岩切天平の甍

親愛なる友へ

少年

2008年08月12日 | Weblog

ユニセフのスタッフは、貧しいために学校に行けずに働いている子供の家を訪問して援助金の説明をし、子供を学校に行かせるように説得する。

山の斜面に並ぶ竹の家は、薄暗い隙間だらけの壁にキリストの絵が貼ってある。にこにこしながら授乳する母親の横に、妊娠しているらしいティーン・エイジャーの娘が座っている。字が書けなくて、書類にサインすらままならない。

山奥のゴミ捨て場で、子供達は捨てられたゴミの中から段ボールやペットボトルや金属を選り分けて拾い、再生業者に売っていた。取材に応じてくれそうな子供を探して声をかける。
限られた時間の中で取材対象を見つけてストーリーを紡がなければならないので、つい焦りがちになってしまう。

カメラを持って突然やって来た見知らぬ外国人に囲まれて、
「名前は?」「学校には行っていないのか?」「親は何をしてる?」
と、少年は吊るし上げに会う。
『何だコイツらは? オレが学校に行こうが行くまいが大きなお世話だ。
オマエらにとやかく言われる筋合いは無いだろう。』と思うことだろう。

子供の頃に悪い事をして大人に叱責され、「そりゃあ僕が悪い、それは認めるけど、何にも関係無いあなたにそんなにエラそうにされるスジあいは無いんじゃないの。」なんて思った記憶がふっと胸をかすめてヒヤリとする。

子供は権力をかさに着る奴に敏感に反発する。
大人はただ大人だというだけで何か勘違いをする。
職場で、役所で、飲み屋で、タクシーで、エラそうにしたりされたりと、立場を変えては繰り返す。
我々はともすると自分より弱い他人に尊大になりがちだ。
ただ成り行きの関係なだけなのに。

悲しげな目で立ち去る少年に、「もう止めましょう。」と一同黙り込む。
「失敗したな。」と思う胸のにがさは仕事のことではなくて、彼を傷つけてしまったんだろうというみんなの気持ちだった。




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2 コメント

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写真の鬼 (Koichi IWAMOTO)
2009-03-08 21:22:04
写真家が写真で伝えてくれなかったら、その現実を一生知ることがなかっただろうなと思う。
もう随分前のことだけど、土門拳の「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」をたしか図書館で見た。他にも氏の写真を何点も。
「写真」についてはオレは門外漢で、せいぜい身近な人を記録で撮るぐらいだけど、氏の写真は、写真の鬼ゆえ被写体が今でも見る者に迫って来るんだろうな。
撮る行為っていうのはどんなんなんだろう。おそらく、わからないけど、カメラのシャッターを押すということではなくて、カメラマンの目の前の現実を、目の前の現実がカメラマンのカメラを通して何かを伝えられる手段なんだろうな。
テンペーからの視点、テンペーを視ている被写体からの視点ということか。
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写真のおにぎり ()
2009-03-17 20:42:09
どうも、こんにちは。

写真にもいろいろありますが、
何を撮っても自分自身が写ってしまうもので、撮り手が何を考えているのかそこに鮮明に暴露されてしまいます。
いわばハダカを人前にさらすような物で誤摩化しもきかず、なかなか覚悟を強いられるのは写真に限らず、絵でも音楽でも、ひょっとしたらもっと身近な毎日の労働や人間関係にもあてはまるような気もします。
こういう会話でも。
飾ろうとしたり照れたり無意味に謙遜したりするほど若くもないし、相手に時間の無駄遣いをさせるみたいで悪いので、できるだけ素直な表現を試みたいのですが、人間なかなかそこまで無になれませんねぇ。
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