goo blog サービス終了のお知らせ 

生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

人生50年を過ぎての心得の条

2016年01月28日 | 「ブッダの言葉」序
◎生まれて50年が過ぎた。
今後の人生を、いかに生きていくかの心得の条。
 
 私は、本当に幸いなことに、次のような言葉に出会うことができた。
 これらは、単なる考え・方法というより、「救いの道」だ。
「この道を歩んでいこう」と確信をもって言える、どこまでも深く、実践的な「救いの道」だ。
 これを歩んでいこう。
 
それを次に記す。
 
・臨済禅師:
 枷鎖(手錠と鎖)で縛られて苦しんでいる人に対して、禅僧がさらにもう一重の枷鎖で縛りつけている。そしてお互い「歓喜」している。
 お前が「仏教」とか「禅」だと思って、学んだり行じたりしている現状が、まさにこれだ。
 
 衣は動かない。人が衣を着る。ここを間違えるな。
 
 「活発発(命のはたらき)」が、その都度の「形」を活きたものにする。ここに自由がある。
 「この形をとれば活発発となる」ような「形」はない。ここを間違えるな。
 
 「仏教」などといって、仏も菩提も涅槃も清浄などの「衣(依)」がある。
上のことを間違えるな。
 
 人が、その都度の環境に応じて心を用いていく、これが生きることだ。
それなのに、特殊な「心の状態を作り出すこと」にかまけてしまうこと、例えば、「凝心入定」「摂心内澄」などの造作にかまけることは本末転倒だ。
 
 仏、菩提、涅槃、坐禅、禅定などの縛りからフリーになって生きよ。
 
・ブッダ(アッタカヴァッガという一番古いお経):
 何かのダンマ(教え)、物の見方などを、「これが他よりも勝れた教えだ(例えば、これが仏教だ)」などと言っている。
 それがまさに「縛り」だ。
 
 「禅定に入り、これこれの境地になった(無になったとか、ありのままに観じた等)」などと言っているのが、まさに「依りかかり」(他のもの、衣で威張っていること)であり、「縛り」だ。
 
 お前は、「他のもの」、いわば「衣」を笠に着て、それに依りかかったり、威張ったりしているぞ。これがまさにお前の「縛り」だ。
 
 「このダンマが真の教えだ」とか、「禅定、三昧の素晴らしい境地を目指す」などということに、全く取り合わずに生きていけ。
(否定することも不用。ましてや人と言い争うことは害毒。)
 
(参考)・フロイト:
 何に気づくかどうか気にしなくてよいから、ただ聴け。
 気づくということから、意識的なはたらきをすべて遠ざけて、無意識の気づきに完全にまかせたらよい。

(これは単なるテクニックというより、救いの道だ。フロイトはこの言葉を、精神分析家・医師に対して述べたが、どんな人にとっても救いとなりうる道だと思う。
 私は、この言葉を私自身に向けて言われた言葉として聴き、それを全力で具体的に生きていこう。)
 
(以上、おおざっぱに引用したブッダや臨済禅師やフロイトの言葉は)
何という救いの言葉だろう!
 
 人生50年生きてきて、幸いなことに、たまたまこのような救いの言葉に出会えた。

 ただただ流されて、ダラダラ生きているのでは、この恩恵を無駄にしてしまう。
 
 短い貴重な人生、たまたまこのような恩寵に出会えたことに深く感謝して、できる限り全身全霊、この道を歩んでいこう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

50歳になっての最初の思い

2016年01月27日 | 「ブッダの言葉」序
生まれて50年が過ぎました。

今から30年くらい前に、妙好人(親鸞さんの流れの、すごい信心の深い人)の善太郎さんの書き残した次の言葉を読み、私は、何度も何度も涙を流しました。

30年たち、50になった今も、全く変わらずに感動します。この世に生まれて、このような人が存在していて、このような言葉を残していることを知ることができて、私の人生は本当に幸運でした。

このような人をたくさん生み出す元となった法然上人が、この世におられて本当に良かったです。

親鸞上人が法然上人と出会われて本当に良かったです。

感謝感謝感謝。

善太郎は 父を殺し 母を殺し
その上には 盗人をいたし 人の肉を切り
その上には 人の家に火をさし
その上には 親には不孝のしづめ
人の女房を盗み
この罪で このたびとゆうこのたびは
はりつけか 火あぶりか 打ち首か
三つに一つは どうでもこうでも のがれられん
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする