岩切天平の甍

親愛なる友へ

劇団情

2007年07月17日 | Weblog

 数年前、今は東京でシアター・コネクテッドを主催している坂牧正隆がまだニューヨークにいた頃、二人で劇団をやっていた事があった。
いや、二人でと言うのは間違い、数えきれないほどの友人達に助けてもらっていた。

 シアター・JYOU(情)。落語の、主に人情話を英語舞台用に脚色して、学校で子供達に見せて回っていた。大道具、小道具のほとんどを二人で作って、衣装用の着物を買い集めた。日本へ行って浅草で小物を漁った。
若旦那が身を投げる川を徹夜で大布に描いた夜もなつかしい。
三味線の小泉聖一朗に音楽を付けてもらい、それにあわせて太鼓や鼓、拍子木、つけ板を鳴らした。稽古場を借り、道具用の倉庫を借り、芝居当日はレンタカーを借りて、借金だらけになった。

“芝浜”や“唐茄子屋政談”を見てハーレムの子供達もまた笑うところで笑い、泣き場でしんみりとする。はっぴをはだけて見えをきる魚屋に拍手喝采、“子はかすがい”の酔いどれ親父にブーイングで抗議する。彼らが書いてくれた感想文は今も僕の宝ものだ。

 演劇を志す友人達が集まって芝居を作っては小さな劇場を借り、必死で縁故知人達に切符を買ってもらい、ほめてもらうという繰り返しを脱すべく始めた学校回り、演劇の素人だった僕は役者修行を走り続けていた坂牧に頼りながら手探りで「演劇って何だ?」と考え続けていた。ごく限られた人間にしか見られることのない芝居。社会的な影響力は圧倒的に低い…。
やっているうちにある時、「ああ、わかった。」と思うことが確かにあったけど、今また何だったのか思い出せない。書いとけば良かった。

実にさまざまな友人達が助けてくれて、思い出は尽きず、幸福感は絶えないのだけれど、結局劇団は三年くらいしか持たなかった。

 僕はそれ以前もその後も有名無名かなりの数の芝居を観ていた。
超有名キャストによるチェーホフも蜷川マクベスも見終わったあとにかつての僕らの役者達に「どうだった?」と訊かれて、「ああ、俺たちの芝居のほうが良かったよ。」と答える。そう言われて彼らは笑うのだけれど、
僕は本気で言っていたんだ。みすぼらしい貧乏劇団の素人演出家は、何も解らず世間知らずだっただけにただひたすら「心」を目指していた。それしか頼る基準がなかったからなんだけど。今振り返ってみると本当に良かったと思う。
きっと坂牧はわかっていたんだろう。「ライフワークにしたい。」と言ったことがあった。もう少し辛抱すれば良かったとすまなくも思う。

 あるときカーネギーホールでヨーヨー・マの“シルクロード・コンサート”を観ていて「ああ、これが芸術家としての対テロ戦争なんだな。」と思ったことがあった。そして僕たちの芝居を思い出した。いつかあの子供達が大人になってどこかの国に「ミサイルを打ち込もうや。」という話になった時、
「ちょっと待てよ、そういえば、いつかどこかの国のおかしなやつらがおかしな芝居をやってたっけな、ちょっと話してみようか。」と思ってくれたらどんなにいいだろう…
僕らは絶望的に違う人種なのかもしれないけど、やはり同じ様に笑い、泣くのだ。
芸術が共通語になればいいと思う。

またやりたいと常々思っているんだけど、時は飛ぶように過ぎ去って行き、誰もが齢をとる。あそこに戻ることはできないけど。もしやれるなら今度は多少確信を持って「心」を目指せるかもしれない。