TAZUKO多鶴子

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名古屋個展二日目!

2011-05-27 | 個展


名古屋の個展二日目です。
先程ご年配の方が通りかかって
入って来られ、少し長くお話ししました。
ご実家が以前骨董屋をされていたそうです。
様々な土地で個展活動をしてわかった事ですが
多くは小さい頃から
絵画や古美術や芸術に親しんだ環境の中で
生活なさった方が多いようです。
少なくとも私の個展は
そんな知らない方々が
突然に飛び込んで来られます。
持って生まれた素養も大切ですが
やはり環境は大きいのでしょうね!
個展活動で様々な事を教えられます。
名古屋の個展で
何を学べるのか楽しみなのです!

『TAZUKO多鶴子・名古屋個展』今日から開催!

2011-05-26 | 個展


今日から名古屋『ジュエリーアトリエn.S.j.S』で私の個展が開催されます。
朝、新幹線で名古屋まで到着し
つい先程、会場の展示が なんとか完成しました。
ありがたいことに、早速、会場を展示中に
ジュエリーを制作される結婚間近のカップルが
興味を持ってご覧下さっていました。
さて~
今回の個展はどんな個展になるでしょうか?
展示作品はいつもより少ないですが
誰でもが興味を持って頂けるような
見応えある個展になっていますよ!
是非会場までお越し下さいね!

個展は今日から29日まで。
開催時間は
11時~20時
但し、29日の最終日は
11時~18時です。
皆様のお越しを心よりお待ちしております。

明日からいよいよ名古屋個展!

2011-05-25 | お知らせ

 明日からいよいよ名古屋の個展です。
 明日からの準備で今日は大忙し!
 今回の個展は今までの個展よりとても親しみやすいと思うので
 お近くにお寄りの時は是非いらして下さいね。
 ではでは
 引き続き準備頑張ります。


<『ウエルカムボード』TAZUKO多鶴子作品・名古屋展>

*期間…2011年5月26日(木)~29日(日)
*オープン時間…5月26日(木)<午後1:30~午後7:00?>
        5月27日・28日<午前11:00~午後7:00?>
        5月29日<午前11:00~午後5:00?>
*展示企画…ウエルカムボードの色鉛筆画・他パステル画作品
*会場…ジュエリーアトリエ『n.s.j.s』 覚王山店
*住所:愛知県名古屋市千種区観月町2丁目-62-2
    アクセス
   :地下鉄東山線 覚王山駅4番出口より徒歩5分

※結婚間近のお二人や婚約される方には是非お勧め!
『n.s.j.s 覚王山店』で手作りの指輪をジュエリー作家さんと一緒に作ってみて下さいね。


※個展初日は午後からオープンですのでご注意下さい!

『河上徹太郎』の名言

2011-05-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言


   仕事の中に
   自己を生かそうとする人はあっても

   仕事の中に
   自己を死なせる人がないのが

   目に見えて
   日本の国をよくしてゆかぬ所以である。


         …… 河上徹太郎 ……


 <河上 徹太郎(かわかみ てつたろう)>
1902年(明治35年)1月8日 ~1980年(昭和55年)9月22日)は日本の文芸評論家、音楽評論家である。日本芸術院会員、文化功労者。
小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人綾子は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。
*経歴*
日本郵船の技師を父として、赴任先の長崎市に生まれる。本籍地は山口県岩国市で、河上肇は親類にあたる。河上家は江戸時代は、岩国藩士であった。
1914年(大正3年)、旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て1916年(大正5年)、旧制東京府立第一中学校に編入学、同級に富永太郎、1年下に小林秀雄がいた。1919年(大正8年)、旧制第一高等学校文科甲類(文系の英語クラス)に入学するも1920年(大正9年)に休学しピアノを習う。1923年(大正12年)、東京帝国大学経済学部に入学。
1924年(大正13年)、『月刊楽譜』誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表。
1926年(大正15年)、東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍。
ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者としても知られた。
戦時中は国策団体である日本文学報国会に関与し、反西洋的なシンポジウム「近代の超克」にまとめ役の立場で参加した。このため、戦後直後(1946年(昭和21年))に、新日本文学会の小田切秀雄らによって、小林や亀井勝一郎と共に「戦犯文学者」と呼ばれ糾弾されている。
1953年(昭和28年)に『私の詩と真実』で、読売文学賞評論部門を、1960年(昭和35年)に『日本のアウトサイダー』で、新潮社文学賞を受ける。1968年(昭和43年)、『吉田松陰』により野間文芸賞を受ける。1971年(昭和46年)、『有愁日記』で日本文学大賞を受ける。
1961年(昭和36年)、日本芸術院賞を受ける。1963年(昭和38年)に日本芸術院会員、1972年(昭和47年)秋に文化功労者。
1980年(昭和55年)、ガンにより東京の病院で没した。葬儀委員長は小林が務めた。郷里岩国市でも葬儀が行われた。

参考資料:ウィキペディア