坪内ミキ子著『母の介護』
著者の坪内ミキ子は、1940年(昭和15年)東京の生まれ。早稲田大学文学部英文科在学中に女優としてデビューした。映画、ドラマの出演が多数あり、クイズの回答者としてワイドショーの司会者として活躍してきた。父は、演劇評論家坪内士行。98歳で死去した。また、母は宝塚の第1期生(総員16人)の雲井浪子。1913年(大正2年)に13歳で入団し、初舞台は桃太郎を題材にした「ドンブラコ」の猿の役であった。その母は、2002年に102歳で死去する。本書は、母の介護記録であるが、同時に坪内家(後述)をめぐる多彩な人物たちの家庭史といった性格をもつ作品でもある。
母は、元宝塚スターとしてプライドが高く、高齢となっても矍鑠(かくしゃく)としていた。しかし、1997年8月、96歳のときに、自宅のあるアパートのコンクリートの階段で、ころび寝込んでしまう。それ以後、母は「わがままな老婆」に成り果てた。その母の6年間にわたる介護奮闘記が本書の主要テーマである。著者は仕事を持っている。そのため、母の介護に付きっきりという訳にはいかない。そこでヘルパーを頼む。先ず、ヘルパーの時給が高いという恐怖が著者を襲う。夜間の介護も頼むため月額約100万円という金額に達する。著者には一人息子がいる。その息子を母(息子にとっては祖母)の介護を一時的にも頼みたい。そのように著者は思う。しかし、母は「男だから」という理由で拒否する。排尿の頻度がたかいので、紙おむつの使用を勧めるが受け入れてくれない。
本書は介護の本であるとともに、日本の演劇史、芸能史、社会史といった観点からも面白く読める。著者坪内ミキ子の祖父(ただし、血縁はない)は、シェクスピア研究等で著名な坪内逍遥である。著者の父である坪内士行は、7歳のとき叔父坪内逍遥の養子となった。父士行は、大正7年に小林一三の招きで宝塚少女歌劇に演出家として加わった。そこで、人気スターの雲井浪子(著者の母)と出会う。坪内士行(父)、雲井浪子(母)の結婚は1919年。新郎33歳、新婦19歳であった。
一橋大学学長をつとめ、中央労働委員会委員長をつとめた中山伊知郎が、神戸高商(現神戸大学)の学生時代、雲井浪子を見る目的でに宝塚へ通ったそうだ(『中山伊知郎全集』第17集)。
介護からは脱線したが、本書にさりげなく書かれた周辺事情は、社会風俗史見地から貴重な記録である。特に第7章で詳述されているのが、同潤会江戸川アパートメントハウス(新宿区)のこと。この章は、建築史の観点からも面白い。同潤会というのは、関東大震災の被災者の入居を目的に、当時の内務省が設立した財団法人。代官山、原宿等に鉄筋の共同住宅を建設した。これらの共同住宅は、当時としてはモダンで近代的。医者、学者の住人が多く、独特のコミュニティーを作っていた。同潤会江戸川アパートメントハウスは、1934年(昭和9年)に建てられた。広い中庭を囲む4階建てと6階建ての高層アパート。ここで著者は生まれ育った。なお、本稿作成に当たっては、2003年9月8日付朝日新聞夕刊に掲載された坪内操(雲井浪子)の追悼記事を参照した。
(2007年、新潮新書、定価680円)
著者の坪内ミキ子は、1940年(昭和15年)東京の生まれ。早稲田大学文学部英文科在学中に女優としてデビューした。映画、ドラマの出演が多数あり、クイズの回答者としてワイドショーの司会者として活躍してきた。父は、演劇評論家坪内士行。98歳で死去した。また、母は宝塚の第1期生(総員16人)の雲井浪子。1913年(大正2年)に13歳で入団し、初舞台は桃太郎を題材にした「ドンブラコ」の猿の役であった。その母は、2002年に102歳で死去する。本書は、母の介護記録であるが、同時に坪内家(後述)をめぐる多彩な人物たちの家庭史といった性格をもつ作品でもある。
母は、元宝塚スターとしてプライドが高く、高齢となっても矍鑠(かくしゃく)としていた。しかし、1997年8月、96歳のときに、自宅のあるアパートのコンクリートの階段で、ころび寝込んでしまう。それ以後、母は「わがままな老婆」に成り果てた。その母の6年間にわたる介護奮闘記が本書の主要テーマである。著者は仕事を持っている。そのため、母の介護に付きっきりという訳にはいかない。そこでヘルパーを頼む。先ず、ヘルパーの時給が高いという恐怖が著者を襲う。夜間の介護も頼むため月額約100万円という金額に達する。著者には一人息子がいる。その息子を母(息子にとっては祖母)の介護を一時的にも頼みたい。そのように著者は思う。しかし、母は「男だから」という理由で拒否する。排尿の頻度がたかいので、紙おむつの使用を勧めるが受け入れてくれない。
本書は介護の本であるとともに、日本の演劇史、芸能史、社会史といった観点からも面白く読める。著者坪内ミキ子の祖父(ただし、血縁はない)は、シェクスピア研究等で著名な坪内逍遥である。著者の父である坪内士行は、7歳のとき叔父坪内逍遥の養子となった。父士行は、大正7年に小林一三の招きで宝塚少女歌劇に演出家として加わった。そこで、人気スターの雲井浪子(著者の母)と出会う。坪内士行(父)、雲井浪子(母)の結婚は1919年。新郎33歳、新婦19歳であった。
一橋大学学長をつとめ、中央労働委員会委員長をつとめた中山伊知郎が、神戸高商(現神戸大学)の学生時代、雲井浪子を見る目的でに宝塚へ通ったそうだ(『中山伊知郎全集』第17集)。
介護からは脱線したが、本書にさりげなく書かれた周辺事情は、社会風俗史見地から貴重な記録である。特に第7章で詳述されているのが、同潤会江戸川アパートメントハウス(新宿区)のこと。この章は、建築史の観点からも面白い。同潤会というのは、関東大震災の被災者の入居を目的に、当時の内務省が設立した財団法人。代官山、原宿等に鉄筋の共同住宅を建設した。これらの共同住宅は、当時としてはモダンで近代的。医者、学者の住人が多く、独特のコミュニティーを作っていた。同潤会江戸川アパートメントハウスは、1934年(昭和9年)に建てられた。広い中庭を囲む4階建てと6階建ての高層アパート。ここで著者は生まれ育った。なお、本稿作成に当たっては、2003年9月8日付朝日新聞夕刊に掲載された坪内操(雲井浪子)の追悼記事を参照した。
(2007年、新潮新書、定価680円)