岩切天平の甍

親愛なる友へ

七月十二日

2007年07月13日 | Weblog

七月十二日は母の命日だった…らしい…。
故郷に住む姉と電話で話していて確認した。
「あれあれ。」とあきれ声。

母が他界したのは2000年の夏、梅雨のさなかだった。
危篤の連絡を受けて、駆けつけては持ち直し、駆けつけては持ち直し、
立て続けに鹿児島ーニューヨーク間を三往復した。
むろん「大変だった。」なんて思ってもいないけど。

日本に向かう機中で、東京でお茶屋を営む初老の御夫婦と並んで座った。
あれこれと世間話をしているうちに、尋ねてみた。
「親御さんがお亡くなりになった時の事、覚えていますか?」
旦那さんが 遠くを見るような目で、
「ええ、(少し間があって)父親の時はそうでもなかったんですけど、母が亡くなった時は… やさしかったですからねぇ…。」

 不義理の限りを尽くしてきた親不幸息子に、の人達のなつかしく、そしていくらか齢をとった顔々はにこにこと、地元の風習に則った葬儀を執り行ってくれた。父の死後、二十年も会っていなかった叔父たちの叱責はいたしかたなかろうと覚悟していた僕に、一人はいたわりの手を差し伸べ、一人は注がれた焼酎にも手をつけず、ただ悄然と、母(義妹)の遺影を見つめていた。

あれからみんなそれぞれの暮らしを生きてきたんだ。
誰も僕を叱ってくれない代わりに、取り戻す事の出来ない時の流れを見た。
おとしまえはそれぞれ自分でつけなさいと言う事だ。

 葬儀に続いて四十九日の法要も済ませ、火葬場へ。着火スイッチを押すのは父の時も母の時も長男の僕の役目だった。こんな息子でも親を焼くのは今更のように指が震える。

近所のおばちゃんに借りた軽トラを運転して、親父の眠る共同墓地の前を通りかかったとき、助手席に置いた骨壷に左手を置いて「母ちゃん、これでやっとまた父ちゃんと一緒になれるなぁ。」とつぶやいたら、初めて涙があふれ出た。

親孝行、したい時には親はなし。
さればとて、墓に布団も着せられず。

すべてが終わり、夜、姉の家の台所で麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、扉の卵入れにサランラップでぐるぐる巻きにされた奇妙な物がある。
「姉ちゃん、何これ?。」
「ん?、ああ、電池よ。長持ちするかと思って。」
「・・・・。」

Then, life goes on…