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TAZUKO多鶴子

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天才的な眼『青山二郎』の心をとらえた光悦作『鷹ケ峰図』の山が見えます…

2009-02-15 | TAZUKO多鶴子からの伝言
ブログ写真に写っているのは京都の『鷹ケ峰』。
この山をモチーフにして
桃山時代から江戸時代に活躍した琳派の本阿弥光悦が、
山月蒔絵文庫という作品を残している。
あの天才的審美眼を持つ『青山二郎』が
その作品を亡くなるまで使用し、
そして大切に手元に置いていたと云われる。
琳派はあまり好まなかった筈の『青山二郎』なのだが、
何故だかこの作品に強く心惹かれていたようである。
たしかにTAZUKO多鶴子も
山月蒔絵文庫をみてみると何故だか魅力を観じる。
このモチーフになっている『鷹ケ峰』には、
かつて遥か昔に
『光悦村』と云われる芸術村があったそうであるが…。
今現在はその名残りがあるのだろうか…?
何時か時間が出来た時に
是非行ってみたいと思っている。
今日は、
その『青山二郎』が愛した
光悦作の山月蒔絵文庫の詳細が書かれている
『天才青山二郎の眼力』の本の一部を下記にご紹介します。


   *天才青山二郎の眼力*
<光悦に惹かれて>
織部に惹かれた青山二郎は、淋派にも向かう。
とくに、桃山から江戸時代にかけて、
その斬新なデザインで一世を風靡した本阿弥光悦の作品は、
青山の心を強くとらえた。
蒔絵文庫は、青山二郎が昭和三十八年頃入手した光悦作品。
蓋の表には、大きな満月が山の稜線にかかる鷹ケ峰図。
静かな峰の月夜である。
蓋を裏返せば一転して、鷹ケ峰の麓であろう、
三本の杉の幹がすくっと上に伸び、たたずむ鹿は今にも動き出しそうだ。
箱の内底には槍梅、側面の周囲には蓮の花。
図柄の構成の大胆さや、
鉛や螺鈿を配した素材あしらいの巧みさは、光悦ならでは。
青山二郎は亡くなるまでこれを大切に手元に置いていた。

参考資料:『天才青山二郎の眼力』
      著者:白洲信哉
      発行者:佐藤隆信
      発行所:(株)新潮社

なかなか絵を描く時間が無い…

2009-02-14 | TAZUKO多鶴子からの伝言

最近様々な私用で忙しくて、
なかなか絵を描く時間がありません…。
本当に生活するのが大変な現代の人間社会。
美研インターナショナルの凄い企画…
塚田良氏のお力添えで進んでいる企画…
その企画の為に数枚の絵を描かなければならないので…。
でも…どうしても時間が開きません。
その企画の為に
ご注文頂いている作品を暫く待って頂いている状態なのですが…。
日にちばかりが迫っていて…
毎日毎日焦る気持ちが一杯で…困っている昨今。
さて~
今日はこれから少しでも描く時間があるのかな~
と考えているのですが…。
いえいえ!
今日こそは!これから描くぞ!!

『奈良公園』の中を通る道でみた『夜の美しい幻像的風景』

2009-02-11 | TAZUKO多鶴子からの伝言
昨日の夜、
『奈良公園』の中を通る道…
車を走らせました。
満月に照らされた闇夜の樹木…。
水面に浮かぶ美しい月…。
夜光に照らされ
幽かに闇に浮かぶ一匹の雄鹿…。
様々な幻像的な風景…。
TAZUKO多鶴子はお金が無くても、
力強く豊かに生きることができます。
こんな見事な
美しい景色に囲まれて日々過ごせるのですから…。
そして…
まだまだ精進して…
少しでも良い絵を描いていけれるように頑張ります。


『アンデルセン』の言葉

2009-02-10 | TAZUKO多鶴子からの伝言



  『 すべての人間の一生は、

     神の手によって

    書かれた童話にすぎない。 』

      …… アンデルセン ……



<ハンス・クリスチャン・アンデルセン>
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(デンマーク語読みでは"ハンス・クラェスデャン・アナスン")(Hans Christian Andersen [?han?s ?k????d?jan ??n?sn?]、1805年4月2日?1875年8月4日)は、デンマークの代表的な童話作家・詩人である。男性。
*1805年デンマーク、フュン島の都市オーデンセで産まれる。22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で産まれた。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。
アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1816年に靴職人の父親が亡くなると自分の進路を決めなければ成らなくなり、学校を中退する。彼はオペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のコリンの助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学にまで行くことが出来た。
1829年には『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行──1828と1829における(A Journey on Foot from Holmen's Canal to the East Point of Amager)』を自費で出版しドイツ語版も出るほどの好評を得た。その後、ヨーロッパを旅行し、1834年10月にはローマに行っている。
デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説『即興詩人』を出版する。この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの出世作となったが、現在は森鴎外訳を得た日本以外で顧みる者はほとんどいない。同年『童話集』を発表する。
その後も死ぬまでの間に多くのおとぎ話を発表しつづけた。アンデルセンの童話作品はグリム兄弟の様に民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくなく、若き日のアンデルセンが死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話という媒体を通して訴え続けていた事が推察できる。が、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術がある事を作中に書き出していくようになっていく。
大学を卒業できなかったアンデルセンは、旅を自分の学校として、多くの旅行記を書き残した。グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴーなど旅先で多くの作家や学者と交友を深めた。生涯独身(未婚)であった。
アンデルセンが70歳で亡くなった時は、デンマークの皇太子や各国の大使や子供からお年寄り、浮浪者に至るまで葬式に並ぶ騒ぎになるくらい世界中の人々に愛されていたにもかかわらず、彼の恋は常に失恋の連続だった。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』