読書と著作

読書の記録と著作の概要

『安ければいい保険なの 私の保険道―赤城山麓で思ったことー』

2005-09-30 22:44:27 | Weblog
 本書の著者久保田稔は一九三八年(昭和十三年)の生まれ。一九六一年、学習院大学を卒業し日興證券に入社した。証券会社の営業時代、株価は暴落に次ぐ暴落。平均株価が2000円から1000円にまで下がった。「保険の世界に最初からいたのでは、お客様のありがたみは分からなかったようにも考えています。証券会社でおぼえたことと言いえば、土下座をすることと、とにかく謝ることの二つ」と著者は回想する(二百十四ページ)。証券会社には六年いて、富士火災の営業社員となった。以後三十年以上にわたりトップセールスを続けている。一九九〇年にはスーパーロイヤルクラブの会員に認定された。現在は、㈱久保田保険事務所代表取締役。

 競争激化の損害保険業界にあって、毎年二ケタの増収をあげている。その一方、週末は赤城山麓の別荘で野菜作りに没頭、丹精こめて野菜をつくることと「保険の販売」には共通点がある。そんな“哲学“をもつ著者の保険販売読本。保険の話題の中にトウモロコシや枝豆が出てきたり、畑の下草刈りの話題がでてくるといった”不思議な本“である。 著者は若い頃、剣道をしていた。趣味のひとつが剣道。損害保険の多種目販売に関しては、剣道の防具を喩えにして、こんな話法がでてくる(二十五ページ)。
                    ○
面(火災)だけつけて、試合に出る人はありません。胴(自動車)、籠手(傷害)、垂れ(賠責)をつけて、初めて自分を守ることができるのです。 
                    ○
 本書のタイトルの中に「安ければいい保険なの」とある。気になる言葉だ。これについて著者は「儲からなければさっさとひきあげた」、「本国の都合で撤退した」事例をあげ、多大の広告費を使って安い保険料を売り物にする外資系保険会社を批判する。全く顧客不在の経営方針だ。ただし、批判されているのは外資系損保会社だけではない。研修会の時間を午後1時から3時迄と設定する。表彰式の開始時刻を午前11時とする。そんな損害保険会社にも批判の矢が向けられる。このような時間設定をやられると、代理店は一日が潰れてしまう。そのようなことを全く考慮せず、会社の都合のみを考えてもらっては困るというのだ(九十一ページ)。
 本書は代理店経営者によって書かれた本である。したがって、一般の代理店が読んで経営のヒントとなることは多かろう。しかし、損害保険会社の営業マンにも是非読んで欲しい。時々、営業マンにとって耳の痛いことも書いてあるが、それがまた役に立つことにもなろう。また、損害保険会社の役員やスタッフ部門の社員にも本書の一読を勧めたい。代理店のナマの声が聞けるからだ。著者の野菜作りに関する叙述は、本筋から外れて見えるかもしれない。しかしながら、自然や家族・友人とのコミュニケーションをないがしろに、目標達成にまい進し働き過ぎがちの業界人たちとって、自分の人生や生き様を考え直すきっかけになるかも知れない。そのような読まれ方を著者は期待しているのだろう。
 巻末の「年表」(第一火災が経営破綻した二〇〇〇年から二〇〇四年七月までの業界再編成等の生損保激動期の主要ニュース)は、日常参照するのに便利である。
           (二〇〇四年・体育とスポーツ出版社・一二〇〇円+税)




『おもしろ図書館であそぶ ー専門図書館ガイドブックー』

2005-09-30 22:39:42 | Weblog
 従来、どちらかというと(残念ながら)「かたくるしく、暗い」イメージがあった図書館。その理由はいろいろあろう。やや取り澄まし高踏的な図書館員。その図書館員に、返却の督促を受けたときのイヤーナ記憶。手垢にまみれた図書カード。よれよれになった本(戦後の貧しい時代の遺物)etc.
 ここに紹介する「おもしろ図書館であそぶ ー専門図書館ガイドブックー」は、そんな旧来の図書館のイメージを払拭してしまう。面白い、楽しい、知的好奇心を満足させてくれる。図書館のもつ「明るいイメージ」を存分に味合わせてくれる。

 本書には全国142館の専門図書館が紹介されている。学術書ではないので、主として一般の社会人・学生が興味をもつ分野の専門図書館が登場する。美術、写真、ファッション、音楽、スポーツ、グルメ(食)、コーヒー、地図、旅行、自動車、飛行機。ミステリー、俳句の図書館があるかと思うと地震、防災、回虫、漫画の図書館も紹介されている。ガイドブックの機能もキチンと備えているので、住所・地図は完備。読者がアクセスしようと思えば簡単に目的を果たせる。
このような本は今までもあった。そうかもしれない。しかし、本書には幾つかの特色がある。

・井上ひさし(作家)や町田忍(銭湯をはじめと社会風俗研究家)といった本についてマニアックな視点をもった文化人が登場。専門図書館の魅力を語っている。
・写真を多用。「読む」だけでなく、見て楽しむ図書館ガイドを指向している。
・東京一点集中を避け、全国各地のユニークな専門図書館を、できるだけ登場させるよう努力している。これは、発行元が新聞社であることから自然に出てきた配慮であろう。
・142の図書館を「平等に」扱わず、メリハリをつけている。その結果、単調な誌面にならなくて済んでいる。美術関連の図書館についてスペースを広くとり、地震や都市開発といった地味な分野は小さく扱うといった具合。
・女性、若者、高齢者がそれぞれ関心を持ち満足できるよう配慮されている。これは一見矛盾しているかのように見えるコンセプト。しかし、現物を見れば「なるほど」と思える。
・図書館関係者は裏方にまわり、本造りは経験豊かな編集者とセンスの良い若手ライターが腕をふるっている。写真が美しいのはカメラマンの実力だ。

 2003年春に刊行された本書。売れ行きは良好で、好意的な書評も多数出た。意外だったのは、比較的保守的な図書館人たちからも好評だったこと。従来、このような手法で図書館の魅力を一般社会にアピールしてこなかったということだろうか。









『ドイツ流掃除の賢人』

2005-09-30 22:19:38 | Weblog
沖幸子著『ドイツ流掃除の賢人』

姫路市出身のベンチャー経営者沖幸子(おき・さちこ)さんが、『ドイツ流掃除の賢人ー世界一きれい好きな国に学ぶー』を出版した。心地よい空間を大切にするドイツ人は掃除が上手。部屋は整理整頓されている。沖さんは本書で、留学中に学んだ「時間も労力もかけずにシンプルな掃除術」を披露する。目次をみると、「ながら掃除」という奇妙なコトバが出てくる。料理をしながら、オーブンの掃除をする。朝、目が覚めたら、目覚まし時計をちょっと磨く。そんな日常的な知恵の集積。これが家庭内をピカピカにするコツのようだ。コーヒーの”入れカス”を乾燥させておき、脱臭剤として使用する等誰でも簡単に実行できる手法も紹介されている。本書には磨き上げた著者宅の写真が入っている。その写真が、実に美しい。伝統あるドイツの家庭生活を伝えている。

沖さんは、神戸大学発達科学部の前身の教育学部を卒業、ドイツ、イギリス、オランダで生活マーケティングを学び、1987年にハウスクリーニング会社フラオグルッペを設立した。ベンチャー経営者として活躍する一方、「掃除界のカリスマ」として雑誌・テレビ・講演など多方面で活躍中だ。時代にふさわしいシンプルで合理的な家事を提案し、幅広い年齢層の女性に支持されている。生活評論家、大学客員教授(起業論)でもあり、経済産業省、厚生労働省などの政府審議会委員をつとめるなど多才振りを発揮。
                   (光文社・知恵の森文庫、629円+税)






『働きすぎの時代』

2005-09-24 22:29:11 | Weblog
本書の著者森本孝二は、関西大学経済学部教授。専門は株式会社論、企業社会論、労働時間論である。これら三つの専門分野は、一見無関係かのように見える。しかし、本書のテーマ「働きすぎ」は、これら専門分野の何れにも大いに関係が深い。

本書は今日の社会を「働きすぎ」というキーワードで多角的。実証的に分析している。このため説得力があり、かつユニークな啓蒙書となっている。過労死が社会問題とされるようになってから久しい。2002年1月、『オックスフォード英語辞典』のオンライン版に、新語「karoshi」が新たに登録されたとのこと(本書27ページ)。この単語は、もちろん日本語の「過労死」から来ている。過労死の背後には、残業手当なしで仕事をする、所謂サービス残業が存在する。最近では、残業手当不払いの企業が公表されるようになった。中部電力、東京電力のように、っその総額が60億円以上に達するケースもある。サービス残業がやりにくくなると、企業の側は早朝出勤を強いるようになる。昨年、ある経済雑誌が早朝出勤する社員の列を捉えた写真を掲載して「早朝出勤」の告発を行っていたことを思い出した。
休日もなく、早朝から深夜まで働き続けるIT技術者。外食産業やコンビにで深夜労働するパート社員やフリーターたち。連日の超過労働勤務にもかかわらず高速道路を猛スピードで走る長距離トラック運転手。そして、死者が多数出る高速道路上での悲惨な大事故。午後8時の消灯後、パソコンの光で密かに残業を続ける社員たち。大学教授として学生を教育し社会に送り出す。これは著者の仕事であり氏名でもある。ところが、卒業生たちは”企業戦士”として働きすぎの世界に埋没、家庭・家族を犠牲にし、健康を害し、ひいては心の健康(例えば、鬱病)までも害してしまう。恐らく、そんな身近な危機感もあったに違いない。全編に、著者の怒りと苦悩が感じられる。人口が減る、若年者がなかなか結婚しない(結婚できない)、フリーターやニートが増加する、高速道路での居眠り運転による死傷者続出。そして、福知山線の脱線事故もJR西日本の収益第一のスピード競争や余裕のないダイヤ編成だけが原因ではなく、それを肯定した利用者の側にも「働きすぎ」の問題が横たわっていたと著者は指摘する。一刻も早く職場に到着したい、遅刻すると会議や商談に遅れ、ひいては人事評価に響く。そう考えて、鉄道会社に無理なダイヤ編成や定時発車を無言のうちに強いてきたのではなかろうか。そうなると、止んでいるのは、一人の従業員、一会社だけでなく”社会全体”ということになろう。
著者は、以上のように容赦なく拡大する「働きすぎ」の原因を解明し、それに一定の歯止めをかけなければならないという立場にたつ。最後の終章(働きすぎにブレーキをかける)では、働きすぎの結果として生じる数々の問題点と弊害をとりまとめ、?そのうえで「働きすぎの防止の指針と対策」として具体的な提案を行っている。これらの提言は、?労働者、?労働組合、?企業、?法律と制度の4者それぞれの立場からの提言となっている。
(二〇〇五年、岩波新書、七八〇円+税)

OLその昔

2005-09-24 11:43:22 | Weblog
OLその昔

1976年(昭和51年)に発行された『三井銀行100年のあゆみ』によると、今から100年以上前の1894年(明治27年)頃、初めて女子事務員を採用した。今日のOLのルーツである。換言すれば、それまでの銀行業務は男子行員のみが遂行していたことになる。三井銀行(現三井住友銀行)における女子事務員(社史では「女子店員」と表記)の採用は大阪支店において“試験的に”行われた。発案者は高橋義雄大阪支店長。高橋は1891年に最初の“学校出”(慶応義塾)の社員として三井銀行に採用された。銀行に入る前は時事新報の記者をしていた。その当時、欧米の商業事情を調査研究し、『商政一新』という著書も書いている進取の気質を持った銀行員だ。銀行での女子の採用。これは当時としては「突飛な試み」であった。採用された女子の年齢は二〇歳前後。紙幣を数える等の業務は、1ヶ月の訓練で男子行員よりはるかに正確で敏捷という結果を得た。

三井銀行以外の他の銀行の事例を見てみよう。『第一銀行史・下巻』(1958年)には、次のような叙述があった。ちなみに、第一銀行は、現みずほ銀行の前身行のひとつである第一勧業銀行の前身行にあたる。第一銀行の設立は1873年(明治6年)。歴史と伝統がある銀行である。
                    ○
昭和3年4月本店で女子事務員を採用して審査部の記録係を担当せしめ、爾後漸次全店に女子行員が増加していった。
一様に女子行員と言っても、高等小学校卒業者と女学校の卒業者があって、前者が女子給仕、後者が女子事務員とよばれた。給仕で入った者は、数年後に事務員に昇格することになっていた。仕事は各課の事務の補助が多かった。
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以上から第一銀行の場合、三井銀行とは異なり、女子事務員の採用は昭和に入ってからの1928年(昭和3年)であったことが分かる。もっとも、大正時代末期に丸之内支店で例外的に少数の女子事務員を採用していた(前掲書)。なお、電話交換手については、これ以前から女子を採用していた。
次に、三菱銀行(現東京三菱銀行)のケースを見てみよう。『三菱銀行史』(1954年)によると、電話交換手、タイピスト以外の業務に関して、三菱銀行の女子採用が始まったのは、1937年(昭和12年)7月日華事変の勃発後のこと。行員の中に応召される者が増加し、人手不足が生じたことが原因となっている。すなわち、1937年(61人)以降毎年応召が続き、1941年までの5年間で累計427名に達した。解除者(162名)を差し引いても265名の男子行員の減少を見た(同書274ページ)。そこで、1939年(昭和14年)7月に「婦人事務員」の試傭が始まった。まず本部に5名、本店営業部に10名、大阪支店に5名が採用され補助的な業務に従事することになった。翌年は95名、翌々年は190名と急増していく。なお、人手不足のこの時期に「事務改善」の機運が生じ、1940年に本部に事務改善委員会が設置されたというのも興味深い。住友銀行(現三井住友銀行)の社史『住友銀行百年史』には、ちょっと面白いことが書かれている。同行では1919年(大正8年)に「女子任用規定」が制定されていた。しかし、当時は男女が机を並べて仕事することは「風紀上好ましくない」という風潮がつよく、女子の一般事務員への本格採用は見送られていた(同書172ページ)。住友銀行においても三菱銀行と同様、満州事変後に生じた人手不足の補充という要因であった。1944年(昭和19年)8月末になると、住友銀行の男子職員と女子職員の実働割合は4:6と3年前の7:3から大幅逆転をみている。この時期、女子職員に対する本格的指導教育が始まっている。戦局が傾くにつれ、女子職員が軍需工場に働きに出る。この時期、益々事務の合理化・簡素化が進むことになる。
ところで、次に紹介するのは満州事変勃発の1937年(昭和12年)に、ダイヤモンド社から出版された『ダイヤモンド実務知識』からの引用文。ただし、引用に当たっては現代仮名遣い表記に改めてある。
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最近高等女学校卒業者が実業界に進出して、職業に従事するものが激増した。電話交換手とかタイピストとかいう女子独特の業務以外に、事務の種類性質」によっては、1・2年の熟練により、最高能率を発揮しうるものがある・・・女子が学校卒業後、結婚までの数年間を一期として絶えず交替するのも事業経営上好都合の場合がある。
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最後の部分の表現は、あまりにも露骨で、ちょっと驚いてしまう。この時代には特に違和感なく受け入れられ考え方であったのであろう。
戦後になっても一時期までは、このような考え方が企業を支配していた。1961年に発行された上坂冬子・志賀寛子・加藤尚文著『BG学ノート』(三一書房)には、某銀行において人事担当重役が入行時にした挨拶文が紹介されている。その中に、「ここにいらっしゃるお嬢さんがたが、めでたくお嫁入りの日には、銀行としては、心から前途をお祝いして、御退行願うことを今からお約束しておきます」とある。まわりくどいが、「結婚したら辞めてもらう」という趣旨である。ちなみに、この銀行の場合、入行式は父兄同伴が原則だったようだ。おそらく、戦後といっても約50年昔の1950年代のことであろう。新憲法下における「男女同権の時代」にも、平気でこんな発言をする経営者がいたのだ。
最後に、明るい話題をひとつ。『東京銀行史』(1997年)によると、東京銀行では1970年9月から女子職員の海外勤務制度を導入した。これは同行のニューヨークや香港の支店から「業務に精通したベテランの女子行員がほしい」との要請により制度化に踏み切ったもの。所定の試験等を経て6名の初回派遣者が決まり、2年間にわたりニューヨーク、ロンドン、香港に各2名の女子職員が期間2年の限定で派遣された。1996年3月現在、類型派遣者数は292名に達したという。1996年に三菱銀行と合併し東京三菱銀行となった今日、東京銀行に始まった女子職員海外勤務制度はどうなっているだろうか。