ニューヨークへ、機中の人となる。
最近は専ら大江健三郎漬け、“ゆるやかな絆”と言うエッセイをのんびりと。この中で「自分の文章は読みにくいとよく批判を受ける。」と書いているのを読んで思い出した。
以前、新聞に氏と各国の知識人との往復書簡が連載されたことがあった。
一般読者に読ませることを知りながら高尚な引用だらけで、訳文と言う事もあってか、当時の僕にはあまりに読みにくく、途中までがんばったのだけどもついに断念してしまった。 学者同士の個人的なやり取りなら良かろうが、 「これはいったい不親切な知識のひけらかしじゃないか。」と、腹をたて、友人にもそう言った事を覚えている。
先日、本屋で旅行用に大岡昇平を物色していると、隣にこの書簡集の文庫版“暴力に逆らって書く”があった。時を経て再会した本は少し読みやすく、今度はなんとか完読できた。襟を正させられる真摯な手紙たちだった。
と、くだんの友人にそう言ったら笑われた。
“解りやすさ”ということを考えることがしばしばある。
難解な文章、難解な音楽、難解な絵画、難解な映画、難解な演劇・・・。
高級とされる作品に多いようだ。
レベルの高い情報を共有したければ、発信する方、受け取る方、共にそれなりの準備が必要といったこともあるのだろう。
ゴダールも「全ての人に理解されたいとは思わない。」と言うような事を言っていた。
では解りやすいものは低級か?
バッハもチャップリンもゴッホもこの上なく解りやすく、深い。
作家の個性の違い、表現の方法の違いというだけのことなのだろう。
しかし自分の作品を、基本的に自分と関係ないひと様の、より多くの人によりよく理解してもらいたいと望む時、「解りやすさ」と言う事に注意を払うのは自然の成り行きであるようにも思える。
「自分が話を聞いてもらいたいと望むのは、往々にして自分の話に興味を持たない人達であり、自分の話を聞いてくれるのは、たいてい同じような考えを持ち、既に自分の話を必要としない人達である。」
と思いめぐる時、難解な作品を提示することは矛盾ではないか・・・。
などと迷想しているうちに眠りこけて、いつの間にかラ・ガーディア空港に降りた。
僕も分かりやすい表現に一票派です(笑)。
僕がブラジルサッカーの写真を撮る背景には、一貫したテーマとして、僕なりのメッセージを込めています。
それでも、見る人がまず「美しい」「感動した」「カッコイイ(笑)」と受け入れてくれなければ、その表現自体が受け入れられないと思います。
僕が写真をブログに上げてきて、これまでで一番うれしかったコメントが「分かりやすい写真だ」。という内容のものでした。
写真の初心者の方からのコメントだったので余計にうれしかったのを覚えています。
僕が「美しいドキュメンタリー風の写真」を撮ろうとしているのは、数十年前にみたアフリカ飢餓を扱ったナショナルジオグラフィックの写真。
飢餓でやせ細り地面に横たわった子供がまるで絵画のように写し取られていました。
何故か、写真家のやさしさと心の美しさが伝わってきてものすごく感動したことを覚えています。
人の心に素直に染み入る写真。
そんな写真を撮りたいと思っています。
駄文失礼しました。
岩切さんのブログは刺激的です、これからも楽しみにしています。
刺激といいますと。イランへ行った時の写真家との会話で「こういうことが友達って呼ぶ関係には必要なんですよね。刺激がね。」と言ったように
、誰かと話しているときに面白いように浮かんで来るアイディアはほんとうに楽しくて仕方ありませんね。遠いところに住む友人達とも、インターネットのおかげでこういう刺激を分ちあえるようになったのは有り難いことです。
ソバ・フェスティバルには行けませんけど。