自分が、無自覚に、首かせや鎖で人を縛りつけているかも・・・
の問題は、重すぎる問題ですね。
臨済が繰り返し、つきつけている問題ですが、
「臨済宗の修行をすれば」とか、「坐禅すれば」とか、
何々すれば克服できるとは必ずしも言えない問題であることは
確かです。
また、自分以外の誰かにその問題を見てとっても、
しょうがないことですし、自分自身に向けられた言葉、問題として
自分の身に引き受け、取り組むことが大切だとは言えると思います。
今日の禅的柔軟の講座に、ヨガの先生が参加されてました。
インドでヨガ修行して、資格を取った方です。
私が、去年、インドにいった時、二日間ヨガを習った経験も
話しました。そのインドのヨガの先生、お腹をものすごく凹まして、
さらに一部だけ膨らまして、その膨らました部分を自由に動かしたり・・・
これをしながら、「どや! すごいだろ!」という顔をし、
「写真とれ」とか「触ってみろ」と言います。
要するに、普通の人ができない特殊なことを身につけ、
「どや顔」をしたいのか・・・みたいなことを思いました。
このことを今日話すと、ヨガの先生が言うには、
インドのヨガの先生は、そういう傾向(どや顔傾向)は
よくあるということでした。
私が思うに、インドに限らず、禅宗の僧侶、老師でも同じですね。
呼吸法で膨らんだお腹や、足痛いの我慢したことや、
何やかんやで自慢して、
「要するに、どや顔をしたいのか」と思わざるをえないこと多く経験しました。
この問題は、いくら長年禅修行しても、老師になっても、
まったく手つかずのまま残りがちに思えます。
このことも「枷鎖」で待ちかまえながら無自覚であることの元に
あるように思えます。
人のことでなく、自分自身にある問題ですね。
の問題は、重すぎる問題ですね。
臨済が繰り返し、つきつけている問題ですが、
「臨済宗の修行をすれば」とか、「坐禅すれば」とか、
何々すれば克服できるとは必ずしも言えない問題であることは
確かです。
また、自分以外の誰かにその問題を見てとっても、
しょうがないことですし、自分自身に向けられた言葉、問題として
自分の身に引き受け、取り組むことが大切だとは言えると思います。
今日の禅的柔軟の講座に、ヨガの先生が参加されてました。
インドでヨガ修行して、資格を取った方です。
私が、去年、インドにいった時、二日間ヨガを習った経験も
話しました。そのインドのヨガの先生、お腹をものすごく凹まして、
さらに一部だけ膨らまして、その膨らました部分を自由に動かしたり・・・
これをしながら、「どや! すごいだろ!」という顔をし、
「写真とれ」とか「触ってみろ」と言います。
要するに、普通の人ができない特殊なことを身につけ、
「どや顔」をしたいのか・・・みたいなことを思いました。
このことを今日話すと、ヨガの先生が言うには、
インドのヨガの先生は、そういう傾向(どや顔傾向)は
よくあるということでした。
私が思うに、インドに限らず、禅宗の僧侶、老師でも同じですね。
呼吸法で膨らんだお腹や、足痛いの我慢したことや、
何やかんやで自慢して、
「要するに、どや顔をしたいのか」と思わざるをえないこと多く経験しました。
この問題は、いくら長年禅修行しても、老師になっても、
まったく手つかずのまま残りがちに思えます。
このことも「枷鎖」で待ちかまえながら無自覚であることの元に
あるように思えます。
人のことでなく、自分自身にある問題ですね。