生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

つい瞑想

2016年09月20日 | 「ブッダの言葉」序

「つい瞑想」

澤木興道氏のお弟子さんで曹洞宗の高僧の酒井得元氏の本(著作集1)を読み、感銘を受けた(平成8年に84歳で亡くなられています)。

引用します。

 

じっと静かに坐れば、人間は必ず瞑想をするものである。それが悪いとか善いとかはともかく、それがいつの間にか、その人の作業になってしまうものである。…それは結局、全身全霊を徹底的に仏に捧げたことにはならなくなっているのである。徹底的に仏に全身全霊を捧げたところには、正身端坐があるのみである。

 

ところが、全てを仏に捧げ尽した正身端坐であったはずではあるが、元来、人間が坐ったのであるからつい瞑想したり、思索したりするようなことにもなってしまう。すなわちそのような私事をするようなことになれば、その時には正身端坐ではなくなって、私事の姿勢となってしまう。

 

とかく、人間は黙坐をしておれば、自然に、何かを瞑想し、陶酔に陥るものである。…この誤りを犯さぬためには必然的に、いずれにも流され偏向することない最も正常なる正身端坐がなければならないのである。

 

以上、酒井氏の本からの引用。

 

 本当に酒井氏の言う通りだ。「人間は必ず瞑想をするもの」「つい瞑想したり、思索したり」とあるが、これは人間のクセだ。

 

 私はこれを読んで、ホッとした。「つい瞑想する」のは人間のクセなのだから、それを恥ずかしいと思う必要はない。

 

・ああだこうだ、心に何かが思い浮かんでゆく…。

・それをそのまま思い浮かばせたまま、それを気づいている心…。

・あるいは、呼吸に集中したり、体の感覚に意識を向けたり…。

・今、ここに気づいている…。

・すべての思いがなくなったような心になった…

・青空のような、宇宙空間のような、雲や何か物と次元の違う気づきの心…。

 

 こういう瞑想にふけっているのが、私たち人間のクセだ。

 そのクセを直そうとするのも、また瞑想になるわけだし、同じクセだ。

 

 この「つい瞑想」するクセはほっといて、ただ正身端坐すればよい。

 

 瞑想は雑念と同じで、死ぬまでなくならないであろう。

 瞑想や雑念があろうがなかろうが、完全にほっておいて、正身端坐あるのみ。

 

 つい瞑想してもいいじゃないか。人間だもの。

 そういうクセのある人間が、ちゃんと坐ろう。ちゃんと立とう。これだけでよい!

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