生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

円覚寺での覚悟(2017年7月23日)

2018年01月19日 | 「ブッダの言葉」序

円覚寺での覚悟

去年(2017年)の7月23日、私は円覚寺に行き、横田老師と藤田一照さんの講座に参加しましたが、この日は私にとって、実に貴重な日となりました。

私の覚悟が定まった日といいますか、覚悟が定まるに至るきっかけが明確に始まった日でした。

どのような覚悟か?

「腰骨(腰椎や仙骨等)を、前傾過ぎでもなく、後傾過ぎでもなく、その中庸の位置で、自分の感覚を研ぎ澄まし、体からの声を丁寧に聴いていく実践で、きちんと坐れる(正身端坐できる)」ということに関しての明確な覚悟です。

私は上記の実践をしながら、漱石の言葉「あんた、中腰でまごまごしていて不愉快じゃないかい?」という心の声が聞こえてきた。

また、「あんた、最も大切な要素を忘れている」という別の声も心に響いてきた。

 

私は全くその通りだと思った。

「今しているような中腰でまごまごしているのを何十年どんなに真剣に続けようとも、この中腰まごまごという生きる姿勢は絶対に脱することができないし、最も大切な要素を忘れたまま一生を終えてしまう」と覚悟した。

 

別の姿勢・言葉が私の目に、私の耳に、私の心にまざまざと響いてきた。

お釈迦さまの言葉だ。

「ジャーナーミ、パッサーミ、タテーヴァ、エータン(如実に知る・見る)」

ありのままに見て、ありのままに知る実践をしていく、このことで清らかになる、と信じて多くの修行者は実践している。したい人はしたらよかろう。だけど私は、そんなことを絶対にしない。

いろいろなダンマ(教え)があるけど、「私はこのダンマ(教え)を信じる(または説く)」などということを、私は絶対にしない。

 

お釈迦さまの、何というすさまじい覚悟の言葉だろう。

何というすさまじい姿勢でお釈迦さまは生きたことだろう。

このお釈迦さまのすさまじい姿勢・言葉が私にまざまざと響いてきた。

 

臨済禅師も言う、「凝心入定というような坐禅は、外道の教えだ」。

馬祖禅師も言う、「心を凝らし、定を取ることは不用だ」。

道元禅師も言う、「学道に、受想行識は不用だ」。

 

「腰を前過ぎと後ろ過ぎの間あたりで、体の声を丁寧に聞きながら実践していく」などをやっていても、永遠に正身端坐(正しい姿勢)できることはない。

お釈迦さまが言うように、「ありのままに見て、ありのままに知って」をどんなに真剣にどんなに長い時間続けても、「見て、知って、だから何なんだ?」

 

こういう行を、すっぱりやめよう。

その覚悟が定まると同時に、命の躍動を活きる道が開ける。

この覚悟で生きていこう。

(このような覚悟をきめるきっかけを与えてくださった円覚寺という場所、横田老師、一照さんには、本当に深く感謝しています。すべての縁に感謝。2018年1月19日記す。)

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東京での坐禅会と忘年会

2017年12月11日 | 「ブッダの言葉」序

昨日は東京(と牛久)での坐禅会、
そして忘年会でした。

忘年会は、ちょうど良い大きさの
暖かい感じの部屋で、貸し切り状態で、
ゆっくり・じっくり・活気がある雰囲気で、
とても良かったでした。

 

参加された齋藤さんが、私が話したことの要点を、
実にうまくまとめてくださいましたので、
下に引用させていただきます。

今年最終の奘堂さんのご指導は
「弾機(バネ)・ノビ、(つまり生命のはたらき」
が常に活発な姿勢(在り方)」
誰にでも絶対可能にシンプルにご指導してくれました。

和尚の言葉に、
『私たちは普通(自分の思う自然)にしていると、
委縮し、
体が緊張して反り、
歪んでしまい、
そのため苦痛が起こります。
手かせ足かせを自分ではめて生きているようなものです。
本来もっているバネ・ノビを常に躍動させて
生きる道があります。
この縛りから脱して生きていきませんか。

(以上、引用終わり)

自分が思うままにしていると、実は、
委縮し、歪み、苦しみが起ってしまう…
というのが人間の大問題だと思います。
この縛りを脱して、命を活かして生きる道あります。

ちゃんと体と心のreadiness(準備状態、覚悟)が
しっかりしているあり方を継続することです。

この「良い準備状態」は、
「誰にでも絶対可能」で、とてもシンプルです。

命ある限り、生を害さず、養い、
しっかり生きていきたいと、あらためて思いました。

来年は1月14日(日)です。
一緒に歩もうと思われた方は、
ぜひご参加お待ちしてます。

 
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円覚寺の大方丈で私の心に鳴り響いた言葉

2017年07月24日 | 「ブッダの言葉」序

「あんたら、何、探り探り坐ってるんだ!
あんたら、最も大切なものを忘れている。」

 昨日、鎌倉の円覚寺大方丈にて、円覚寺派管長の横田南嶺老師と、私の友人である藤田一照さんの対談&坐禅ワークショップがあった。(午後1時から5時まで、4時間にわたり、お二人の対談、一照さんのワークショップ、そして坐禅、参加者同士の話し合いなど)
 
 この4時間ずっと、冒頭に挙げた言葉が、私の心に鳴り響いていた。
 実に気迫に充ちた力強い言葉だった。

この言葉の元:
数日前、たまたま銭湯でかかっていたテレビで、シンクロの井村コーチが、ロンドンで、教え子に語った言葉が紹介されていた。
「あんたら、何、探り探り泳いでるの? オリンピックは、自分の持っているものを全部出し切る場なんや!」
私は、この言葉が、私に直接言われたように思えて、思わず涙があふれてきた。

もう一つ。33年前の3月、高校を卒業する頃、ヤマキという同級生から言われた。
「お前ら、最も大切なものを忘れている!」
私が、それは何かと聞くと、ヤマキは言った。
「それは気迫だ!」

最近、ヤマキから言われたこの言葉が私の心から離れない。

この言葉は、直接には井村コーチやヤマキの言葉だが、実は、ある「神」が、彼らの口を借りて、私に直接語りかけてきているように思える。

 その神さまは、古代ギリシャの彫刻家の手を借りて、具体的な姿として、現存している。パルテノン神殿(現在はロンドン)のディオニュソスだ。演劇や酒の神さまだ。

私は、去年も今年も、その神の前に出るため、海外に行ってきた。スマホの待ち受けも、パソコンの背景画像も、パルテノンのディオニュソスだ。

この神が、私に語りかける言葉が、はっきりしたことが、昨日の円覚寺での最大の恵みだ。

「何、探り探り坐ってるんだ!
お前は、最も大切なものを忘れている。」

昨日、円覚寺の大方丈でしたように、坐禅も良かろう。仙骨を前後に動かしたり感じたりするワークショップも良かろう。
あるいは、仕事したり、勉強したり、スポーツしたり、休憩したりすることも良かろう。
あるいは、麻雀したり、酒を飲んだりするのも良かろう。

私は、ここに挙げたことが、「つまらないこと」だとは、決して思っていない。それぞれ大切なことだろう。

ただ、坐禅するにせよ、麻雀するにせよ、仕事するにせよ、酒を飲むにせよ、休憩するにせよ、何をしている時でも、「最も大切なもの」がある。

探り探り坐っているのは、ただマゴマゴしているだけである。
「前か後ろか、その間か…」などとマゴマゴしている時に、完全に忘れ去られてしまっている「最も大切なもの」が明確にある。
これは、誰でも持っているもので、しかも誰でも自在に使用できるものだ。

この完全に具足していて使用自在なものを、ちゃんと用いよ。

今、自分の持っているもの(持ち前)を、ちゃんと発揮して坐れ。
仕事している時でも、休憩している時でも、坐禅している時でも、何をしている時でもだ。

「そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。」(昨日の午前中にした坐禅会で参加者に紹介した小林秀雄の言葉)

この気迫&意志を、不断に救い出すことに努力していこう。
白隠禅師のいう「不断坐禅」を不断に行じていくことをもって、私の人生としよう。
感謝。

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一番大切なことは?

2017年06月17日 | 「ブッダの言葉」序
天正寺で、坐禅会をメインに活動していますが、
そこで一番大切に思っていることを書きます。

天正寺に来る人が、
事業主か雇われている人(従業員)か、
会社の社長か部長か平か、
公務員か民間か、
大きい会社か小さい会社か、
学生か、フリーターかニートか無職か、
なとのことは、全く問題にしません。

それらは、すべて、
社会的立場、肩書き、
いわば「衣」です。

「衣を脱げ(その社会的立場を捨てろ=辞職しろ)」と言うつもりは全然ありません。
「衣(社会的地位等)がつまらないものだ」という思いも全くありません。

ただ、お寺では、それら一切の衣は、全然問題にしません。
 
一切の衣を脇へ置きませんか?
(一切の衣を脇へ置いたところに立ち返りませんか?)

このことだけが、私が住職をしている禅寺での基本中の基本と思っています。

ただ「脇へ置く」だけですので、
衣を捨てろとか、どうしろというのでありませんから、
難しいことは何もありません。

どういう教えを信じているか、例えば、
仏教徒か、キリスト教徒か、他の宗教の信者か、あるいは無宗教か、
なども(社会的地位と同様)「衣」かと思いますので、
それらの衣に関しても一切問題にしません。

また、社会的地位だけでなく、
「悟りの境地に達した」だの
「無になった」だの、
そういう「心の境地」というような「衣」も
寺では全く問題にしません。

「そのような一切の衣を脇に置いて立つ(脇へ置いたところに立ち返る)」、
これだけを唯一の基本としています。

これが趙州のいう「主人公」、
臨済のいう「随処に主となる」かと思います。
(繰り返しますが、ここでの「主」は、
社会的立場が、雇われている身=従業員か、事業主か
の問題とは何の関係もありません。)

このような教え(ブッダや臨済禅師)に出会えたことは、
本当に生きる勇気を内からみなぎらせてくれるものだと
私自身、実感しています。

このような言葉を常に学びながら、力強く生きていこうではありませんか?
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「落ち着いた心」を目指すこと

2017年06月17日 | 「ブッダの言葉」序
「落ち着いている心の状態を目指すのが仏教」でしょうか?

もしそうだとしたら、
仕事をしている時よりも、
風呂にはいったり、
コーヒーを飲んだり、
親しい友人と一緒にいる時のほうが、
はるかに心が落ち着いていますね。

これって、仏教かどうかとなんの関係もないような気がしますが、
どう思われますか?

「風呂につかっている時はお釈迦さまの心に近く、
病気で苦しんでる時や、仕事でアクセクしてる時はお釈迦さまの心から遠い」
のだとしたら、「は?」って思いませんか?

これだと責任ある仕事をして忙しい人は救われず、
裕福で余暇を楽しんでいる人が、ブッダの心の実践者
みたいになってしまいますね。

あわただしい仕事中であろうが、
重い病気で苦しんでいようが、
どんな苦境にあろうが、
生きる力強さの元となる何か、
力強くやり抜く勇気を与えてくれる何かのほうが、
はるかにはるかにはるかに大事ではないでしょうか?

私にとって、
お釈迦さまの言葉(アッタカヴァッガ)や、
臨済禅師など禅の言葉は、
まさにそのようなものです。

どんな逆境にあっても、どんな仕事をしている時でも、
常に持ち前を発揮して生き抜く姿勢、
強いて言えばそれが「坐禅」かと思います。
(別に坐禅と呼ぶかどうかは二次的な問題ですので、呼ばなくてもかまわないですが)

「どの教えが正しいか」とか、
「これこれの境地になった」などは、
相対的な次元のことではないでしょうか?

そのようなあらゆる相対的なものを脇へおいたところに立ち返りませんか?

ここに、持ち前を発揮して生き抜く姿勢の秘密があります。

このような力強い生き抜く姿勢(=坐禅)を、
関心ある方、共に行じていきましょう。
(どのような心の状態になるかとか、脳波やセロトニンがどうかなどに関しては
私は天にすべてをまかせて、気にすることをやめています。)

ここで書いたことは、私が人生で学んできた中で、最も大事なことです。
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