生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

「体の硬い私は・・・」坐禅の質問へのお答え②

2011年02月27日 | 
●質問2
「体の硬い私は、少しの時間、坐禅の姿勢をとるだけでも、
ひどく痛くて、続けられません。このような人は、まず身体を柔軟にしてから、
坐禅したほうが良いのでは?」

 まず、痛いのを我慢して、無理に坐禅することを、私はすすめません。
私自身の体験を言いますと、かなり長い時期にわたり、
「痛さを我慢して坐るのが修行だ!」と頑なに思って修行していました。
道場での「大接心」という一番厳しい時期には、
一日10時間以上坐禅しますし、それが7日間続きます。

 その結果、私は、膝を痛め、結局、両膝を手術しています。
2回の手術、それぞれ8日間の入院、金も数十万円を使ったわけですし、
痛い思いもしますし、人にも迷惑をかけますし、何もいいことがありません。

 これは「坐禅」が悪いのではありません。

「足に悪い坐禅をした」ことが悪いのです。
「痛さを我慢して坐るのが修行だ」と思っていたことが悪いのです。

本来、坐禅は、ただ地面(床)の上に坐るだけのことで、
足に悪いものでは決してありません。
去年、インドに行き、ヨガを2日間習いましたが、ヨガの先生は、
楽々に足を組んでいまして、逆立ちしたままでも
足を楽に組んだりほどいたりしていました。
ですので、坐禅の姿勢をとっていても足に全く負担をかけず、
楽に坐っているだけです。

お釈迦さまも当然、坐禅の姿勢が楽だったでしょう。

「痛さを我慢して坐るのが修行だ!」というようなのとは全然違うでしょうし、
ましてや、痛いのを我慢した時間が長いから、
「自分は厳しい修行をして偉くなった」などと思うのは、
本末転倒もはなはだしいと思います。

 ですので、身体を柔軟にすることを私はすすめます。
 私も、膝などに負担をかける坐禅は間違いで、何もいいことがないと
わかってから、ストレッチを毎日し、股関節などを柔らかくしました。
すると坐禅は楽になります。

 ですが、ここに盲点があり、股関節がいかに柔らかくとも、
「ただ坐る」ということは、全く別の問題であることがわかってきました。
私自身、股関節はかなり開くようになった後でギックリ腰を起しました。

 また有名なバレリーナの方も、股関節や、背骨の動く範囲的には
超柔らかいですが、ヘルニアになっています。
 私自身、二人ほど、クラシックバレーをしている人を指導したことがあり、
足の開く角度や背骨の曲がる角度という意味での柔らかさと、
ただ立つ(負担をかけず、効果的に動く仕方で立つ)ことは
別の問題だと思いしりました。

 ですので、角度とか形の意味での柔軟を、はるかに超えた問題があります。
そこは、体が硬いか柔らかいかとは別の問題です。

 そのような問題があることがわかったので、私は強いて、
「禅的柔軟」という言葉を作りました。
 そこは、常に今の自分が修していくしかないものです。
 ですので、体が硬い今のままで、坐禅会に参加していただき、
共に修していければと思っています。
 股関節が柔らかくなった後に参加したら、より進歩していると
いうものでは全然ありません。
 
 坐禅は、常に今、修していくしかないものです。

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声の衝撃――シャリース

2011年02月26日 | 音楽
私は歌が好きです。

 日本人で断トツですごいと思うのは、やっぱり、
美空ひばりですね。生前、コンサートに行って、生の声を聴きたかったなぁ、
と残念に思います。

 尾崎豊も好きです。
 尾崎と私は、学年としては一緒で、尾崎が昭和40年11月生まれ、
私は、その2か月後です。
 私が尾崎を熱心に聴くようになったのは、彼が亡くなってからです。
尾崎の生前に、コンサートに行っていたらなぁと、DVDを見るたびに思います。
私が普通に予備校生活、大学生活を送っている間に、
「何てすごいことを尾崎はしてたんだ!」と驚きます。
尾崎は、1992年4月25日に26歳で亡くなっています。

 尾崎が死んで2週間後の5月10日、フィリピンで、
シャリース(Charice)という名前の女の子が誕生しました。
今18歳、高校3年生にあたります。

 シャリースの歌声は本当にすごいです。
 ユーチューブで火がつき、
アメリカの番組番組に出たのがブレークするきっかけになってます。




 ユーチューブで聴くだけで、感激します。
「人間にこんなことができるなんて!」と思わず涙がこぼれたりします。


 去年の夏に、初来日しまして、私は、お台場まで聴きにいきました。
 そこでは前座扱いでした。

 この2月、日本で単独のコンサート。
 昨日、大阪でのコンサートに行ってきました。
 大感激です。

 シャリースは、変な作為なく、自然に声を発しているように思えます。
美空ひばりでもそうですが、本当に歌を、その内容を、声を聴かせるって感じで、
作為やテクニックを超えたとこで、歌の感動が伝わってきますよね。
シャリースもまさにそうです。(鍛錬や技術があるのは言うまでもないことですが)

 例えば、「い」の音を出すとき、口とか頬が、
ちょっと不自然な開き方をしがちですが、
シャリースは、普通に口をあけて、「い」でも「え」でも出しています。
よく合唱する人が、高い音域を出すときに、頬をあげて、
普通とは違う表情になりがちですが、
シャリースは、普通の感情がこもった表情で歌います。






 発声や呼吸でも、シャリースから、
ものすごく学んでいくことができると思います。

 シャリースの歌を聴くと、私は、体の無駄な力がぬけ、
呼吸が変わってくる感じがします。
シャリースのように歌おうとすることも、呼吸や発声を、
すごく変えてくれるように思います。
 「作為でないあり方での探求」「人間が誰でもできる本来の発声・呼吸」
という点でも、シャリースから無限に学んでいけるように思えています。

 私が思うのは、実は、普通の私らでも、シャリースのような、
変な作為でない声の出し方、呼吸を追求することができるのでは、って思います。
 私が坐禅で探求している姿勢や呼吸も、何の作為でもなく、人間本来のものを、
ただただ単純にやっていければと思います。


 そういうことはさておき、シャリースの歌に出会えて良かったと私は思ってます。

 アジア人初で、アメリカのアルバムのトップ10に入りましたが、
「みんなからもらったパワーだし、アジア人として、みんな力強くやっていこう!」
というようなことを昨日言ってました。

 シャリースは、「日本が好きだ」と昨日言ってました。
 また日本に来てくれるでしょう。楽しみです。

●この記事の続き シャリースの投げたスティックをゲットしました!
参考 榊邦彦さんのブログ
 
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本物に触れることの大切さ

2011年02月25日 | 思ったことなど
 「これはすごい! 本物だ!」と驚いた経験は、
みなさ、どのくらいありますか?

 私は本物に触れることは、人生でものすごく大事なことだと思っています。
 偽物(にせもの)や、似せた物、それっぽいもの
だけしか触れていないと、本当に満足できないですよね。
 ともすると、それっぽいもの、「なんちゃって」みたいなもの
なのに、それが蔓延してると、つい本物だと思い込んでしまっている
ことって多いように思えます。

 仏教でも禅でも、「本当の師につくことが大切だ」と強調されます。
 禅では、修行者は「雲水」といいます。行雲流水の略で、
行く雲、流れる水のように、本当の師を求めて、道を求め歩むことです。

 通常は、「それっぽいもの」に囲まれているので、
本物に出会うことは、すごい衝撃になるのでしょう。
逆に、本物に出会って、衝撃を受け、それで初めて、
「これまで、それっぽいものしか知らなかったんだな」と
気づけるように思います。

 本当のものや人に出会うと、
「誰でも、本当のとこを生きることができるんだ」
と勇気をもらえるように思います。

 私がブログのタイトルに挙げた、ブッダも禅も、ものすごい衝撃ですし、
パルテノン神殿にある彫刻も、
モーツァルト作曲のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」も、
私はものすごい衝撃を受けました。

 私のこのブログでも、私自身、本物に触れたいし、
それを伝えていきたいです。
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敷居は低くしたいです

2011年02月23日 | 思ったことなど
 このブログは、といいますか、私のやることすべては、
敷居は低いのが私の念願です。

 専門用語や難しい修行のことを言うつもりは全くなくて、
誰にでもわかる日常語で語り、
誰にでもできることを、共にしていきたいというのが
私の念願です。

 ブッダの一番古い言葉アッタカヴァッガも日常語だけですし、
最初期の素晴らしい禅僧方も、臨済禅師、六祖禅師など、
日常語でしか説いていません。(もちろん私たち日本人にとっては
漢文ですが、当時の日常語だけで語られていると思います。)

 私が開いている坐禅会も、日常語だけで話し、
誰にでもできる動きや姿勢をしていこうと思っていますし、
それだけで本当に大事なことが探究できると確信していますので、
このブログや坐禅会に、今のままの自分で参加していただくと、
とても嬉しく思います。
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「坐禅の本質が形にないのなら・・・」の質問への返事

2011年02月23日 | 
●質問1「坐禅の本質が形でないのであれば、椅子に座るのでも良いのでは?」
 この質問にお答えします。

 確かに、禅の本質は、坐るか寝るか、立つか歩くかなどに全く関係ありません。
じっと止まっているか、動くかにも全く関係ありません。
 禅宗の実質上の最初の師ともいえる六祖は、
「禅とは、動かない(不動)とか動くとかでない」
「集中して心を見つめるとかでない」ということをはっきり述べていますし、
臨済も、
「坐禅をして精神集中して、これが修行だと思うのは、おそろしい誤りだ」
とはっきり述べています。
 ですので、坐るか寝るかさえ問題でないのですから、いわゆる坐禅の形を取るか、
椅子に座るかというような問題ではないことは、もちろんです。

 寝た姿勢か坐った姿勢かというような問題でなく、どのような形であろうと、
いかに生きているのか(どのような姿勢で生きているのか)という問題があります。
そこに禅や坐禅の問題があります。
(ですが、はじめから形に執らわれたままだと、何が問題が
見えません。)

 ここで卑近な問題で、腰痛や肩こりの問題を例にとりましょう。
よく、「人間は立つ(直立する)から、腰痛になる宿命だ」などと言われます。
もっともな感じもします。では、寝たきりだと、腰痛がないかというと全く違います。
実は、かりにずっと寝たままでいても、そのまま普通にしていると
腰痛になってしまいます。
私は、「動作法」というのを開発した人の本を最近読んでいるのですが、
その人は、多くの脳性マヒで長年寝たきりの子どもたちとも関わった人で、
その人が言うには、ほとんどの脳性マヒで寝たきりの患者さんたちは、
ひどい腰痛や肩こりで苦しんでいるのだそうです。
脳性マヒの子どもらが、そのままでいると、より腰痛が激しくなるだけで、
横たわっているだけでひどい苦痛になるのだそうです。
 ですが、いかにベッドの上で寝た姿勢でいるかの、リハビリ・訓練のような
ことをやれば、腰痛は改善します。
中には、「立つようになることはない」と医者が見放した子どもでも、
立てるようになることがあるそうです。

 ここから考えさせられるのは、人間は、寝ていても、立っていても、
普通にしていては、腰痛になる宿命だということです。
では、それが人間の宿命なら、「腰痛というありのままを受け入れよう」と思えば
いいかというと、それでは、腰痛が激しくなるだけです。
「ありのまま」「自然に」などと言っていてもダメで、
寝たきりだとしても、いかに寝た姿勢でいるかの訓練や探求がないと、
より苦痛が大きくなるだけなのです。

 ですので、人間は、「いかなる姿勢でいるか」を各自が探求しないと
いけない運命にあるように私には思えます。
 そして、その探求は、単に腰痛を改善するだけの意味にとどまらず、
「いかに生きるか」の探求でもあり、どこまでも深い意味があると思います。
 
 椅子に座るでも、坐禅の姿勢で坐るでも、その形が問題でなく、
いかなる姿勢で生きるかという問題があり、そこを私たちは探求すべき宿命に
あるように私には思えます。

 この形を超えた姿勢の探求が、坐禅の問題であると思いますし、
そこを関心ある人たちと共に探求していければと思っています。
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