◎生まれて50年が過ぎた。
今後の人生を、いかに生きていくかの心得の条。
私は、本当に幸いなことに、次のような言葉に出会うことができた。
これらは、単なる考え・方法というより、「救いの道」だ。
これらは、単なる考え・方法というより、「救いの道」だ。
「この道を歩んでいこう」と確信をもって言える、どこまでも深く、実践的な「救いの道」だ。
これを歩んでいこう。
それを次に記す。
・臨済禅師:
枷鎖(手錠と鎖)で縛られて苦しんでいる人に対して、禅僧がさらにもう一重の枷鎖で縛りつけている。そしてお互い「歓喜」している。
・臨済禅師:
枷鎖(手錠と鎖)で縛られて苦しんでいる人に対して、禅僧がさらにもう一重の枷鎖で縛りつけている。そしてお互い「歓喜」している。
お前が「仏教」とか「禅」だと思って、学んだり行じたりしている現状が、まさにこれだ。
衣は動かない。人が衣を着る。ここを間違えるな。
「活発発(命のはたらき)」が、その都度の「形」を活きたものにする。ここに自由がある。
「この形をとれば活発発となる」ような「形」はない。ここを間違えるな。
「仏教」などといって、仏も菩提も涅槃も清浄などの「衣(依)」がある。
上のことを間違えるな。
人が、その都度の環境に応じて心を用いていく、これが生きることだ。
それなのに、特殊な「心の状態を作り出すこと」にかまけてしまうこと、例えば、「凝心入定」「摂心内澄」などの造作にかまけることは本末転倒だ。
仏、菩提、涅槃、坐禅、禅定などの縛りからフリーになって生きよ。
・ブッダ(アッタカヴァッガという一番古いお経):
何かのダンマ(教え)、物の見方などを、「これが他よりも勝れた教えだ(例えば、これが仏教だ)」などと言っている。
・ブッダ(アッタカヴァッガという一番古いお経):
何かのダンマ(教え)、物の見方などを、「これが他よりも勝れた教えだ(例えば、これが仏教だ)」などと言っている。
それがまさに「縛り」だ。
「禅定に入り、これこれの境地になった(無になったとか、ありのままに観じた等)」などと言っているのが、まさに「依りかかり」(他のもの、衣で威張っていること)であり、「縛り」だ。
お前は、「他のもの」、いわば「衣」を笠に着て、それに依りかかったり、威張ったりしているぞ。これがまさにお前の「縛り」だ。
「このダンマが真の教えだ」とか、「禅定、三昧の素晴らしい境地を目指す」などということに、全く取り合わずに生きていけ。
(否定することも不用。ましてや人と言い争うことは害毒。)
(参考)・フロイト:
何に気づくかどうか気にしなくてよいから、ただ聴け。
気づくということから、意識的なはたらきをすべて遠ざけて、無意識の気づきに完全にまかせたらよい。
(参考)・フロイト:
何に気づくかどうか気にしなくてよいから、ただ聴け。
気づくということから、意識的なはたらきをすべて遠ざけて、無意識の気づきに完全にまかせたらよい。
(これは単なるテクニックというより、救いの道だ。フロイトはこの言葉を、精神分析家・医師に対して述べたが、どんな人にとっても救いとなりうる道だと思う。
私は、この言葉を私自身に向けて言われた言葉として聴き、それを全力で具体的に生きていこう。)
(以上、おおざっぱに引用したブッダや臨済禅師やフロイトの言葉は)
何という救いの言葉だろう!
人生50年生きてきて、幸いなことに、たまたまこのような救いの言葉に出会えた。
ただただ流されて、ダラダラ生きているのでは、この恩恵を無駄にしてしまう。
短い貴重な人生、たまたまこのような恩寵に出会えたことに深く感謝して、できる限り全身全霊、この道を歩んでいこう。