岩切天平の甍

親愛なる友へ

機中の人

2007年07月27日 | Weblog

ニューヨークへ、機中の人となる。

最近は専ら大江健三郎漬け、“ゆるやかな絆”と言うエッセイをのんびりと。この中で「自分の文章は読みにくいとよく批判を受ける。」と書いているのを読んで思い出した。
以前、新聞に氏と各国の知識人との往復書簡が連載されたことがあった。
一般読者に読ませることを知りながら高尚な引用だらけで、訳文と言う事もあってか、当時の僕にはあまりに読みにくく、途中までがんばったのだけどもついに断念してしまった。 学者同士の個人的なやり取りなら良かろうが、 「これはいったい不親切な知識のひけらかしじゃないか。」と、腹をたて、友人にもそう言った事を覚えている。
先日、本屋で旅行用に大岡昇平を物色していると、隣にこの書簡集の文庫版“暴力に逆らって書く”があった。時を経て再会した本は少し読みやすく、今度はなんとか完読できた。襟を正させられる真摯な手紙たちだった。
と、くだんの友人にそう言ったら笑われた。

“解りやすさ”ということを考えることがしばしばある。
難解な文章、難解な音楽、難解な絵画、難解な映画、難解な演劇・・・。
高級とされる作品に多いようだ。
レベルの高い情報を共有したければ、発信する方、受け取る方、共にそれなりの準備が必要といったこともあるのだろう。
ゴダールも「全ての人に理解されたいとは思わない。」と言うような事を言っていた。

では解りやすいものは低級か?
バッハもチャップリンもゴッホもこの上なく解りやすく、深い。
作家の個性の違い、表現の方法の違いというだけのことなのだろう。

しかし自分の作品を、基本的に自分と関係ないひと様の、より多くの人によりよく理解してもらいたいと望む時、「解りやすさ」と言う事に注意を払うのは自然の成り行きであるようにも思える。
「自分が話を聞いてもらいたいと望むのは、往々にして自分の話に興味を持たない人達であり、自分の話を聞いてくれるのは、たいてい同じような考えを持ち、既に自分の話を必要としない人達である。」
と思いめぐる時、難解な作品を提示することは矛盾ではないか・・・。

などと迷想しているうちに眠りこけて、いつの間にかラ・ガーディア空港に降りた。