読書と著作

読書の記録と著作の概要

坪内ミキ子著『母の介護』

2007-10-28 10:11:55 | Weblog
坪内ミキ子著『母の介護』

著者の坪内ミキ子は、1940年(昭和15年)東京の生まれ。早稲田大学文学部英文科在学中に女優としてデビューした。映画、ドラマの出演が多数あり、クイズの回答者としてワイドショーの司会者として活躍してきた。父は、演劇評論家坪内士行。98歳で死去した。また、母は宝塚の第1期生(総員16人)の雲井浪子。1913年(大正2年)に13歳で入団し、初舞台は桃太郎を題材にした「ドンブラコ」の猿の役であった。その母は、2002年に102歳で死去する。本書は、母の介護記録であるが、同時に坪内家(後述)をめぐる多彩な人物たちの家庭史といった性格をもつ作品でもある。

母は、元宝塚スターとしてプライドが高く、高齢となっても矍鑠(かくしゃく)としていた。しかし、1997年8月、96歳のときに、自宅のあるアパートのコンクリートの階段で、ころび寝込んでしまう。それ以後、母は「わがままな老婆」に成り果てた。その母の6年間にわたる介護奮闘記が本書の主要テーマである。著者は仕事を持っている。そのため、母の介護に付きっきりという訳にはいかない。そこでヘルパーを頼む。先ず、ヘルパーの時給が高いという恐怖が著者を襲う。夜間の介護も頼むため月額約100万円という金額に達する。著者には一人息子がいる。その息子を母(息子にとっては祖母)の介護を一時的にも頼みたい。そのように著者は思う。しかし、母は「男だから」という理由で拒否する。排尿の頻度がたかいので、紙おむつの使用を勧めるが受け入れてくれない。

本書は介護の本であるとともに、日本の演劇史、芸能史、社会史といった観点からも面白く読める。著者坪内ミキ子の祖父(ただし、血縁はない)は、シェクスピア研究等で著名な坪内逍遥である。著者の父である坪内士行は、7歳のとき叔父坪内逍遥の養子となった。父士行は、大正7年に小林一三の招きで宝塚少女歌劇に演出家として加わった。そこで、人気スターの雲井浪子(著者の母)と出会う。坪内士行(父)、雲井浪子(母)の結婚は1919年。新郎33歳、新婦19歳であった。
一橋大学学長をつとめ、中央労働委員会委員長をつとめた中山伊知郎が、神戸高商(現神戸大学)の学生時代、雲井浪子を見る目的でに宝塚へ通ったそうだ(『中山伊知郎全集』第17集)。

介護からは脱線したが、本書にさりげなく書かれた周辺事情は、社会風俗史見地から貴重な記録である。特に第7章で詳述されているのが、同潤会江戸川アパートメントハウス(新宿区)のこと。この章は、建築史の観点からも面白い。同潤会というのは、関東大震災の被災者の入居を目的に、当時の内務省が設立した財団法人。代官山、原宿等に鉄筋の共同住宅を建設した。これらの共同住宅は、当時としてはモダンで近代的。医者、学者の住人が多く、独特のコミュニティーを作っていた。同潤会江戸川アパートメントハウスは、1934年(昭和9年)に建てられた。広い中庭を囲む4階建てと6階建ての高層アパート。ここで著者は生まれ育った。なお、本稿作成に当たっては、2003年9月8日付朝日新聞夕刊に掲載された坪内操(雲井浪子)の追悼記事を参照した。

                                        (2007年、新潮新書、定価680円)

国分寺・甚五郎

2007-10-21 09:58:41 | Weblog
東京の郊外にある国分寺市。東京では珍しく、古い歴史と文化を伝える町であるといえよう。その証左は地名にも表れている。
この地は、西暦741年に聖武天皇の命により建てられた国分寺に由来する。

JR中央線国分寺駅は駅ビルになっていて、丸井が入っている。駅のすぐ北側には鬱蒼とし樹木に囲まれた日立製作所の研究所がある。東京経済大学、東京学芸大学のキャンパスが近い。国分寺駅には西武線が乗り入れており、武蔵野美術大学や津田塾大学の学生が乗換駅ともなる。このような背景から、学生が多く「若者の町」らしいにぎわいがある。

たまに足を運んだ「T's」というバー(日曜日にジャズの生演奏をやる)のマスターから、国分寺にあるユニークな店として「甚五郎」の名を教えてもらった。駅北口のパチンコ屋の西側路地。そこを北に向かって歩くとすぐ左側に「甚五郎」はある。変わった店の雰囲気で、うどんは、うまい。そのような情報であった。行ってみると、確かに変わった雰囲気の店だ。昭和30年代前後に、日本全国でみかけた金属製の広告看板を、店の内外に飾っている。オロナミン軟膏、フマキラー、オリエンタルカレー、アデカ石鹸、ムヒ、森永ドライミルクといった懐かしい昭和レトロの広告たち。これらを鑑賞しながら、武蔵野うどんを賞味するという訳である。お客の年齢層は、場所柄若い。しかし、高年齢層もいる。

鴨汁うどんを注文する。大きめの木皿に盛られたうどんを、あたたかい汁に浸して食べる。すこし茶色がかったうどんは、腰がつよい。汁には小さくきった鴨肉やネギが入っている。値段は650円。この値段は、10年以上変わっていない。1997年に発行された『多摩のグルメガイド 身近な街の花まる そば・うどん』(のんぶる社)で、そのことは確認できた。

【「甚五郎」のデータ】
住 所 国分寺市本町3-3-13
電 話 042-325-6916
定休日 日曜・祝祭日
駐車場 無し
開 店 11時-16時、17時30分-21時

飯田大火ー昭和22年

2007-10-07 12:15:34 | Weblog
長野県飯田市は、伊那盆地南部にある城下町。江戸時代は城下町。また、交通運輸の要地という性格も備えていた。地場産業が盛んで、水引、元結(もとゆい)、つむぎ、凍豆腐の産地と知られ、近年は電子部品、精密機械工業が発展してきた。既に1937年(昭和12年)に市制を敷いたという伝統ある市である。今年、伊那史学会編『飯田市の70年』(長野・一草社、4286円)という本が出版された。本書の58ページから59ページにかけて「飯田大火」の記録が6枚の写真入りで掲載されている。

1947年(昭和22年)4月20日、午前11時40分、知久町にある八十二銀行の裏手から出火した。市内各地で消火栓が開かれたことから水圧が落ち、初期消火に失敗した。悪いことには、折からの松川から吹き上げる風が勢いを増し、火は四方へ飛び散り、手がつけられない状況になった。「怒号、怒声が飛び交い、猛火を逃れる人々の群れで城下町の狭い路地は大混乱を呈した」と、『飯田市の70年』では当時の状況を物語っている。火は午後8時頃になって、ようやく鎮火した。焼けだされた市民の上に冷たい雨が降り、4月というのに雨は霙(みぞれ)に変わり、更に雪となり非情に降り注いだ。市街地の大部分を焼失した大火であったが、昼間の火災であったため、死傷者の数が少なかったのが不幸中の幸いであった。

飯田大火の焼失面積は約67万平方キロメートルに及んだ。罹災戸数3,577戸、罹災世帯数4,010世帯、17,800人が焼けだされた。損害額は、当時の金額で15億円。この時点で戦後最大の大火であった。この記録は、1952年(昭和27年)の鳥取大火により破られた。前年の7月15日、飯田駅前から出火した198戸を焼失した火災があり、相次ぐ2度の火災により古い城下町飯田の様相は一変してしまう。

復興後の飯田市の市街地は整然と区画され、都市計画のモデルといわれた。また、防火帯に植えられたリンゴ並木は全国的に話題を呼ぶ。このリンゴ並木は、飯田市立飯田東中学校の生徒達の発案に始まり、今日まで幾世代に渡り生徒達自らの手で育てられてきたもの。大火から5年を経た1952年(昭和27年)夏、同中学の松島八郎学校長が、北海道で開かれた全国中学校学校長会に出席した。帰校した校長は、9月の全校朝会で、札幌の町の道路の広く立派なこと美しく涼しげな街路樹が印象的だったことを話した。更に、校長は、飯田市の焼け跡のことにもふれ、街路樹が必要なことを訴えた。ヨーロッパには、リンゴ並木があるという校長の言及もあった。この話が生徒の心を打ち、紆余曲折のすえ、今日に至るまで飯田東中学校は、全校をあげてりんご並木を守り続けている。「並木で町を美しくするだけではなく、心まで美しくしたい」という当時の中学生の思いは現在に至るまで連綿と引き継がれている。

伊野上裕伸著『特別室の夜』

2007-10-06 09:57:00 | Weblog
伊野上裕伸著『特別室の夜』

  本書の著者である伊野上裕伸(いのうえ・ひろのぶ)氏は、1938年(昭和13年)大阪府の生まれ。國學院大学文学部を卒業後、高校教師、興信所調査員等の職業を経て1975年(昭和50年)から損害保険調査員として働く。この職業を通じて、伊野上氏は交通事故、医療、火災調査等多方面の仕事をこなしてきた。三浦和義事件も手がけたそうだ。以上のような経歴を踏まえ、伊野上裕伸は小説の世界に手を染める。「保険調査員 赤い血の流れの果て」で、1994年(平成6年)に第33回オール読物新人賞を受賞した。次いで1996年(平成8年)には、『火の壁』でサントリー大賞読者賞および日本リスクマネジメント学会文学賞を受賞する。著書に『震えるメス 医師会の闇』、『赤ひげの末裔たち 小説お医者さま生態図鑑』等がある。

 この小説は、著者が得意とする医療・病院もの。32歳、独身の看護師の深沢理恵は、仕事ぶりと美貌を買われて、東都大学病院から神奈川県の湘南の海を見晴らす豪華な老人病院に引き抜かれた。湘南老荘病院という名称の病院は、リゾートホテルのような施設を誇る。経営者は、相当のやり手として知られた存在。湘南老壮病院には、特別室が15室ある。特別室に入るには、部屋代の差額が日額3万5000円もかかる。この金額は、銀座の高級クラブ座っただけで請求される金額とほぼ同じに設定してあるという。これが病院経営者のコンセプトの一端をあらわす。それでも湘南老荘病院の特別室満室なのには、いくつかの理由がある。そのひとつが、「美人看護師が看護する」ということである。理恵は、結婚により退職した前任の美人看護師の後任だった。

 大学病院から転じた深沢理恵は、湘南老荘病院特別室で数々のカルチャーショックに遭遇する。先ず最初の衝撃は、有名俳優の妻、やくざの組長、大手消費者金融会社の会長、歌謡曲の作曲家などの厄介な患者たち。理恵は、彼らの非常識な行動や無理難題に翻弄される。そのうちに起こる一人の患者の不可解な死。この小説は老人医療、介護医療をめぐる暗部を抉るミステリーである。小説の概要を紹介したいところであるが、推理小説という作品の性格から、これ以上の深入りはやめておきたい。損害保険調査員の体験を踏まえて書かれているからであろうが、全体の印象は細部のリアリティがキチンとしており、読み物として比較的よくまとまっている。生損保を問わず、保険業界で働く人々にとって必要な様々な周辺知識を提供してくれる小説であるといえよう。本コラムに本書を登場させた理由は、その辺りにある。
                         (2007年、文春文庫、629円+税)           


100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む

2007-10-01 07:10:07 | Weblog
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(1)

吉祥寺にある行きつけの古書店。その廉価本の棚で、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』(200年朝日選書)を見つけて購入した。値段は僅か100円。ちなみに定価は1200円+税である。

この本の著者である武田佐知子氏は、大阪外国語大学教授。日本古代史を専攻する歴史学者である。本書は、歴史家の目から見た母親武田道子(1996年に死去)の一生をたどったものである。結婚前は女学校教師、結婚後は永らく専業主婦として5人(1男4女)の子供を育て、サラリーマンの夫に”仕え”(著者はこの用語を使っている)、生涯を終えた。ほぼ子育てを終えてから高校の講師をつとめ、短歌に書道に才能を発揮。一人の人間として常に向上心をもち自己実現させていく。

この女性の生涯を、第三者が読んで、何が面白い。そう考えるのが当たり前かもしれない。しかし、本書の原型は朝日新聞大阪版の夕刊に1997年4月3日から10月30日まで30回にわたり掲載された「母の履歴書」に手を加えたもの。もともと、一般読者を対象とした読み物として書かれた。1冊の本として十分読み応えはある。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(2)

当初、著者は母の残した短歌の遺作集を編纂しようと考えていていた。ところが、作品を探す過程で、木製のみかん箱に収納された母の日記、小学校から女学校を経て女子師範学校在学中の日記、結婚前に夫となる人に出した手紙の下書き等の史料が出てきた。戦災や度重なる転居に関わらず生き残った史料の数々。その中には、母が語ることのなかったことが凝縮されていた。このことが著者に知的刺激を与え、本書が出来上がった。娘が歴史家であったことから、母の残した史料に基づいてできあがった本書は、女性史、家庭史、教育史という観点から価値ある作品となっている。また、写真(大正15年の小学校の卒業証書など)が多数挿入されていて読者の理解を助け、また本書の資料的価値を高めている。

日記、手紙等の引用もたびたびあり、その点から、故人とはいえプライバシー侵害すれすれという問題もあろうが、実の娘が引用するのだから構わない。そういってもよかろう。著者の母道子は、天国で本書の存在を知り、「いややわ、でもしゃーない」などと、つぶやいているかもしれない。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(3)

さて、本書のページをめくりながら武田佐知子の母松井道子の生涯をたどってみよう。

著者の母である松井道子は、1913年(大正2年)11月に大阪市北区天神橋筋3丁目で漆器道具を商う店を経営する父清三、母ナラエの長女として生まれた。堀川幼稚園、堀川尋常小学校を経て1926年(大正15年)、大阪府立大手前高等女学校に入学する。 女学校1年の夏休み、甲子園の浜で水泳訓練に熱中した。4年生の夏休みには、学校が主催する絵の講習会に参加。指導は後に日展の審査員をつとめた斉藤与里、ヌードモデルを使った本格的なものだった。これは、1939年(昭和4年)のこと、ちょっとビックリというところ。この年、東京に修学旅行。帝室博物館(現東京国立博物館)前で撮影した集合写真が本書には収録されている。

女学校を卒業した道子は奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)に入学する。大手前女学校の卒業生111名中、進学者89名、22名が就職した。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に3名、奈良女子高等師範学校に4名、府立女子専門学校に6名、神戸女学院に4名、東京女子医学専門学校(現東京女子医大)に2名が進学した。当時の奈良女子高等師範学校は、自宅通学が可能であっても寮に入らなければならない。

こんな記録がある。奈良公園で女高師の韓国留学生と京都大学の学生が集会を開いていた。女高師の日本人学生の中には韓国での生活経験があり現地の言葉を解するものがいた。この集会は韓国の独立運動に関するものであったという。一学年上には左翼運動に身を投じ退学処分になった長谷川という学生がいた。これは後年「反戦エスペランティスト」として有名になった長谷川テルのことであることは、容易に推測がつく。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(4) 

1935年(昭和10年)、女高師を卒業した道子は広島県立加茂高等女学校の国語科教諭として赴任する。この女学校のある場所は、現在の東広島市。広島大学や空港がある。女学校は、現在広島県立加茂高等学校となっている。武田佐知子は、この地を訪れ、母の教え子たちに面談し母の日記を生情報でh即しているが、この辺りはさすが歴史家の行動力だ。月給は50円。道子は毎月1円ずつ貯金した。その通帳の写真も本書に収録されていた。

このあたりで、『娘が語る母の昭和』の50%ぐらいまできた。まだまだ、これからが面白い。なお、本書には若き女性の悩みや遠い知らない場所で働くことへの不安等メンタルな部分も記載されているが、ここでは省かせてもらう。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(5)

女学校教師になって3年目の1937年10月5日に、道子は「お見合い」をする。相手は西条の出身、東京帝国大学法科を出て大阪海上火災に勤務する武田実郎。道子は心を決める。

その後結婚までの6ヶ月、2人は手紙を交わす。実郎から道子宛の手紙44通が、先に言及した木製のみかん箱から出てくる。それを、娘の佐知子が読んで、この本に引用している。

ブログ読者のみなさん、大切な手紙であっても、頭がしっかりしているうちに処分した方がいいかもしれませんね。今日はこれで終わり。あと40%ぐらい残っている。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(6)

武田実郎と松井道子は1938年4月29日に大阪ガスビルで挙式する。新婚旅行は白浜。女学校は退職、道子は夫とともに東京・渋谷区代官山にある同潤会アパートに住む。偶然にも、私たち夫婦が新婚直後数年間住んだところだ。1970年、大阪万博が開催された年だ。

1944年、実郎の勤務先である大阪海上は旧住友海上と合併、勤務先の社名は大阪住友海上(10年後、住友海上と社名変更、その後三井海上と合併し三井住友海上に)となる。同時に、実郎は大阪に転勤する。住居は阿倍野区北畠。

1948年、三女佐知子(本書の著者)が生まれ、1951年には妹和子が生まれた。道子は一男四女の母となる。このとき37歳。まもなく、道子は短歌を本格的に勉強しようと思い立つ。この時期、一家の住居は埼玉県浦和市。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)

1949年、戦争も終わり、生活にもやっと一息。道子は、「妻として母として」ではなく、自分自身の生き方の模索を始める。1951年4女出産。37歳の道子は5人の子の母となる。幸福な一家に見えたが、この頃、夫の健康状態が危ぶまれていた。

限られし父の命を知らずして生まれいでむとする吾子の胎動

これは、4女和子が胎内にいたときの道子の作品である。

4女出産のあと、道子は本格的に短歌をやろうと決心する。

1953年、奈良女高師の同期会の文集(ガリ版刷り)に、道子は「進水風景」という題で七首の短歌を寄せている。以下は、その冒頭の歌。

進水の船見ゆる工場のどの窓にも輝く瞳あり油染みつつ

夫は損害保険会社で海上保険を担当していたようだ。船会社からの招待で夫妻そろって進水式に招待されたのであろう。この時期の住まいは前述のように浦和(多分社宅)。道子39歳。5人の子供は、上から中1、小6、小4、4歳(佐知子=著者)、2歳。小4が、男の子。あとは女子だ。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)

僅か100円で買った古本であるが、長時間楽しめる。道子が、歌人五島美代子が主宰する『立春』に参加したのが、1951年頃のこと。この本、母道子が40歳をこえると急に駆け足となる。著者の父が(多分大阪支店に)転勤したので、浦和から兵庫県西宮市に転居した(年月不明)。武田家の5人の子供のうち上から3人までは、県立神戸高校に通う。これは越境入学だが、当時は公然と行われていたので、珍しいことではない。道子は、この高校の書道の教諭だった吉井辰雄について書を習う。

1960年、所謂「60年安保」の頃、道子は毎日新聞(6月15日付)に「東大と京大の女子学生のお母さん」として紹介される。このとき、道子46歳。神戸高校から東大文学部に進み安保騒動の犠牲となった樺美智子。同じく神戸高校から東大に進んだ著者の次姉(武田)玲子のコースの類似性から取材を受けたらしい。

樺美智子の父樺俊雄は、当時中央大学教授(前任は神戸大学教授、専攻は社会学)。「文藝春秋」1960年3月号に「全学連に娘を奪われて」という手記を載せていた。

この記事を私(植村)は読んだ。当時、私は神戸高校3年生であった私は、丁度大学受験の直前の頃。高校の先輩の樺美智子の過激な政治活動を知り、ショックを受けた。しかも、3ヶ月後に起きた樺美智子の死。大学生になったばかりの私は、フランス語の翻訳小説かなんかを読んでいた。突然母が背後から「樺さんが死んだよ」と声をかけた。暗い声だった。あのときの状況は、いまだに忘れられない。時の総理大臣は岸信介。その孫が、あの頼りなかった「僕ちゃん総理」だ。太平洋戦争の戦犯岸信介という人物は、どうも好かん。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)

引き続き(植村の)自分史に脱線する。当時、神戸・御影にあった我が家には、まだテレビはなかった。というか、購入直前だった。「樺さんが死んだよ」と勉強中の背後から母が情報提供してくれた。このときの(植村の)母の情報源は、テレビではなくラジオだったと思う。そのことを確認しようにも、私の母はこの世にはいない。

少々、脱線が続いた。次回は武田家に初めてテレビが来たときのことを紹介しよう。

武田家にテレビが入ったのは、1963年。「父が勤める海上保険会社から海難品として払い下げられた、アメリカ産GE社製大型テレビ(中略)ブラウン管のフレームが割れていて、海難品であることをものがたっっていた」と著者は(佐知子)は、回想している。この時期にテレビを買うというのは、”遅い方”だと思う。武田家の方針で、「テレビは教育に悪い」といった考えがあったのだろうか。

道子の夫(著者の父)が勤務する会社の独身寮が駒場にあった。寮生が会社に対して「寮にテレビを置いてほしい」との要請をしたところ「寮は勉強をするための施設であり、テレビは不要」と断られた。そこで、寮生たちがお金を出し合いテレビを買った。そんな”伝説”があった。この時期は、恐らく1963年の頃に違いない。私(植村)は、この会社に1964年4月に入社する。植木等のスーダラ節華やかな時代である。入社時研修の際、文書課長が「サラリーマンは気楽な稼業ではないぞ」と訓示したことを思い出す。もっとも、課長の目は笑っていた。サラリーマンが気楽な稼業と思っているような新入社員はいなかったに違いない。

私(植村)は38年間同じ会社に勤めたが、たった1度だけ(武田家と)似た体験を持つ。火事で焼けたレコード店の商品(ジャケットが消防の注水で水ぬれした)であるレコードを社員に格安で販売したことがあった。そのとき、買ったレコードが1枚あったが、まだ聞いたことがない。LPレコードの時代は終わってしまったことだし、無駄な買い物をしたものだ。約30年前のこと。支払ったのは300円ぐらいだったか。曲目は、誰かが作曲したファゴット協奏曲だったと思うが、「どうでもよい」ことである。

100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)

1964年(昭和39年)、夫の転勤で東京に戻った道子は、神田女子学園・高校で国語科の非常勤講師をつとめる。

高校生急増対策に我が得しは教ふることの喜びにして

これは、その当時の短歌。道子の教師生活は1980年まで。18年間続く。

1989年、金婚記念に出た手作り文集に、道子は「私と書道」という文章を寄稿する。母(道子)の最晩年、佐知子は母に尋ねた。「なぜ、記念の文集にやや趣旨に添わないと思われる書道をテーマにした文章を書いたのか」と。

その回答は、「妻として母として果たして来た役割以外にも、してきたことがある」ということをみんなにわかってもらいたかったからだという。この場合の”みんな”というのは、夫、5人の子供たち、そして孫たちということになる。

道子は、1913年(大正2年)生まれ。教養あるキリリとした女性である。5人の子供の母となり、夫を見送り、1996年に死去した。

なお、冒頭で述べたとおり、この本は僅か100円で吉祥寺の古本屋で購入した。僅か100円であったが、十分楽しませてもらった。道子さん有り難う。気がつけば、あなたは私の父の1歳年上ですね。