スッタニパータの第4章アッタカヴァッガと、第5章が、とりわけ古いお経で
あることを述べました。
特にアッタカヴァッガに関して強く思うことですが、
私たちが、「これが仏教の基本だ」として教えられるようなことが、
成立するより前のお経です。
「四諦」「八正道」「十二縁起」「戒定慧」「三宝(仏法僧)」などが、
仏教の根本と思っている人も多いと思いますが、
それらは、ブッダの死後に、だんだんと時を経る過程で、
紆余曲折しながら、形成されていったようです。
(詳しくは、中村元先生などの本を読んでください。)
もちろん、その後の仏教理論が仏教だと確信した上で、
アッタカヴァッガを読むと、その中に、その後の仏教理論の
萌芽を見出すことも可能でしょう。
思い込んで物を見れば、そのように見えてくる・・・ということは、
実際にあることです。
実際、アッタカヴァッガを解説したお経は、それなりの仏教理論が
形成された後のもので、その物の見方から、アッタカヴァッガを
解説しています。その人たちには、そのように見えるわけです。
ただ、アッタカヴァッガでは、「物の見方」自体が大問題になっています。
「先入観をもって、物を見ると、そのように見えてしまう、
はたしてこれを乗り越えることができるのでしょうか?」ということが、
本当に痛切に問題となっています。
ですので、その後の、仏教理論を忘れてというか、少なくとも脇へ置いて、
できるかぎり、素直にブッダの言葉を、自分自身に語られてた言葉として
読んでいくことが大事だと思います。
ブッダ自身は、特別な専門用語も仏教用語も使わず、
当時の日常語しか使っていません。
私たちも、日常語として、その言葉を自分に語られた言葉として
耳を傾けていけばよいのです。
このシンプルなことを、ひたすらシンプルにしていくこと、
このことがいかにすごいことか!
これは私の人生での最大の驚きです。死ぬまで汲み尽くせないものが
ここにあります。
共に、ただシンプルなことをシンプルにしていくことをしていければと思います。
このシンプルなことをしていくことが、イコール、自分の既に無自覚に
もっている先入観をはらっていくというか、先入観だったことに気づいて
いく過程となると思います。
●この前の文章 アッタカヴァッガ(ブッダの言葉)に関して
あることを述べました。
特にアッタカヴァッガに関して強く思うことですが、
私たちが、「これが仏教の基本だ」として教えられるようなことが、
成立するより前のお経です。
「四諦」「八正道」「十二縁起」「戒定慧」「三宝(仏法僧)」などが、
仏教の根本と思っている人も多いと思いますが、
それらは、ブッダの死後に、だんだんと時を経る過程で、
紆余曲折しながら、形成されていったようです。
(詳しくは、中村元先生などの本を読んでください。)
もちろん、その後の仏教理論が仏教だと確信した上で、
アッタカヴァッガを読むと、その中に、その後の仏教理論の
萌芽を見出すことも可能でしょう。
思い込んで物を見れば、そのように見えてくる・・・ということは、
実際にあることです。
実際、アッタカヴァッガを解説したお経は、それなりの仏教理論が
形成された後のもので、その物の見方から、アッタカヴァッガを
解説しています。その人たちには、そのように見えるわけです。
ただ、アッタカヴァッガでは、「物の見方」自体が大問題になっています。
「先入観をもって、物を見ると、そのように見えてしまう、
はたしてこれを乗り越えることができるのでしょうか?」ということが、
本当に痛切に問題となっています。
ですので、その後の、仏教理論を忘れてというか、少なくとも脇へ置いて、
できるかぎり、素直にブッダの言葉を、自分自身に語られてた言葉として
読んでいくことが大事だと思います。
ブッダ自身は、特別な専門用語も仏教用語も使わず、
当時の日常語しか使っていません。
私たちも、日常語として、その言葉を自分に語られた言葉として
耳を傾けていけばよいのです。
このシンプルなことを、ひたすらシンプルにしていくこと、
このことがいかにすごいことか!
これは私の人生での最大の驚きです。死ぬまで汲み尽くせないものが
ここにあります。
共に、ただシンプルなことをシンプルにしていくことをしていければと思います。
このシンプルなことをしていくことが、イコール、自分の既に無自覚に
もっている先入観をはらっていくというか、先入観だったことに気づいて
いく過程となると思います。
●この前の文章 アッタカヴァッガ(ブッダの言葉)に関して