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生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

要するに、「どや顔」をしたいのか!

2011年05月31日 | 仕組まれた自由
 自分が、無自覚に、首かせや鎖で人を縛りつけているかも・・・
の問題は、重すぎる問題ですね。

 臨済が繰り返し、つきつけている問題ですが、
「臨済宗の修行をすれば」とか、「坐禅すれば」とか、
何々すれば克服できるとは必ずしも言えない問題であることは
確かです。
 また、自分以外の誰かにその問題を見てとっても、
しょうがないことですし、自分自身に向けられた言葉、問題として
自分の身に引き受け、取り組むことが大切だとは言えると思います。

 今日の禅的柔軟の講座に、ヨガの先生が参加されてました。
インドでヨガ修行して、資格を取った方です。
私が、去年、インドにいった時、二日間ヨガを習った経験も
話しました。そのインドのヨガの先生、お腹をものすごく凹まして、
さらに一部だけ膨らまして、その膨らました部分を自由に動かしたり・・・
これをしながら、「どや! すごいだろ!」という顔をし、
「写真とれ」とか「触ってみろ」と言います。
 要するに、普通の人ができない特殊なことを身につけ、
「どや顔」をしたいのか・・・みたいなことを思いました。
 このことを今日話すと、ヨガの先生が言うには、
インドのヨガの先生は、そういう傾向(どや顔傾向)は
よくあるということでした。

 私が思うに、インドに限らず、禅宗の僧侶、老師でも同じですね。
呼吸法で膨らんだお腹や、足痛いの我慢したことや、
何やかんやで自慢して、
「要するに、どや顔をしたいのか」と思わざるをえないこと多く経験しました。

 この問題は、いくら長年禅修行しても、老師になっても、
まったく手つかずのまま残りがちに思えます。
 このことも「枷鎖」で待ちかまえながら無自覚であることの元に
あるように思えます。
 人のことでなく、自分自身にある問題ですね。
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「枷鎖を担いでいる奴」――臨済の言葉

2011年05月29日 | 仕組まれた自由
 臨済は、別の個所でも、次のように言っています。
等妙二覚担枷鎖漢 ・・・

書き下し文
等妙の二覚は枷や鎖を担いでいる漢

意訳
等妙の二覚(という境地に達した修行僧)は、
枷や鎖を担いでいる奴らだ。

 「善知識(老師)」が、元々首枷や鎖で拘束されている修行僧に、
さらに首枷・鎖で縛りつけることをしているという臨済の言葉を引用しました。
 この個所でも、立派な境地に達し、証明を得た修行僧(等妙二覚)が、
枷や鎖をかついでいて、すきあらば、他の人を、枷や鎖で、
縛りつけようとしている人たちだと言うのです。

 前回の引用で、臨済は、仏や菩薩のこともぼろ糞に言っていましたが、
ここでも、仏や菩薩や、等妙二覚を、けなしているのでなく、
そういうものに執らわれ、自分で自分に枷鎖をつけている
私たちに向けて語っています。
(臨済の言葉を、自分以外の誰かの悪口を言っているように
受け取ったら、全くトンチンカンです。)

 私は、最近、臨済のこの言葉を読み、
私自身が、枷や鎖を担いでいて、坐禅会に参加者などを、
縛りつけて、自由を奪っていることをしているのではないか、
と思えてきました。

 「多くの人が坐禅会に参加してほしい」と思い、
「参加者のためになれば」と善意のようなことを思いながら、
実は、枷・鎖をもって、待ちかまえているのかもしれないと思いました。

 クモが網を張って、かかった餌を食ってしまうように、
私も、枷鎖で、餌を待ちかまえ、かかった餌(参加者)を
台無しにしているのではないかと思えてきました。

 本当に怖ろしいことです。

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「仏は便器 菩薩は枷鎖」――臨済の言葉

2011年05月27日 | 仕組まれた自由
 枷鎖で縛られた修行者が老師に教えを請い、
老師はご丁寧にも、さらにもう一重の枷鎖で縛りつけるという
臨済が見た当時の光景(現在まで同じ)を見ました。
 では何が、枷(首かせ)、鎖(手錠、手かせ足かせ)なのでしょう?
臨済録の別の個所から。
(岩波文庫『臨済録』入矢訳注、137ページ)
莫将仏為究竟 我見猶如厠孔
菩薩羅漢尽是枷鎖 縛人底物

書き下し文
仏をもって究竟となすことなかれ
我見るに、なお厠孔のごとし
菩薩羅漢はことごとくこれ枷鎖

意訳
仏を究極(最高)のものと思うんじゃない。
私が見るところでは、便器みたいなものだ。
菩薩や羅漢はすべて、人の自由を奪い
縛りつけるような首かせや鎖だ。

 仏が便器(便壺)???
 菩薩(観音様や文殊菩薩など)は、首かせ・鎖???
(羅漢とは、初期仏教などで悟りを得た僧というような意味)

 いったいどういうことでしょう?
「臨済は、仏や菩薩の悪口を言っている」と受け取っても
しょうがないと思います。
 そうではなくて、私たちが、
「仏はすごい」
「菩薩は偉くて、私たちを助けてくれる人」
などと思っていること自体、
「自分で自分を縛りつけているぞ」と言っているのです。

 ここに非常に微妙で大事な問題があります。
続く・・・
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無縄自縛――縄が無いのに自縛している私たち

2011年05月25日 | 仕組まれた自由
 臨済の言葉を見てきました。
結局、誰か、自分以外の誰かが、
見せかけの自由を仕組んでいるのでなく、
自分が、自分自身を縛っているのに、気づいていないという
のが根本にあるということです。

 臨済は、
「無縄自縛(むじょうじばく)」とも語っています。
 縄がないのに、自分で自分を縛っているということです。

 例えば、強盗に襲われ、縄で縛られて、動けない状況なら、
助けに入って、縄をほどいて自由にすることが可能ですね。
 ですが、誰かに縛られているわけでもないのに、縄が無いのに、
自分で、「縛られてるー」と思い込んでいる人がいるとしたら・・・

 この人は、どのように助けられるでしょう?

 「無縄自縛」という言葉、
縄が無いのにもかかわらず、自分で自分を縛っている
(縛られていると思い込んでいる)――これは実に怖ろしいことだと
思いませんか?

 実は、私たちは、多かれ少なかれ、さまざまに
無縄自縛の状態で生きているのではないでしょうか?

 怖ろしいのは、縛られた不自由な人を解放し、自由にするはずの
宗教でさえ、「縄」となって、人を「縛る」ものとなってしまいがちなことです。

 臨済は、別の個所でも、「枷鎖」を語ります。
いったい何が、首かせ、手足を縛る鎖だと、臨済は言っていると思いますか?

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自由を仕組んでいるのは誰か?

2011年05月23日 | 仕組まれた自由
 臨済の言葉から、「仕組まれた自由」の問題をみてきました。

 学人(修行者)も、老師(善知識)も、善意で、熱意もって修行しても、
臨済から見ると、首や手足に枷や鎖で縛られた人が、さらに枷鎖を
つけられているのにもかかわらず、共に「歓喜」しています。

 修行者も老師も共に、それなりに善いことをし、自由であると思っており、
枷や鎖で縛ったり縛られたりしているとは、つゆ思っていないわけです。

 通常、「仕組まれた自由」という場合、「仕組んだ側」の人たちがいますね。
例えば、権力者や支配者階級が、労働者や支配される側の人たちに、
そこそこの自由や娯楽などを与えて、「それなりに自由にできている」と
思わせながら、実は強力に自由を奪っている場合などです。
 このような例は、いたるところで見られることだと思います。

 臨済が見た修行者と老師の間の出来事では、
誰が「自由を仕組んでいる」のでしょうか?
 善知識(老師)が仕組んでいるのでしょうか?
 私はそう思いません。善知識も善意で熱心にやっており、自分が
枷や鎖で念入りに拘束しているとは思っていないでしょう。

 もっとも、善知識によっては、意識しながら、
自由を仕組んでいる状況もありえます。
 過去の例で言えば、例えば、浄土真宗でも、僧侶は、
「善知識」と呼ばれます。浄土真宗の篤信な信者さんで、
実に素晴らしい人(主に在家信者)を「妙好人」と呼びます。
妙好人は、善知識側に逆らうことはないし、欲が少なく、
寺側にお布施や貢物をする場合も多いですから、
寺側にとっては、実に得になる人らです。
 それで、浄土真宗の善知識側は、妙好人を宣伝しながら、
信者たちを、反抗せず、おとなしくお上の言うことに従うように
仕向けたと思われるふしがあります。
 これなど善知識側が「意図的に仕組んだ自由」ですね。
 このような例は、世俗の団体だけでなく、真宗でも禅宗でも
どの宗教団体にも見られることだと思います。

 ですが、臨済がここで述べている風景は、善知識が仕組んだ自由
と違いますね。善知識自身が、首かせ手かせ足かせで拘束されている
のに気づいていないという風景です。
 これは誰が仕組んだのでしょう?
 臨済宗の宗派の管長? そんなことないでしょう。

 続く・・・

●関連する文章 禅宗でいう「坐禅」とは?

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