ヨルダン川にやってきました。(2012年9月6日)
ここは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場所です。
(ヤルデニットという場所。ガリラヤ湖南端の
ヨルダン川が始まるところから、300メートルほどの所。)
頭まで完全に川に浸かりました。(7,8回くらいかな。)
ここで思ったこと。
イエスは別に、キリスト教徒になるために
洗礼を受けたわけではありません。
別に自分が教祖になるために洗礼を受けたのでもありません。
新しい宗教or宗派を創ろうとしたのでもありません。
本当の宗教、人生を生きようとしただけでしょう。
ブッダの言葉で一番古いもの(アッタカヴァッガ)を
読むとわかりますが、ブッダは、
「私が説くダンマ(法)はコレコレだ」
などと決して説いていません。
仏教的な物の見方とか、
ブッダが推奨する修行法などを説いていません。
全く別次元で、直接に、私らを含め、目の前にいる人に、
切々と語っています。
このことに端的にぶつかっていないまま、
「ブッダの説いた法(物の見方や修行法や戒)は何か?
それは他の法に比べて、どのように優れてい るか?」
と思って、ブッダの言葉(アッタカヴァッガ)を読んでも、
トンチンカンなことになるだけです。
(ブッダが他の法の悪口ばかり言ってる人 になってしまったり、
自分の正当性を頑なに主張している人になってしまったり等とう。)
こういうのをすべて放って、ブッダの言葉に耳を傾けていきましょう。
私は、今日、ヨルダン川にて、自分での自分なりの洗礼のつもりで、
ここに来ました。
強い言い方をすれば、これまでの自分に死に、新たな命に生きる、と願って。
何に死んだか?
次のようなものを妄想をにぎっていた自分に死ぬこと。
つまり:
ブッダの説いた修行法は何々である、というようなことを、
自分が言うことも、人が言ってることに難癖つけることも、一切やめる。
ブッダの説いた物の見方はコレコレである、ということを、
自分が言うことも、人が言ってることに難癖つけることも、一切やめる。
坐禅とは何か? 禅とは何か? に関しても、全く同様。
(コレコレの物の見方が禅的だ、とか、本当の坐禅はコレコレだ、
とか一切やめる。)
「どこどこに意識して、何々しましょう」をやめる。
ただ放つ、まかせる。
(ただ立つ、坐ることですら、そうなんです。)
それゆえ、ただ立つ、坐るということが、不思議の用(はたらき)となります。
できた・できないということを超えて、無限の行となります。
それで結局、ギリギリの言葉:
こちらの思いはからいを一切捨て、すべて放って、坐っていきましょう。
これで何が不足か?
何が不安か?
このように生き、行じていきたいと思います。
ここは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場所です。
(ヤルデニットという場所。ガリラヤ湖南端の
ヨルダン川が始まるところから、300メートルほどの所。)
頭まで完全に川に浸かりました。(7,8回くらいかな。)
ここで思ったこと。
イエスは別に、キリスト教徒になるために
洗礼を受けたわけではありません。
別に自分が教祖になるために洗礼を受けたのでもありません。
新しい宗教or宗派を創ろうとしたのでもありません。
本当の宗教、人生を生きようとしただけでしょう。
ブッダの言葉で一番古いもの(アッタカヴァッガ)を
読むとわかりますが、ブッダは、
「私が説くダンマ(法)はコレコレだ」
などと決して説いていません。
仏教的な物の見方とか、
ブッダが推奨する修行法などを説いていません。
全く別次元で、直接に、私らを含め、目の前にいる人に、
切々と語っています。
このことに端的にぶつかっていないまま、
「ブッダの説いた法(物の見方や修行法や戒)は何か?
それは他の法に比べて、どのように優れてい るか?」
と思って、ブッダの言葉(アッタカヴァッガ)を読んでも、
トンチンカンなことになるだけです。
(ブッダが他の法の悪口ばかり言ってる人 になってしまったり、
自分の正当性を頑なに主張している人になってしまったり等とう。)
こういうのをすべて放って、ブッダの言葉に耳を傾けていきましょう。
私は、今日、ヨルダン川にて、自分での自分なりの洗礼のつもりで、
ここに来ました。
強い言い方をすれば、これまでの自分に死に、新たな命に生きる、と願って。
何に死んだか?
次のようなものを妄想をにぎっていた自分に死ぬこと。
つまり:
ブッダの説いた修行法は何々である、というようなことを、
自分が言うことも、人が言ってることに難癖つけることも、一切やめる。
ブッダの説いた物の見方はコレコレである、ということを、
自分が言うことも、人が言ってることに難癖つけることも、一切やめる。
坐禅とは何か? 禅とは何か? に関しても、全く同様。
(コレコレの物の見方が禅的だ、とか、本当の坐禅はコレコレだ、
とか一切やめる。)
「どこどこに意識して、何々しましょう」をやめる。
ただ放つ、まかせる。
(ただ立つ、坐ることですら、そうなんです。)
それゆえ、ただ立つ、坐るということが、不思議の用(はたらき)となります。
できた・できないということを超えて、無限の行となります。
それで結局、ギリギリの言葉:
こちらの思いはからいを一切捨て、すべて放って、坐っていきましょう。
これで何が不足か?
何が不安か?
このように生き、行じていきたいと思います。