたりしない
のではないでしょうか。

 私がそこで最初に話したこと:
 「坐禅をして心の安定が得られる」というように思って、この講座に参加した
人もいるかもしれませんが、心の安定が得られるような方法とか坐禅を、
私は知りません。」
 「ストレスに対処する方法や知恵みたいのを聞こうを、この講座に参加した
人もいるかもしれませんが、私はそのようなものは知りません。
あったら私が教えてほしいくらいです。」

 普通だったら、「ストレスマネジメント講座」の講師に呼ばれて、このような
ことを言ったら、「おかしい」とクレームがつくのではないでしょうか。
 このようなことを私が言っても大丈夫なのは、「禅というのは、知識や方法を
教えたりすることを超えたものでは」と一般にもうすうす伝わっているからかな、
と思いました。
 そして実際に、知識や方法を超えたところが、いかに私たち普通の人の人生に
密接に関係していて、いかに大事なことかというのが、禅の大切なところだと思います。

 このように「禅」「坐禅」で思うところを綴っていきます。
 文章で伝えるのは限界が大きいですから、もっと実際に学ぼうと思われた方は、
大阪と東京で坐禅会をしていますから、参加してもらえたらと思います。
詳しくは、このブログのブックマークにある天正寺HPからどうぞ。
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