生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

世界で一番もったいないことは?

2012年01月27日 | 「ブッダの言葉」序
間があいてしまってすいません。
私的な話でアレですが、実は今日、私の誕生日です。
46年間…。いったい何をやってきたのだろうと思います。

「もったいない」という言葉に、外国の方も注目して、
この言葉、海外でも知られるようになったみたいですね。

みなさん、この世で一番もったいないことは何でしょう?

それは、とても大切なもの、大事なもの、心のこもったものを、
踏みにじってしまう、無駄にしてしまうことですね。

♪ 母さんが夜なべをして 手袋編んでくれた ♪
♪ 木枯らし吹いちゃ冷たかろうて せっせと編んだだよ ♪

有名な母さんの歌です。
この手袋には、母さんの息子に対する愛情が
こもっていますよね。
例えば、ですが、その手袋を送ってもらった息子が、
「何だ、こんな安物で、下手くそな手袋、
こんなのより、デパートで買ってきたもののほうが、ずっと良い」
と、その手袋を捨ててしまったとしたら…

これは、もったいないですよね。
単に、手袋という物を無駄にした、というにとどまらず、
お母さんの愛情を踏みにじった、ことになりますね…

違う場合で、その息子が、手袋は使うけど、
お母さんの愛情は全く顧みない…というのも、
もったいない感じがしますね。

手袋という「物」といえば、単に物ですが、
それをその制作者(この場合はお母さん)の意図(愛情)を
しっかり受け取り、その物を大切に使う、感謝の気持ちで使う…
このようであれば素晴らしいですね。

なぜ、私が、このような、まどろっこしいと思われそうな話をしている
かというと、坐禅や身体のことを探求してきて、
何と私たち人間は、もったいないことをしているのか!
と愕然としたからです。
普通に、お母さんからの愛情こもった手袋を踏みにじるより
はるかにひどい、もったいないことをして、しかも全く
無自覚なのです…
これを最近痛感していますので、それを書きます。

でも、せっかくの命、今生きていること、
なろうことなら、自分で無駄に踏みにじってしまうのでなく、
大切にしたいですね。いつ死ぬかわからないわけですし。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失敗を失敗と気づくこと

2012年01月16日 | 「ブッダの言葉」序
私が、「失敗」と思っていると書いたことに
コメントをもらいました。

「失敗(あるいは間違い)を失敗(間違い)と気づくこと」
これは、実に大事で微妙な問題だと思います。

私の20年以上前から思った根本問題とも言えます。

卒論も、その問題をめぐっていますし、
京大で臨床心理学を学んだのも、その問題をめぐっていますし、
出家して禅・仏道を学んでいるのも、その問題をめぐっていますし、
そしてこのブログも、その問題をめぐっています。

ですので、そのテーマで、少し書いていきます。

ちなにみ、今日、1月16日は、私が最初についた禅の
師匠(老師)の命日です。

その老師、梶谷宗忍老師は、本当に立派な老師でした。

1995年1月16日、その老師が亡くなったという
知らせを聞きました。
その老師のもとで修行するため、その4月から、
頭を丸めることを決めていたのです。

その命日の今日、坐禅、ただ坐るということが、
わかったというか、単純なことだとわかったように思います。

人間は、本当はただ坐れるようにできているのですが、
それを知らず、坐ると足を(本当は解放されるところを
逆に)不自由にしてしまって、それが当たり前だと思
い込んでいる人がほとんどです。

ただ坐るという単純で身近で、たいてい誰でも長時間していること、
この単純なことを私のライフワークにしようと今日思いました。

梶谷老師に、そのことをお伝えして、私の誓いとしたいと思います。

でも、人間はやっかいな生き物ですね、
こんな単純で犬でも猫でもやっていることを
間違いに間違いを重ねまくって再発見しないといけないなんて…
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失敗につぐ失敗の中で

2012年01月12日 | 「ブッダの言葉」序
私自身が、大事だと思ってやってきたこと、
そして今でも大事だと思っていること。
それをやっていこうと工夫したり、努力したりすること。

これは全く悪くないことだと思えますね、当然のごとく。

その大事なことの代表として、
「まっすぐ」「腰を立てる 」「軸(コア)」
「丹田(下腹)が充実するように」

私自身、これを大事だと思って、
それを目指し、その目標に向かい、
気をつけ、努力し…とやってきました。

ですが、そのように努力してきて、
必ず妙なことになってしまったのです、悲しいことに。

明確な失敗では、ぎっくり腰になったし、
膝も壊し、両膝を手術した。
人に教える際にも問題あり、
「正しい指摘(と思ったこと)」をしても、
必ず妙なことになりました。

例えば、「腰を立てて」と指導すると、
後で「腰が痛くなった」と言われたり。
「骨盤が後傾している」という事実を指摘するだけでも、必
ず間違った努力をしてしまう…。

それで、また、違った言い方や、工夫の仕方を模索しました。
「これはいいな」といったん思えた方法や言い方でも、
やっぱりまたダメなことが後でわかり…、
またやり方言い方を変え…
あの手この手と努力しては、失敗してきました。

このように失敗に失敗を重ねて生きてきました…
失敗にまみれたまま死んでいくのか…と思ったほどでしたが、
実は最近、それまでの発想を完全に越える次元があることの確信が、
どこかからかやってきたように思えています。
続く。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私がやっていこうとすることの基本

2012年01月07日 | 「ブッダの言葉」序
年頭に際し、何とか方針演説ではないですが、
私がやっていこうとすることの基本方針を綴りたいと思います。

私が、やろうとしていくこと、それは、
どこかに、何か考え方(例えば仏教的見解とか、禅的な物の見方とか)
があって、それを伝えたり広めたりするというのではありません。

どこかに考え方や方法があって、それを伝えたり、
それに習熟していくという発想自体に潜む問題あると思います。

「何々が大事」といろいろな立場の人たちがいろいろなことを
言っています(私自身も、そのようなことを言ってきました)。
それは、それぞれ、それ相応の理や妥当性、正当性、
効果があるのだと思います。
他の人がそれを否定しても、しょうがない場合が多いですね。
私としましては、それらで争ってケンカをしても
しょうがないと思います。
ですから、何らかの考えや立場や方法を批判したり否定したり、
あるいは、「こっちのほうが妥当だ」と、
その妥当性を議論したりするのは、決着がつきそうもないことに思えます。
際限のないことですし、言ってみれば、時間の無駄となりがちです。

「何々が大事」の、「何々」の具体例として:
「まっすぐ」
「腰を立てる 」
「軸(コア)」
「上から吊られているような感じで」
「丹田(を鍛える)」
「下腹が息を吐く時に充実していくように」
「股関節から曲げる」等など…

ここに挙げたことが大事だと、よく言われています。
というか、ここで上に挙げたことは、私自身、「これは大事だと!」と、
かつて言ったことのあるものばかりです。

今でも、ここに挙げたことが重要でないとは全く思いません。
というか、大事だというのは、全くその通りだと思っています。

ですが、大事だというのは、100パーセントその通りだとしても、
実は、ここに微妙な大問題があるのです。

 ここに禅の、というか、人間の根本問題、盲点があることが、
失敗に失敗を繰り返す中で、わかってきました、と言うより、
いやおうなく思い知らされてきました。
続く。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年おめでとうござます。(遅すぎてすいません。)

2012年01月06日 | 「ブッダの言葉」序
ブログをお読みのみなさま、
新年明けましておめでとうございます。
遅くなりすいません。
今年も、ブログにおつきあいのほど、
よろしくお願い申し上げます。

昨年は、日本にとって、本当にたいへんなことが
起こった年でした。
その中で、自分にいったい何ができるのか、
どう生きていったらよいのか、
という問いを突きつけられた年でした。

私が初めて、頭を丸めた(出家修行し始めた)のは、
1995年4月1日で、その10日ほど前に起こったのが
地下鉄サリン事件でした。
「出家するとは?」の問いを、自分が思っていた以上に
その事件によって突きつけられました。

私が、住職になったのは、2010年12月21日ですが、
三ヶ月もたたないうちに、大震災が起こりました。
言葉を失うような出来事でした。

地震をはじめ、災害や災難は、いつ起こらないとも限りません。
殺人などの事件も、完全になくなる世の中になることは、
おそらくないでしょう。
私たち誰でも、いつ病気で倒れるかわかりませんし(お年寄りでも
若者でも子供でも)、どうなるかわからないまま生きています。

ただ一つ確実なことは、そう遠くない未来に、死ぬということだけです。
どんな予言がすべて外れても、数十年後になるか明日になるかは全然
わからないとしても、必ず死ぬということだけは確実です。

この確実な事実を、真剣にこの身に受けとめながら、
虚無的にならずに、与えられた命を、できるだけ無駄にせず、
本来の力をできる限り発揮して生きていく道は、
誰でも必ず歩んでいけるものだと私は信じています。

今日が最後の日になるとして、自分はいったい、どう?
いったい自分は何を求めているのか?
何が人にとって、本当に満足なのか?

禅僧として、というか人間として、
生きている限りは、できる限りを尽くしたいと思います。
(といっても、実際は、虚偽、でたらめにまぎれていますが。)

どうぞ今年も、おつきあい、よろしくお願い申し上げます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする