読書と著作

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『三陸海岸大津波』

2005-09-21 23:52:00 | Weblog
吉村 昭著『三陸海岸大津波』

 本書は当初中公新書の一冊として一九七〇年に『海の壁-三陸海岸大津波』というタイトルのもとで刊行された。その後改題され『三陸海岸大津波』として中公文庫の一冊として一九八四年に文庫本化された。更に、二度目の文庫本化として二〇〇四年三月に文春文庫として刊行された。
 タイトルが示すように、本書は東北地方の東海岸、青森県・岩手・宮城三県にわたり続く三陸海岸を襲った津波に関する詳細なルポタージュである。
 明治以降、三陸海岸は三度の大津波に襲われた。
一、一八九六年(明治二十九年)六月十五日  死者二六三六〇人
二、一九三三年(昭和八年)三月三日  死者二九九五名
三、一九六〇年(昭和三十五年)五月二十一日  死者一〇五名
 著者は三陸地方が気に入り何度か旅した。いつの頃からか、かつてこの地を襲った津波について深い関心を持ち、文献を集め、体験者から話を聞き本書を練り上げた。

 一八九六年の津波について、著者は貴重な証言を得る。一八八六年(明治十九年)生まれの中村丹蔵氏は、著者が取材した当時八十五歳。記憶も鮮明だった。以下の引用は、中村氏を取材したうえで書かれた津波発生時の再現である。

中村氏は、当時十歳の少年で端午の節句の夜、家で遊んでいた。小雨が降り、家の周囲には濃い霧が立ち込めていた。
突然、背後の山の中からゴーッという音が起った。少年は、豪雨が山の頂きからやってきたのだな、と思った。
と、山とは逆の海方向にある入口の戸が鋭い音を立てて押し破られ、海水が激しい勢いで流れこんできた。
祖父が、
「ヨダ(津波)だ!」
と、叫んだ。
 中村少年は、家人とともに裏手の窓からとび出すと、山の傾斜を夢中になって駆け上った。
 翌日、海も穏やかになったのでおそるおそる家にもどってみると、家の中にはおびただしい泥水にまじって漂流物があふれていた。

 中村氏の記憶によると、この時の津波は海抜五〇メートルの高さにまで達している。

 著者は一九三三年の大津波の際に書かれた小学生の作文を発見、本書の中に原文のまま数篇をとりこんでいる。以下は、その一例。

つ な み
尋二 佐藤トミ
 大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじいさんと外へ出て川へ行って見ました。
 其の時はまだ川の水はひけませんから、着物を着てねました。そうしておっかなくていると、外でつなみだとさわぎました。
 私はぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負って)山へはせ(走り)ました。
 山で、つなみを見ました。
 白いけむりのようで、おっかない音がきこえました。火じもあって、みんながなきました。
 夜があけてから見ましたら、家もみんなこわれ友だちもしんでいたので、私もなきました。

 リアス式海岸という津波の被害を受けやすい三陸地方。数次の津波被害の体験をふまえ、住民の避難訓練や防潮堤の建設が進む。その結果、後の津波被害の軽減化がはかられていく。
 例えば、田老町(岩手県)の場合、一九三三年の津波の翌年から防潮堤の建設が始まった。太平洋戦争中の中断はあったが、一九五八年(昭和三十三年)に全長一、三五〇メートル、高さ最大七・七メートル(海面からの高さ一〇・六五メートル)の大防潮堤を完成させた。防潮堤完成後に襲ったチリ地震津波では死者も家屋の被害はなかった。ちなみに、田老町では一八九六年の津波で一、八五九人、一九三三年の津波で九一一人の死者を出している。
『関東大震災』の著書もある吉村昭。災害・安全・防災に関するドキュメントの腕の冴えを見せている。
(二〇〇四年・文春文庫・四三八円+税)


『海野十三 敗戦日記』

2005-09-21 03:50:42 | Weblog
『海野十三 敗戦日記』

本書は、空想科学小説作家海野十三(うんの・じゅうざ)の戦中日記である。期間は、1944年(昭和19年)末から約一年間。東京・若林(世田谷区)に住む海野家の上空を、米軍機が轟音をたてて飛び交う。そんな状況が、科学者らしい正確さとリアリティをもって記録されている。米機による最初の空襲は、昭和19年11月1日。その後、空襲は日増しに激しさを増す。家族ともども防空壕に逃げ込んだり、戻ったりの日々だ。間隙をぬって、作家仲間や旧友と交流し、情報交換や生活用品の物々交換をする。1945年(昭和20年)3月には、嫁いだ娘の付き添いで鹿児島へ行く。往復で6六日もかかる旅だった。鹿児島に向かう列車の窓から、神戸南部の工場地帯が燃えているのが見る。そんな記録も出てきた。海野十三にとって神戸の地は第二の故郷。小学校三年から神戸一中(現神戸高校)卒業まで過ごした地だ。

広島の原爆投下は8月10日付の新聞で知る。日記には「これまでに書かれた空想小説などに原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつある」と記していた。日本のSF界の父といわれる海野十三が書き残した同時代の記録は、六十年の歳月を経ていまだに色褪せていない。海野十三は、1897年(明治30年)徳島市の生まれ。小学校三年のとき、父が神戸税関に転職したため神戸に転居する。神戸一中卒業後、早稲田大学理工学部に学び、逓信省電気試験所に勤務した。その後、電気特許事務所を開き、夜は小説を書く生活を続ける。「新青年」「オール読物」や少年雑誌を舞台にロケットや宇宙船が登場する空想科学小説を書き人気を得る。終戦直後、一家で自殺を図ろうとするが、思いとどまる。しかし、戦後間もない1949年(昭和24年)に、結核のため死去した。51歳だった。
(中公文庫、定価七百四十三円+税)

『整理する技術が面白いほど身につく本』

2005-09-21 03:28:26 | Weblog
壷坂龍哉(つぼさか・たつや)『整理する技術が面白いほど身につく本』(2005年、中経出版、1100円+税)を読む。僅か150ページ余の薄い本、しかもイラストや表を多用しているので、活字部分は少なく、読みやすい。章立ても興味をそそる。「100円ショップで手に入る整理ツール」(第2章)、「机まわりの整理術」(第3章)といった具合。著者の現職は、㈱トムオフィス研究所代表取締役。記録管理、ファイリング等のコンサルタント会社だ。1958年に慶應義塾大学卒業後、鐘紡入社、その後転職して1990年からの現職。そんな著者の経歴から、本書は(空論でなく)実務の裏づけがある内容で説得力がある。