生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

欲望――快を求め不快を避ける

2011年07月06日 | 思ったことなど
 欲望の問題、これはブッダの言葉で語られている二つの根本テーマの一つです。もう一つのテーマは、人間がどうしても避けられない先入観・思い込み・思い上がりの問題です。
ブッダの言葉、アッタカヴァッガは、人間が生まれてから死ぬまで変わることのない、実に当たり前のことを述べた言葉で始まります。

 人は望んだことが叶えられると喜び、それが叶えられなかったり、不快な目にあうと苦しんだり悩んだりする。人は快を求め、不快を避けようとする。

 ブッダは、「何でこんな当たり前のことを」と思えるほど、当たり前のことから語りだします。動植物や、おそらく赤ちゃんの頃には、この当たり前のことを当たり前に生きるだけで、そこに何の疑問も抱かないのでしょう。
 もちろん大人になっても、このことを抜け出ることはできません。ですが、欲望をめぐる当たり前のことに、自分自身が疑問を感じ始めるところが、人間の妙なところであり、悲惨なところでもあり、そしてまた尊さの可能性を秘めたところでもあり、そこから宗教的なものもつながります。


 ベトナムにきて、このブッダの言葉の最初を思ったきっかけ:ベトナム式マッサージを受け、とても心地よいものでした。快は嬉しい、と当たり前のことを実感しました。もちろんこれはこれで良い、というか是非もありません。
 私も柔軟や体操、坐禅の指導で、「無駄な力を避け、できるだけ楽に」「心地よい感じで」と言ったりします。ですが、不快を避け、快を求めるのが目的ではないです。「赤ちゃんのような感じで」と言ったりもしますが、赤ちゃんの状態が目的ではありません。微妙な問題あります。

 ベトナムからフエに向かう飛行機の中で書き、フエからUP。
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ベトナムから

2011年07月06日 | 思ったことなど
 ハノイ近郊のハロン湾上でクルーズを楽しみました。
ハロン湾には数千もの様々な形の岩が突き出ていて、
その合間をクルーズしていきます。

 そのうちの一つに上陸しますと、岩山の中は鍾乳洞で、
中を歩きました。
自然というのは、やはりすごいですね。
二億年かけて、できたとのことです。

 私は山も大好きですが、海も大好きです。
何か無限の底知れないものを感じます。
(本当は大自然だけでなく、人間や社会も
無限の底知れないものがうごめいてますが、
私たち人間が、どうしても、勝手に
自分の杓子定規な見方で見てしまうのでしょうね。)
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ベトナムへ行ってきます

2011年07月03日 | 思ったことなど
明日、早朝からベトナムへ行ってきます。ベトナムからも随時ブログ更新する予定です。
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「悪い」と批判すること

2011年07月02日 | 思ったことなど
 悪いこと、間違いを改め、良い方向、正しい方向に向かって
努力する・・・このことが大事である。
私もそう思います。

 ですが、ここに、それ以上の、何か重大な盲点が
潜んでいる場合が多いように思えます。

 私自身、例えば、「悪い坐禅」をして、膝を痛め手術しましたし、
「悪いストレッチ」をして、ぎっくり腰になりました。
当時、「悪い坐禅」「体に悪いストレッチ」を人にも教えており、
人にも害を及ぼしていたと思います。
 当時の、悪い仕方や、悪い方法や、あるいは悪いものを教えていた
自分自身や他の人を批判する・・・ここに大事なことがある。
それはそうなのですが、何か盲点があるようにも思います。

 イギリスの詩人オーデンAudenの言葉から。

悪い本を読んだとて、その本の悪口を書くことは
時間の無駄であるだけでなく、自分の品性にもかかわる。
もそ、悪口を書くとしたら、それは自分自身の問題であり、
その動機は、こんなバカな(悪い)やつがいて、
自分はもっと優れていると示そうとしているにすぎない。

 考えさせられる言葉です。
ここでは、「悪い本」と、「本」のことで言われてますが、
これは本に限らず、もっと幅広く、
「考え」「行動」「人間性」「過去の歴史」「過去の自分」など、
何に言い換えても、いいように思います。
批判や悪口を言う対象が何であれ(自分であれ、他人であれ、物であれ)、
それに関わらない、根本の問題があるように思います。

 例えば、私が、過去の自分の失敗の悪口を書くとき、
それは一理あるとしても、その根本の動機に、
「過去の自分はこんなバカなことしたけど、今の自分は
もっと優れていると示そうとしているにすぎない」
ということが、潜んで盲点になってることが多いように思います。

 難しい問題ですね。

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「過去の過ち」を抹消すること――「おひさま」を見て

2011年06月30日 | 思ったことなど
 今日のNHKテレビ小説「おひさま」を見ましたでしょうか?
 時は、戦争が終わった翌月の昭和45年9月です。
 ヒロインの井上真央は、学校の教師をしています。
 「生涯忘れることのできない授業」をしたといいます。それは・・・

 国からのお達しがあり、先生が生徒に指示をし、
使っている教科書の「間違いの個所」を、墨でぬって消させていきます。
軍国教育的な部分を抹消していったようです。

 先生の井上真央は、生徒たちに、あやまります。
 「先生が、これまで、みんなに教えてきたことは、誤りでした。」

 生徒たちが、墨で消していくのを見ながら、
「消されていくのは自分自身なんだ・・・」と思ったと述べていました。

 見ていて、何とも、心がつらくなるシーンでした。

 確かに、戦争で、日本が、たくさんの大きな過ちを犯したのは事実です。
 ですが、その過ちを、「墨で抹消」できるのでしょうか?

 本当の過ちは、いったい何だったのか?
 いったい自分は今、何をしているのか?
 よくよく自分自身のことを思わない限りは、単に、
国からのお達しや、先生の指示で、「墨で抹消」しても、
本当の過ちに気づき、良い方向に向かっていくことは、
できないのではないでしょうか?

 私は、僧侶なので、僧侶たちの、戦中戦後の振る舞いを、
少し読んだりしましたが、
戦時中は、国からの勧めに従い、「鬼畜米英」
「アメリカ人、イギリス人は、鬼だ、畜生だ!」と講演をしていた僧侶が、
戦後は、うって変わって、「民主主義が大切です」と講演している例もあります。
 これがはたして、「過ち」を改めて、「正しいこと」に向ったのでしょうか?
 単に、国など、自分より大きな力に迎合して、
ただ流されているだけかもしれません。
(そして、そのような姿勢自体が、戦争を起した奥に潜む
より大きな問題なのかましれません。)

 この問題は、戦争に限らず、人が、というより、
私自身が犯してきた過ちと、私自身が、いかに向き合うかという問題でもあります。

 続く・・・
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