米国から帰国した森永太一郎(1865-1937)が創立した森永西洋菓子製造所は、1911年(明治44年)に森永製菓と改称する。その森永製菓が、主力商品のミルクキャラメルの原料である練乳を自社製造する的で、1917年(大正6年)に愛国練乳合資会社を買収、日本練乳を創立した。この会社が森永乳業のルーツである。この森永乳業のホームページの「あゆみ」欄には、”昭和30年8月 粉乳中毒事件発生”との記述がある。これが、森永砒素ミルク中毒事件のことである。少々表現が違うが、自社にとって都合の悪い情報をホームページで開示しているのは当然のこととはいえ、立派なことである。以下、この事件の推移を見てみよう。
1955年6月から8月にかけて、西日本を中心に人工栄養の乳児の間で原因不明の疾患が多発した。当初は奇病とみられたが、8月24日に岡山県衛生部により、乳児の間で砒素中毒患者が多発していること、患者が飲用していた森永乳業製粉ミルクから砒素が検出されたことが発表された。1956年2月の厚生省発表では、患者数は少なくとも1万2159人、うち131人が死亡したとされている。しかし、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、実際の被害はこの数倍に達するとの説もあった。この事件の原因は、森永乳業徳島工場が粉ミルク製造時の乳質安定剤として用いた第2リン酸ソーダ(リン酸水素2ナトリウム)に、砒素が混入したことにある。森永乳業は安価であるとの理由で、1953年頃から全国の工場で工業用の第2リン酸ソーダを使用していた。そこには元々極微量の砒素が含まれており、それ自体は問題ないとの説もあるが、1955年4月10日に納入された第2リン酸ソーダに不純物として大量の砒素が混入していた。このため粉ミルクが汚染され、砒素中毒を多発させることになったのである。
1955年9月18日に森永ミルク被災者同盟全国協議会が結成されるなど全国各地で被害者団体が組織され、森永乳業に原状回復と補償を求める運動が行われた。しかし、交渉は難航する。一方、厚生省は10月9日に医療問題を扱う「西沢委員会」、22日には補償問題を扱う「5人委員会」と2つの専門家グループを発足させ、1956年3月26日には全国一斉検診の実施を通達したが、「ほとんどの患者が全快しており、後遺症を心配する必要はない」との結論を拿出した。さらに、1963年10月2日に徳島地裁で本事件に関する刑事裁判の一審判決が言い渡され、徳島工場の製造課長と工場長が無罪となる(徳島地検が控訴)。こうした流れの中で被害者団体などによる被害者救済運動は衰退し、各地で提訴されていた民事訴訟の全てが1964年までに取り下げられた。
しかし、大阪大学医学部衛生学教室丸山博の指導下で、養護教諭や保健婦らが被害者を訪ね歩くなど地道な活動が続けられた。1969年10月18日、その報告書「14年目の真実」が公表され、脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患など深刻な後遺症に苦しむ患者の実態が明らかになる。さらに、10月30日に第27回日本公衆衛生学会で丸山がこの問題について報告を行う。これを契機に、11月30日に森永ミルク中毒の子供を守る会(現森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会)が発足する等、再び運動が活発化し、世論の支持を得るようになった。
この間、刑事裁判は控訴審による差し戻し判決、最高裁による控訴審判決支持と進展していたが、1970年2月9日に徳島地裁で森永乳業の刑事責任を認め製造課長を有罪とする(工場長は無罪)判決が言い渡された(判決確定)。また、同年5月26日に提出された日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告書により、後遺症が依存することが公式に認められた。10月には森永ミルク中毒の子供を守る会・厚生省・森永乳業の3者間で救済対策の早期実現が確認され、12月23日に森永乳業が基金として30億円を拠出するなどで合意が成立。1974年4月24日に恒久的な救済機関である財団法人ひかり協会が発足した。
なお、事件発覚以来長期にわたり、森永乳業は自社製品中に含まれる砒素が事件の原因であることを認めようとしなかった。また、これを認めた後も、納入業者を信用していたので、自社に注意義務は無いと主張した。こうした無責任な体質や裁判の長期化から森永乳業の企業イメージは著しく損なわれ、森永乳業製品のボイコット運動も発生するなど、森永乳業は大幅にシェアを失うことになった。
1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者がでた。これが、歴史に残る森永砒素ミルク中毒事件である。食品添加物の安全性、粉ミルクの是非などの分野で、現在でも忘れられることなく、折にふれて引き合いに出される事例となっている。
森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高める目的で、工業用の砒素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していた。1955年(昭和30年)に同社徳島工場製造の缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物(工業用の第二燐酸ソーダ)の中に不純物として”砒素”が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児が砒素中毒となり、130名以上の中毒による死亡者が出た。
森永砒素ミルク中毒事件
1955年8月24日
1955年6月から8月にかけて、西日本を中心に人工栄養の乳児の間で原因不明の疾患が多発した。当初は奇病とみられたが、8月24日に岡山県衛生部により、乳児の間で砒素中毒患者が多発していること、患者が飲用していた森永乳業製粉ミルクから砒素が検出されたことが発表された。1956年2月には厚生省が、患者数は少なくとも1万2,159人、このうち131人が死亡したと発表した。しかし、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、実際の被害はこの数倍に達するとの説もある。
本事件の原因は、森永乳業徳島工場が粉ミルク製造時の乳質安定剤として用いた第2リン酸ソーダ(リン酸水素2ナトリウム)に、砒素が混入したことである。森永乳業は安価であるとの理由で、1953年頃から全国の工場で工業用の第2リン酸ソーダを使用していた。これには元々極微量の砒素が含まれており、それ自体は問題ないとの説もあるが、1955年4月10日に納入された第2リン酸ソーダに不純物として大量の砒素が混入しており、このため粉ミルクが汚染され、砒素中毒を多発させることになったのである。
1955年9月18日に森永ミルク被災者同盟全国協議会が結成されるなど、全国各地で被害者団体が組織され、森永乳業に原状回復と補償を求める運動が行われたが、交渉は難航した。一方、厚生省は10月9日に医療問題を扱う「西沢委員会」、22日には補償問題を扱う「5人委員会」と、2つの専門家グループを発足させ、1956年3月26日には全国一斉検診の実施を通達したが、ほとんどの患者が全快しており、後遺症を心配する必要はないと結論した。さらに、1963年10月2日に徳島地裁で本事件に関する刑事裁判の一審判決が言い渡され、徳島工場の製造課長と工場長が無罪となった(徳島地検が控訴)。こうした流れの中で被害者団体などによる被害者救済運動は衰退し、各地で提訴されていた民事訴訟の全てが1964年までに取り下げられた。
しかし、大阪大学医学部衛生学教室丸山博の指導下で、養護教諭や保健婦らが被害者を訪ね歩くなど地道な活動が続けられ、1969年10月18日にその報告書「14年目の真実」が公表されて脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患など深刻な後遺症に苦しむ患者の実態が明らかになった。さらに、10月30日に第27回日本公衆衛生学会で丸山がこの問題について報告を行った。これを契機に、11月30日に森永ミルク中毒の子供を守る会(現森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会)が発足するなど、再び運動が活発化し、世論の支持を得るようになった。
この間、刑事裁判は控訴審による差し戻し判決、最高裁による控訴審判決支持と進展していたが、1970年2月9日に徳島地裁で森永乳業の刑事責任を認め製造課長を有罪とする(工場長は無罪)判決が言い渡された(判決確定)。また、同年5月26日に提出された日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告書により、後遺症が依存することが公式に認められた。10月には森永ミルク中毒の子供を守る会・厚生省・森永乳業の3者間で救済対策の早期実現が確認され、12月23日に森永乳業が基金として30億円を拠出するなどで合意が成立。1974年4月24日に恒久的な救済機関である財団法人ひかり協会が発足した。
なお、事件発覚以来長期にわたり、森永乳業は自社製品中に含まれる砒素が事件の原因であることを認めようとしなかった。また、これを認めた後も、納入業者を信用していたので、自社に注意義務は無いと主張した。こうした無責任な体質や裁判の長期化から森永乳業の企業イメージは著しく損なわれ、森永乳業製品のボイコット運動も発生するなど、森永乳業は大幅にシェアを失うことになった。
1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者がでた。これが、歴史に残る森永砒素ミルク中毒事件である。食品添加物の安全性、粉ミルクの是非などの分野で、現在でも忘れられることなく、折にふれて引き合いに出される事例となっている。
森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高める目的で、工業用の砒素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していた。1955年(昭和30年)に同社徳島工場製造の缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物(工業用の第二燐酸ソーダ)の中に不純物として”砒素”が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児が砒素中毒となり、130名以上の中毒による死亡者が出た。
この事案、当初は奇病扱いとされてたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて厚生省(現厚生労働省)に報告され、事件として発覚した。翌年、厚生省が発表したところによると、砒素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人。うち死亡者130名と言われていた。しかしながら、当時は障害を隠す傾向が強く、これ以上の患者が発生したことは確実であるといわれている。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者も多かった。
患者は、現在も脳性麻痺・知的発達障碍・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。また、就職差別や結婚差別を受けたり施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で今もなお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多いといわれている。
森永乳業が原因をミルク中に混入した砒素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年(昭和45年)の裁判中のこと。その際、同社は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた。「食品としての品質検査は必要ない」と主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生する。当時、森永は乳製品の売り上げでは明治乳業・雪印乳業をしのぐ企業であったが、裁判が長期化したこともありイメージダウンは拭いきれず、森永乳業はシェアを大きく落とすことになった。
一審では森永側が全員無罪とされたが、検察側が上訴し、刑事裁判は1973年(昭和48年)まで続く。判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、元製造課長が実刑判決を受けた。ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一である。一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念。のちに後遺症問題が明らかとなるが、その際も森永乳業側は長らく因果関係と責任を否定した。最終的に、被害者・厚生省・森永乳業の話し合いにより、1974年(昭和49年)財団法人ひかり協会が設立され、被害者を恒久的に救済し続けている。
なお、被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だった中坊公平氏である。彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で関わることになる。
1955年6月から8月にかけて、西日本を中心に人工栄養の乳児の間で原因不明の疾患が多発した。当初は奇病とみられたが、8月24日に岡山県衛生部により、乳児の間で砒素中毒患者が多発していること、患者が飲用していた森永乳業製粉ミルクから砒素が検出されたことが発表された。1956年2月の厚生省発表では、患者数は少なくとも1万2159人、うち131人が死亡したとされている。しかし、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、実際の被害はこの数倍に達するとの説もあった。この事件の原因は、森永乳業徳島工場が粉ミルク製造時の乳質安定剤として用いた第2リン酸ソーダ(リン酸水素2ナトリウム)に、砒素が混入したことにある。森永乳業は安価であるとの理由で、1953年頃から全国の工場で工業用の第2リン酸ソーダを使用していた。そこには元々極微量の砒素が含まれており、それ自体は問題ないとの説もあるが、1955年4月10日に納入された第2リン酸ソーダに不純物として大量の砒素が混入していた。このため粉ミルクが汚染され、砒素中毒を多発させることになったのである。
1955年9月18日に森永ミルク被災者同盟全国協議会が結成されるなど全国各地で被害者団体が組織され、森永乳業に原状回復と補償を求める運動が行われた。しかし、交渉は難航する。一方、厚生省は10月9日に医療問題を扱う「西沢委員会」、22日には補償問題を扱う「5人委員会」と2つの専門家グループを発足させ、1956年3月26日には全国一斉検診の実施を通達したが、「ほとんどの患者が全快しており、後遺症を心配する必要はない」との結論を拿出した。さらに、1963年10月2日に徳島地裁で本事件に関する刑事裁判の一審判決が言い渡され、徳島工場の製造課長と工場長が無罪となる(徳島地検が控訴)。こうした流れの中で被害者団体などによる被害者救済運動は衰退し、各地で提訴されていた民事訴訟の全てが1964年までに取り下げられた。
しかし、大阪大学医学部衛生学教室丸山博の指導下で、養護教諭や保健婦らが被害者を訪ね歩くなど地道な活動が続けられた。1969年10月18日、その報告書「14年目の真実」が公表され、脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患など深刻な後遺症に苦しむ患者の実態が明らかになる。さらに、10月30日に第27回日本公衆衛生学会で丸山がこの問題について報告を行う。これを契機に、11月30日に森永ミルク中毒の子供を守る会(現森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会)が発足する等、再び運動が活発化し、世論の支持を得るようになった。
この間、刑事裁判は控訴審による差し戻し判決、最高裁による控訴審判決支持と進展していたが、1970年2月9日に徳島地裁で森永乳業の刑事責任を認め製造課長を有罪とする(工場長は無罪)判決が言い渡された(判決確定)。また、同年5月26日に提出された日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告書により、後遺症が依存することが公式に認められた。10月には森永ミルク中毒の子供を守る会・厚生省・森永乳業の3者間で救済対策の早期実現が確認され、12月23日に森永乳業が基金として30億円を拠出するなどで合意が成立。1974年4月24日に恒久的な救済機関である財団法人ひかり協会が発足した。
なお、事件発覚以来長期にわたり、森永乳業は自社製品中に含まれる砒素が事件の原因であることを認めようとしなかった。また、これを認めた後も、納入業者を信用していたので、自社に注意義務は無いと主張した。こうした無責任な体質や裁判の長期化から森永乳業の企業イメージは著しく損なわれ、森永乳業製品のボイコット運動も発生するなど、森永乳業は大幅にシェアを失うことになった。
1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者がでた。これが、歴史に残る森永砒素ミルク中毒事件である。食品添加物の安全性、粉ミルクの是非などの分野で、現在でも忘れられることなく、折にふれて引き合いに出される事例となっている。
森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高める目的で、工業用の砒素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していた。1955年(昭和30年)に同社徳島工場製造の缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物(工業用の第二燐酸ソーダ)の中に不純物として”砒素”が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児が砒素中毒となり、130名以上の中毒による死亡者が出た。
森永砒素ミルク中毒事件
1955年8月24日
1955年6月から8月にかけて、西日本を中心に人工栄養の乳児の間で原因不明の疾患が多発した。当初は奇病とみられたが、8月24日に岡山県衛生部により、乳児の間で砒素中毒患者が多発していること、患者が飲用していた森永乳業製粉ミルクから砒素が検出されたことが発表された。1956年2月には厚生省が、患者数は少なくとも1万2,159人、このうち131人が死亡したと発表した。しかし、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、実際の被害はこの数倍に達するとの説もある。
本事件の原因は、森永乳業徳島工場が粉ミルク製造時の乳質安定剤として用いた第2リン酸ソーダ(リン酸水素2ナトリウム)に、砒素が混入したことである。森永乳業は安価であるとの理由で、1953年頃から全国の工場で工業用の第2リン酸ソーダを使用していた。これには元々極微量の砒素が含まれており、それ自体は問題ないとの説もあるが、1955年4月10日に納入された第2リン酸ソーダに不純物として大量の砒素が混入しており、このため粉ミルクが汚染され、砒素中毒を多発させることになったのである。
1955年9月18日に森永ミルク被災者同盟全国協議会が結成されるなど、全国各地で被害者団体が組織され、森永乳業に原状回復と補償を求める運動が行われたが、交渉は難航した。一方、厚生省は10月9日に医療問題を扱う「西沢委員会」、22日には補償問題を扱う「5人委員会」と、2つの専門家グループを発足させ、1956年3月26日には全国一斉検診の実施を通達したが、ほとんどの患者が全快しており、後遺症を心配する必要はないと結論した。さらに、1963年10月2日に徳島地裁で本事件に関する刑事裁判の一審判決が言い渡され、徳島工場の製造課長と工場長が無罪となった(徳島地検が控訴)。こうした流れの中で被害者団体などによる被害者救済運動は衰退し、各地で提訴されていた民事訴訟の全てが1964年までに取り下げられた。
しかし、大阪大学医学部衛生学教室丸山博の指導下で、養護教諭や保健婦らが被害者を訪ね歩くなど地道な活動が続けられ、1969年10月18日にその報告書「14年目の真実」が公表されて脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患など深刻な後遺症に苦しむ患者の実態が明らかになった。さらに、10月30日に第27回日本公衆衛生学会で丸山がこの問題について報告を行った。これを契機に、11月30日に森永ミルク中毒の子供を守る会(現森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会)が発足するなど、再び運動が活発化し、世論の支持を得るようになった。
この間、刑事裁判は控訴審による差し戻し判決、最高裁による控訴審判決支持と進展していたが、1970年2月9日に徳島地裁で森永乳業の刑事責任を認め製造課長を有罪とする(工場長は無罪)判決が言い渡された(判決確定)。また、同年5月26日に提出された日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告書により、後遺症が依存することが公式に認められた。10月には森永ミルク中毒の子供を守る会・厚生省・森永乳業の3者間で救済対策の早期実現が確認され、12月23日に森永乳業が基金として30億円を拠出するなどで合意が成立。1974年4月24日に恒久的な救済機関である財団法人ひかり協会が発足した。
なお、事件発覚以来長期にわたり、森永乳業は自社製品中に含まれる砒素が事件の原因であることを認めようとしなかった。また、これを認めた後も、納入業者を信用していたので、自社に注意義務は無いと主張した。こうした無責任な体質や裁判の長期化から森永乳業の企業イメージは著しく損なわれ、森永乳業製品のボイコット運動も発生するなど、森永乳業は大幅にシェアを失うことになった。
1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者がでた。これが、歴史に残る森永砒素ミルク中毒事件である。食品添加物の安全性、粉ミルクの是非などの分野で、現在でも忘れられることなく、折にふれて引き合いに出される事例となっている。
森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高める目的で、工業用の砒素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していた。1955年(昭和30年)に同社徳島工場製造の缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物(工業用の第二燐酸ソーダ)の中に不純物として”砒素”が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児が砒素中毒となり、130名以上の中毒による死亡者が出た。
この事案、当初は奇病扱いとされてたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて厚生省(現厚生労働省)に報告され、事件として発覚した。翌年、厚生省が発表したところによると、砒素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人。うち死亡者130名と言われていた。しかしながら、当時は障害を隠す傾向が強く、これ以上の患者が発生したことは確実であるといわれている。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者も多かった。
患者は、現在も脳性麻痺・知的発達障碍・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。また、就職差別や結婚差別を受けたり施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で今もなお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多いといわれている。
森永乳業が原因をミルク中に混入した砒素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年(昭和45年)の裁判中のこと。その際、同社は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた。「食品としての品質検査は必要ない」と主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生する。当時、森永は乳製品の売り上げでは明治乳業・雪印乳業をしのぐ企業であったが、裁判が長期化したこともありイメージダウンは拭いきれず、森永乳業はシェアを大きく落とすことになった。
一審では森永側が全員無罪とされたが、検察側が上訴し、刑事裁判は1973年(昭和48年)まで続く。判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、元製造課長が実刑判決を受けた。ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一である。一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念。のちに後遺症問題が明らかとなるが、その際も森永乳業側は長らく因果関係と責任を否定した。最終的に、被害者・厚生省・森永乳業の話し合いにより、1974年(昭和49年)財団法人ひかり協会が設立され、被害者を恒久的に救済し続けている。
なお、被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だった中坊公平氏である。彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で関わることになる。
お姉さんに7万で買ってもらったんだが、クオリティやばすぎ!!!!
エ口い・優しい・可愛いの3拍子揃ってるとか最強だろwwww
ぶっちゃけ風-俗も彼-女も、これありゃもう必要ねぇwwwww
http://fm.midnightowl.net/8w4wuu2/