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『日本生命百二十年史』拾い読み

2010-05-18 16:41:58 | Weblog
『日本生命百二十年史』拾い読み

『日本生命百二十年史』が出版された。たまたま目を通す機会があったので、チョット気にかかる点等をメモしてみた。

日本生命の創業には、第百三十三国立銀行の頭取であった弘世助三郎が中心的な役割を果たす。弘世は、近江彦根(滋賀県)の素封家に育ち、早くから救世救民の志が強い人物であったが、近代的生命保険の仕組みを知って、関西の中心地である大阪に新たな生命保険会社を興そうと決意、創立に向けて精力を傾けた。創立委員・発起人については、第百三十三国立銀行の取引先である各国立銀行首脳等を歴訪し、協力を依頼する。1889年(明治22年)7月1日に大阪府知事に提出された創立願には、大阪府、滋賀県の財界有力者ら62名が発起人として名を連ねた。同月4日に創立が認可され、ここに日本で3番目(明治生命、帝国生命に次ぐ)の生命保険会社として「有限責任日本生命保険会社」が誕生する。7月28日の創立総会では、社長鴻池善右衛門(10代、1877年に第十三国立銀行(現、三菱東京UFJ銀行)を創設)、副社長片岡直温(前職は滋賀県警察部長)以下の初代経営陣を選任、創業者の弘世助三郎は取締役に就任する。

 同社の営業開始は、創立から2か月半を経た9月20日のこととなる。これは、年齢別の保険料率を定めた「保険料表」の完成に時間を要したため。この「保険料表」作成こそ、同社の経営理念が明確に反映されたもの。創立にあたって同社が用意した「保険料表」は、実は外国で使用されていた保険料表を補正したものに過ぎなかった。事業経営の将来に大きな影響をもつ保険料率が、欧米人の死亡率によって算出されていることの不合理に、経営陣は納得ができない。この窮地を救ったのが、東京帝国大学教授の藤澤利喜太郎。藤澤は、その著書『生命保険論』の中で、日本人の生死をもとに作成した死亡生残表(藤澤氏第一表)を掲げていた。担当の人見米次郎(当時岩崎姓)は、藤澤を訪問して保険料表の作成を懇願した。藤澤は、保険料を低すぎることのないように定め、もし将来余剰金を生じたときは、これを契約者に割り戻すべきであるとし、その実行を経営陣が誓約するならば、どのような援助も惜しまないとの意向を表明した。
1918年(大正7年)に始まり翌々年迄続いたスペイン風邪の蔓延。その影響により、生命保険会社の死亡率は急激に悪化した。同社でも、予定死亡100に対する実際死亡は戦争時を除く平常年で70~80台であったが、1918年~1920年度の3年間は、件数ベースで見ると、99,92,102と予定死亡率と実際死亡がほぼ均衡するレベルに達している。この間、流行性感冒による死亡は合計2,735名、保険金支払額は203万円を超えた。とはいえ、業界全体を見ると同社以外の会社が大きな死差損を出す状況下にあって、同社の損害は比較的軽微で済む。これは、同社が、前述の藤澤教授による保険料表(第二表)を用いており、厳格な保険数理が働いていたことも幸いしたとされている。
 さらに、1923年(大正12年)9月1日には、関東大震災が発生。災害史上空前の惨禍となる。地震と火災発生により、関東・東海の広範囲にわたって甚大な被害が生じ、死傷者十数万人、被害総額は100億円を超えた。同社は、ただちに救護班を組織して、大阪本店から現場に派遣し、被害者の救護に当たる一方、保険金、貸付金その他の支払いに非常簡便の手段を講じた。関東大震災による支払保険金は翌年8月末までの1年間に支払いを終了した額が81.6万円。同一期間内に震災地域内の契約者に支払った解約返戻金8.7万円、同じく貸付金31.3万円であった。なお、被害が関東とその周辺に限られたため、同社における死亡率の上ぶれは小さかった。

 時代はずっと下って、1996年(平成8年)。この年の4月に施行された改正保険業法では、「生命保険固有分野」、「損害保険固有分野」、「傷害・疾病・介護分野(第三分野)」についての定義規定により、保険業務区分が明確化され、本体による生損保兼営は依然として禁止されたものの、”子会社を通じての生損保兼営”が可能となる。日本生命は、平成8年8月8日、100%子会社として「ニッセイ損害保険株式会社」(以下ニッセイ損保)を設立、同年8月27日事業免許を取得して同年10月1日営業を開始する。ニッセイ損保の販売体制には特徴があった。それは、従来の代理店に加え、個人マーケットについて日本生命の営業職員を代理店として販売を行う点である。生命保険と損害保険を併せてご提案するトータルサービス(TS)を同社の中心チャネルである営業職員一人ひとりが提供するという体制をとることにより、顧客の利便性の向上を図ったのだ。また、この手法は経営資源の有効活用にも資するものであった。TSの推進の目的で、平成9年度より、営業教育訓練体系にTS教育を加えた。同時に初級代理店から普通代理店に格上げしていくための教育も推進するなど、損保教育の拡充を図った。
 また、生損セット商品の開発も行い、万一の場合や就業不能時の所得補償のための新商品「トータルガード」(平成9年9月)、特定のケガや携行品の損害、個人賠償責任などをカバーする「スーパーアクティブパック」(同年11月)といった商品も発売していく。1999年(平成11年)4月にサービスを開始した「ニッセイ保険口座」を開設した顧客に対し、ニッセイ損保の自動車保険・火災保険・傷害保険等の所定のご契約について、ニッセイ損保の規定に基いて、保険料の割引を行う「口座で割引」制度も導入された。
 1999年(平成11年)6月、日本生命は、同和火災、ニッセイ損保との3社で資本関係の強化に同意した。既に、同和火災とニッセイ損保の間では、自動車保険の損害査定業務などで提携関係にあったが、さらにこれを拡大していこうというものである。変化の早いマーケットにおいて、顧客サービス強化のために必要な機能強化を”自前”で行うよりも、技術的・時間的・コスト的な面など総合的な観点から、”提携”による方が効率的であるとの判断からであった。
 更に、同年7月に同和火災の第三者割当増資を引き受けたことで、同和火災は日本生命グループの一員となった。翌年5月、ニッセイ損保と同和火災は「合併契約書」に調印、2001年(平成13年)4月には、「ニッセイ同和損害保険株式会社」(ニッセイ同和損保)が誕生する。この合併を機に、リスク細分型自動車保険「ぴたっとくん」を発売した。この商品は、運転者の年齢や範囲に応じて合理的な保障と保険料を実現している。
 ニッセイ同和損保の誕生は、日本生命グループとしての損害保険事業の幅と規模を拡大し、これにより日本生命社の損害保険事業への確たるコミットメントを示すこととなる。生命保険・損害保険双方の商品を提供することによりお客様との接点が増え、営業職員の活動の幅が広がることになった。一方、ニッセイ同和損保は、日本生命とのクロスセリングの効果もあり、他の大手損保会社を上回る業績伸展を示す。正味収入保険料は、平成12年度末の2,683億円から20年度末には3,109億円と15.9%の大きな伸びとなる。その後、2009年(平成21年)1月、ニッセイ同和損保は、あいおい損保および三井住友海上グループとの経営統合を発表している。ニッセイ損保が誕生したのが1996年(平成8年)。僅か10年余の間であったが、本書により目まぐるしい変化の跡を簡潔に辿ることができた。
 
本書には、企業スポーツについても、若干のページが割かれている。1929年(昭和4年)創部という伝統を誇るのが野球部。都市対抗野球大会には、1949年(昭和24年)の第20回大会に初出場以来、出場は51回。これは歴代1位という快挙だ。第56大会(1985年(昭和60年))、第63大会(1992年(平成4年))、第68大会(1997年(平成9年))と3回の優勝を遂げている。一方、社会人野球日本選手権では、1974年(昭和49年)の第1回大会以来、出場が29回。2回の優勝(第17回大会、第29回大会)を果たした。また、1954年(昭和29年)に創部された女子卓球部は、優勝22回、総合優勝(内閣総理大臣杯)12回という戦績を残している。同社における企業スポーツは、企業イメージを高め、社内の一体感を作るためと位置付けられている。

日本生命は、“歴史を大切にする会社”である。千葉県浦安市にあるニッセイ総合研修所内には、メモリアルルームが設置されている。ここには、創立趣意書(原稿)、開業時の保険料表、本店旧社屋の模型など、同社の歴史を物語る貴重な資料が展示されている由。規模は小さいかもしれないが、今後本格的な「企業博物館」として発展していくことを期待したい。


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日本生命の歴史拾い読み再々送信 (春本榮三)
2012-05-30 08:02:06
「日本生命百二十年史拾い読み」を読ませていただき読後感想をコメントしましたが、送信誤りを発見したので再々度若干文章を変えて送信しますのでよろしくお願いします。(私も日本生命120年史は出版されたとき日本生命様よりいただいております)
日本生命が今日の日本一の生命保険会社になるに至ったのは、どこの会社でも云えますが、やはりラッキーな点もあったのだとつくづく感じます。それは日本生命が創業した明治二十二年に偶々日本で初めて「生命保険論」が藤澤利喜太郎によって発刊されたことです。日生の四代目社長になられた成瀬達氏が「藤澤博士追想録」に記載されているように、日生が会社をスタートしたのはよかったのですが、日本の生残表に基づく掛け金表で生命保険を売ろうとしても、まだ存在していなかったため後藤新平に依頼して彼の知人の古川医学士に掛け金表を作成依頼しても回答を濁していて困っていたちょうどそのとき、藤澤博士が日本で初めての「生命保険論」が発刊されたのです。そこには日本人の生残表に基づく掛け金表が記載されており、これを片岡直温副社長が目ざとく大阪の新聞広告で見て、急きょ東京に出張していた岩崎米次郎に、利喜太郎博士に会いに行かせるのですから、面白いです。イギリスの生残表を従来通り使用していたら日本生命の今日の隆盛はなかったかもしれません。私は日本生命の浦安のメモリアルルームに三年前に訪問し、藤沢利喜太郎の協力で作成した毛筆による生残表(第二表)や岩崎米次郎の八月十六日からの上京日誌を見させていただきましたが、歴史のすごさを感じました。
なお片岡副社長に関しては、滋賀県警の職を辞して民に転身し日本生命に職を得たのは実にラッキーだったと云えるではないでしょうか。何故なら民に転身した二年後に滋賀では大津事件が発生し津田三蔵が逮捕されますがもし警察の要職にとどまっていたら大変だったでしょう。しかしながら彼はその後アンラッキーな事件に遭遇するのです。日生退任後彼は衆議院議員となり若槻礼次郎内閣で大蔵大臣になりましたが、昭和2年3月14日衆議院予算委員会で野党側から「銀行の経営事態を明らかにせよ」と言う執拗な問いに対して、次官から届けられたメモに基づき「現に今日正午頃において渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言してしまいます。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していましたが、この発言で東京渡辺銀行に預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまいます。これが昭和金融恐慌の引き金となり、これを機に取り付け騒ぎが発生します。
つまり片岡直温と云う人は、日本生命にとって創立に関係した恩ある人でしたが、大蔵大臣に就任したものの昭和金融恐慌のきっかけを作ってしまった点では、アンラッキーだったのではないでしょうか。なお直温の後任大臣は高橋是清でした。
因みに私事ですが、後に熊本の第五高等学校の測量学の教師となる数学者宇田(大平)柏三郎は、利喜太郎が日本生命より生残表作成依頼に際し宇田柏三郎と岡幸裕に急きょ生残表作成を命じたのでした。このいきさつも岩崎の上京日誌の明治二十二年八月二十六日に記載されていました。この宇田柏三郎は小生の岳父の父に当たります。つまり妻のおじい様にあたる方です。明治は遠くなりにけりですが考えさせられます。
また拾い読みに書かれているニッセイ同和損保はあいおい損保と合併し、三井住友海上とも近々合併されるでしょうが、小生は住友海上に碌を食んでいたことも奇遇です。また日本生命には大学卒業の時就活に際し日生人事部から入社しないかとの連絡がありましたが、すでに住友海上に決まっていたのでお断りしたのも遠い過去のことです。
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