生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

4月からブログをリニューアル(再編成)します!

2011年03月31日 | 天正寺
 ブログを始めてから、一か月半ほどたちました。
 自分の人生と同じく、ブログも試行錯誤の繰り返しですが、
より読者の方に、わかりやすく、大事なことが伝えられるよう
努力していきたいと思います。

 「禅的柔軟」と題名に入れていましたが、
身体や姿勢の動き、柔軟に関しては、
アメブロで、別に立ちあげたブログで取り組んでいきたいと思います。

 このブログでは、ブッダの言葉(アッタカヴァッガという最も古いお経に
記された、お釈迦様自身のものと思われる言葉)を中心に、
イエスや臨済禅師、法然上人、親鸞上人など、
生きる力や勇気を与えてくれ、志が奮い立つような言葉を
取り上げていきたいと思います。
 その他、その時々で思った大事だと思うことも
綴っていきます。(身体関連のことや、芸術・音楽関連のことは、
アメブロのほうで綴っていきます。)

 毎日更新するよう努力しますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。
コメントなどいただけると、たいへんありがたいです。
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勇気が奮い立つ言葉(2)――ブッダの言葉

2011年03月30日 | 「ブッダの言葉」序
 私がブッダの言葉を聴いて、どのように勇気づけられたのか、
それに関して思うところを書きます。

 私たちが現に生きている世界は、
思い込み、偏見、執らわれ、無自覚、
(自分や他人への)押し付け、(他人や社会などからの)強制、不自由・・・
これらのもので満ち溢れていると思います。
 
 これは、自分自身もまた、これらに満ちていて、無自覚で、
(自分や他人に)押し付け、不自由にしているという面が
多々あると思います。

 そのような自分自身でありながら、
そのような現状、社会の真っただ中に生きながら、
一番身近な問題に取り組んでいく気迫、勇気、
これが私がブッダの言葉から学んだ一番大切なことで、
これは生きている限り、常に新たに学んでいくことだと思います。

 もしブッダの言葉(アッタカヴァッガ)にであってなかったら・・・
と思うと、ゾッとします。
 もし出会ってなかったら、
「ブッダの説いた教え(仏法)はコレコレのものだ!」
「ブッダの説いた修行法(精神集中や瞑想、呼吸法など)はコレコレのものだ!」
という、ものすごい強制・押し付けの中で、
小さく不自由に生きているままだったと思います、しかも無自覚に。
 さらには、自分が、人に対して、
「ブッダの説いた教え(法)や正しい修行法はコレコレだ!」と強制
したいたことでしょう。自分で正しいと信じたまま、無自覚に。

 教えや方法などに関する信念や押し付けが蔓延しているのは、
仏教の世界だけの問題ではなく、学校でも職場でも国家でも、
どこにでも蔓延している根本問題だと思います。
 これは自分自身につきまとっている問題ですから、
どこにいても問題になるのだと思います。

 そのような根本問題の中で、いかに生きていくか、
本当に勇気をもって立ち向かっていく気迫、
これがブッダの言葉から学んでゆける最も尊いことだと、今の私は
思っています。
 共に学んでゆきましょう。

●この前の文章
 勇気が奮い立つ言葉――ブッダの言葉

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勇気が奮い立つ言葉――ブッダの言葉

2011年03月29日 | 「ブッダの言葉」序
 今、大震災で、日本が本当に大変なことになっています。
 被災された方への援助を、政府も民間も個々人も、それぞれが
できる限りのことをするよう一つになって頑張ることが、
これほど大事である時はないと思います。

 住まいや食糧や医療など、数多くの大事なものがありますが、
どのような状況にあっても、生きる勇気や希望のようなものも、
ものすごく必要なことだと思います。

 そのことを思い、イエスや親鸞上人の言葉を紹介しましたが、
このブログのメインテーマである「ブッダの言葉(アッタカヴァッガ)」も、
本当に勇気を与えてくれる言葉です。

 ブッダは、「王様の長男」として生まれたと言われています。
それほど大きくはない部族の支配者の息子として生まれたことは
確かなようです。
 当時のインドでは、貧富の差は、超大きく、
ブッダは、豪邸で、夏用・冬用の別荘などをもち、女中さんも
たくさんいる、何不自由ない生活だったのです。
(本当に超豪華な生活をしたいたことを記しているお経もあり、
実際にそうだったと考えられています。)

 ですが、ブッダは、その生活を、自ら捨て、
無一物になって、道を求め、修行したのです。
 「ブッダの言葉(アッタカヴァッガ)」の中で、
共に修行する弟子に対して、次のようにブッダは語っています。

 「昨日は寝苦しかったなー」とか、「今日は、どこで寝たらいいんだろう?」
などということに思い煩っていてはいけません。

 ブッダや弟子たちは、住む場所ももたず、食糧も人からの恵みで、
暮らしていたのですから、当然、寝苦しい日もあったでしょうし、
寝る場所や食糧で、苦しかった日も多かったことでしょう。
 ですが、いわゆる衣食住よりも、はるかに大切な何かを
求め、生きている気迫や勇気がみなぎっています。
そのような生きる勇気がみなぎり、人生で本当に大事な
問題で切々と悩み求めているので、衣食住の思い煩いは、
比較的ささいなものであったのでしょう。

 また、ブッダに出会った人たちは、
「この人に出会って、人生で本当に大事なものを探求して生きていける」
という感動と喜びの中で、それまでの衣食住の満ち足りた生活を
自ら捨て、ブッダと共に、修行の生活を歩んでいくことを決意する人も、
出てきたのでしょう。

 私たち現代人は、生きたブッダに出会うことができないのは残念ですが、
さいわい、「アッタカヴァッガ」という、本当にブッダが語ったと確信できる
言葉が残っています。
 ブッダの言葉は、私たち各自が本来もっている生きる勇気や
希望のようなものを奮い立たせてくれる力をもっていると思います。
 ともに耳を傾けていければと思います。

●関連する文章
 目の前にいる相手に切々と語りかけたブッダ

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目の前にいる相手に切々と語りかけたブッダ

2011年03月28日 | 「ブッダの言葉」序
 ブッダは、物の見方自体をも根本の問題としながら、
現に目の前にいる人に、本当に切々と語りかけています。

 周知のようにブッダは、一言も書き記すことをしませんでした。
ただただ目の前にいる人に切々と語りかけ、対話をしただけです。
 アッタカヴァッガをはじめ、残っている文書は、
ブッダの死後、ある程度の時を経てから、書き記されたものです。

 ブッダは目の前にいる人に直接語りかけているのですが、
もしブッダに語りかけられた人が、余所事、他人事、あるいは一般論として
受け取ってしまうとしたら、直接対面してのやりとりの中で躍動しているものが、
失われてしまうことでしょう。

 この問題は、ブッダの言葉を読んでいこうとする私たちにも全く同じ問題です。
私たち各自が、「ブッダは~~の見解を説いた」というように一般論として
受け取る場合には即座にすれ違ってしまうような言葉が語られています。
 自分自身に語りかけられた言葉として切々と聞く中で
はじめて取り組める問題がここにあります。
そのような仕方で初めて、先に挙げた「物の見方」に関する根本問題が
自分自身の問題として取り組んでいけると思います。

 私たち各自が、いかに生きていくか、どのように問題に
取り組んでゆくかは、どこまでもその個々人の姿勢・態度が
問題となることです。
 ですが、私たちは、おうおうにして、
「誰がどう言った」「何派の考えではコレコレ」などと、
フラフラと外の考えをアレコレするだけで、腰を落ち着けて、
自分のこととして取り組むということが、お留守になりがちだと思います。
 あるいは、自分の癖や、信念にこりかたまり、そのこと自体が問題を
作っているのに、それに気づかないままでいることも、普通にあることです。

 このような根本問題をもっている私たちに、直接に語りかけているのが
ブッダの言葉です。

 私たち各自が、ブッダの言葉を、自分自身に語りかけられた言葉として
耳を傾けていく中で、自分自身の足元にある問題に取り組んでゆくことで、
本当に充実した人生を送る第一歩となると思います。
 どんなに地位や名誉や金があったとしても、自分自身の足元にある問題に
背いたままでいては、本当に充実した生き方をすることはできないと思うからです。
 
 この手引きとなるよう、できる限りのことをしたいと思います。

●関連する文章
 物の見方の問題

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みこころのままに――人生の極意

2011年03月27日 | 思ったことなど
 西田幾多郎が、イエスのゲッセマネでの祈りや、親鸞上人の言葉を、
「宗教の極意」と述べていることを紹介しました。
 
 この「みこころのままに」「あなたまかせ」
「(浄土に行くか地獄に行くかなど)全く知らない」などの言葉に、
天災や人災で、いかに悲惨な現実を生きていようとも、
本当に力強く生き、死んでいける極意があるように思います。

 ここで、コメントでいただいた質問、
「ほんとの祈りって、自分のためではなく、
どこまでも『あなたの望みのため』なんでしょうか」
に一言、お答えします。

 この「あなたの望み」の「あなた」を、特定の個人や団体と
受け取ると、微妙な問題があるように思います。
 「あなたのためを必死に思ってる・・・」
 「誰それの幸せだけを本当に思っている・・・」
と、本当に自分で思っていたにもかかわらず、
後になって、結局は、「私の望むことを押しつけていただけかも」と
気づくような体験は、多くの人がしているのではないでしょうか?

 恋愛中、あるいは片思いでいるときなど、
「本当にあなたのことを思っている」と自分で深く信じていますが、
「自分の所有欲や、自分の思うままにしたい欲望に
色づけられていたなー」と、後になって気づくことはよくありますね。
 また例えば、親が、本当に「子どものため」を思って必死に、
育てることは、本当に尊いことですが、
「あなたのためを思って言ってるんでしょ!」「うるせーなー」みたいな
葛藤も、多くの人が経験することだと思います。

 こういうことを、私は悪いことだとは全然思っていません。
人間の逃れられない宿命のようなもので、
「自分のためか」「人のためか」「金のためか」「夢のためか」
混じり合って、よくわからないまま生きているのが、
私たちの実情だと思います。

 イエスは、ご自身が、「この杯を取りのけてください」と
神に祈っていることからもわかるように、
「自分の望みを押し殺せ」とは決して言っていません。
ありがたいことです。
 自分の望みがあるのは、それはそれとして、
「だけど、みこころのままに」と祈っているのです。
 ここで、イエスも自分にとって不可知な「みこころのままに」
と祈っているので、本当の祈りなのだと思います。
(もしイエスが、「神の望みはコレコレだ」と知っていると思い込んで
祈っていたら、イエスも、「頭でっかちな人」になってしまいます。)

 ちなみに、私が、「身体」のことで探求してきて、その極意も、
実は、「私が欲することでなく、あながた」という祈りのようなものである
ことを発見しました。
 続く・・・
●この前の文章
西田幾多郎『善の研究』の最後の段落



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