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日本初の社内報、1903年(明治36年)鐘紡兵庫工場で生まれる

2009-05-07 09:58:54 | Weblog
日本初の社内報、1903年(明治36年)鐘紡兵庫工場で生まれる

 戦前からの名門企業でありながら、21世紀になって経営破綻したカネボウ。そのルーツは1887年(明治20年)に設立認可を得た東京綿商社。東京綿商社は翌年に有限責任鐘淵紡績会社となる。鐘淵紡績は、その後になって鐘紡と改称、1988年(昭和63年)に、社史『鐘紡百年史』を刊行している。『鐘紡百年史』の編集後記によると、同社が社史を刊行するのは、このときが初めて。それまで、『50年史』(1937年)、『80年史』(1967年)は企画されたものの草稿段階にとどまり、発刊をみていない。『鐘紡百年史』が出て間もなくの頃、この本の巻末にある年表を見て「えっ!」と思った。1903年(明治36年)6月30日、日本で最初の"社内報"が鐘紡で刊行されたとの記述があったのである。日本初の社内報に関しては、本文にも若干の記述がある。最初の社内報のタイトルは「兵庫の汽笛」。同社兵庫工場(神戸・和田岬の近くにあった)の職員を対象としていた。この「兵庫の汽笛」は、翌月25日に「鐘紡の汽笛」と改題され、兵庫工場のローカル版から全国版としての発行されることとなる。日本で最初の社内報を発行することを決めたのは、武藤山治(むとう・さんじ)。武藤は、社内報刊行当時は、鐘淵紡績兵庫工場の支配人だった。後年、武藤山治は、その回顧録伝『武藤山治身の上話』(私家版、1934年)のなかで、"社内報"を出すヒントとなったのは、たまたま入手した米国企業のナショナル・キャッシュ・レジスターが発行する社内および得意先向けの諸雑誌であったと書き記している。

 武藤山治は江戸時代末期の1867年(慶応3年)愛知県の生まれ。旧姓は佐久間、のち武藤家の養子となる。慶応義塾卒、19歳で渡米、カリフォルニア州のパシフィック大学で学ぶ。1887年(明治20年)に帰国、ジャパンガゼット社に勤務する。傍ら日本で最初の広告取次ぎ行を始める。1893年(明治26年)、中上川彦次郎の誘いで三井銀行に入る。翌年、すなわち1894年(明治27年)に鐘淵紡績に入社。業績悪化の鐘淵紡績を復興するために外資を導入するなどの再建をはかる。1921年(大正10年)に鐘淵紡績社長に就任。国内有数の企業に育てる。家族主義的な経営で従業員の福利厚生を重視し、待遇改善に努めた。福利厚生には、社内に乳児保育所や共済組合を設置している。社内報の発刊は、この家族主義的な経営と関係が深いといえよう。武藤山治は、1923年(大正12年)、政界浄化による階級闘争防止と経済的自由主義に基づく“安価な政府”実現を目指すべく「実業同志会」を結成、会長となる。1924年(大正13年)、衆議院議員に当選した。1930年(昭和5年)、鐘紡社長を辞任。1932年(昭和7年)、政界を引退。福澤諭吉が創刊した時事新報の社長になる。1934年(昭和9年)、「番町会を暴く」の記事を執筆。鋭い記事は大きな波紋を呼ぶ。その中で帝人事件の疑惑を報道する。その直後の3月9日、鎌倉(当時大船町)の別邸を出たところで福岡県出身の失業者・福島新吉に銃撃され、翌日死去。一説には福島の政策案を武藤が盗用し、その和解金をめぐるいざこざがあったと言われるが、福島がその場で自殺したため、事件は謎に包まれたまま。

 以上、長々と武藤山治の生涯を辿ったが、アメリカ留学したジャーナリストのセンスと実績を持つ経営者武藤山治。この人物が、日本初の社内報を生み出した“必然性”のようなものを感じてしまう。このことは、私の脳裏を離れることはなく、時々反芻していた。カネボウが破綻するすこし前のこと。大阪駅前の地下街にある古本屋萬字屋書店で、『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法』という本を発見した。発行は1922年(大正11年)、神戸市東尻池番外13番屋敷の鐘淵紡績株式会社営業部となっている。とはいっても、まともな本ではない。約140ページの原本をコピーして製本したものである。そのため、厚みは2倍となり、ずっしりと重たい。古本屋の店頭で、このコピー本を見つけ、「もしや?」と思いパラパラめくり、最後の方に小さな写真を発見し、値段を気にせず買ったのだ。ただし、その値段は記憶に無い。1000円か、2000円ぐらいだったであろうか。写真というのは「鐘紡の汽笛」という鐘淵紡績株式会社の社内新聞のもの(残念ながら「兵庫の汽笛」ではない)。発行年は読み取れないが、初期の社内報の伝統を受け継ぐ「鐘紡の汽笛」の写真であることに間違いはない。極めて鮮明度を欠く写真であるが、以上の私の拙い薀蓄から、コピー製本の粗末な本を、私が旅先で買い求め、東京の自宅まで運んできた理由をご理解戴けよう。
 『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法』の巻頭には武藤山治が、この本の「再刊の辞」を寄せている。前年刊行したが同名の本の評判が良く、会社の沿革を加える等して再刊することになった旨のメッセージである。同じく武藤山治による緒言のページ(初版刊行時)には、本書刊行に至る由来が述べられている。すなわち、本書は米国で開催された労働会議に、同氏が日本代表の雇主として出席した際に用意したもの。各国からの労働会議出席者には英訳したものを配布した旨が書かれている。初版発行は、1921年(大正10年)6月で、武藤山治は専務取締役である。「再刊の辞」を書いた時点の肩書は社長となっていた。『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法』には、病傷者の取扱、共済組合、年金制度、各種救済(家計困難、従業員の家族罹病等)、従業員の家族のための幼稚園や学資の貸与、寄宿舎、トラホーム患者の無料検診、呼吸器患者の取扱方法、鐘紡女学校など極めて多岐にわたる。この方面の研究者にとっては貴重な文献であるに違いない。