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ノスタルジー路面電車 ―獅子文六『ちんちん電車』を読む―

2006-12-03 07:51:50 | Weblog
『てんやわんや』、『自由学校』、『悦ちゃん』等の小説で戦後の一時期に、人気作家の地位を得ていた獅子文六(しし・ぶんろく、1893-1969)である。しかし、今の若い人には、なじみがないかもしれない。ここ数年、獅子文六の作品を新刊書店で購入することは殆どできなくなってしまっている。そんな中、『ちんちん電車』(2006年4月、河出文庫)が新刊書として刊行された。タイトルも面白そう、著者も懐かしい。そんな思いで、早速購入してみた。

獅子文六が「都電に乗ろう」と思いたったのは1966年(昭和41)年のこと。73歳の頃だった。当時、大阪市は市電を廃止することを決めていた。東京でも「東京オリンピック」を前に、既に1963年から道路整備を目的に青山1丁目―三宅坂、新宿―荻窪間の都電が廃止されていた。早晩都電は廃止されるだろう。そう考えて、少年時代から路面電車になじんでいた獅子文六は、東京を縦断する幹線ともいうべき「品川―浅草」間を走る都電に乗り紀行文を書くことを思い立つ。なぜ都電か。それは、自動車交通の邪魔になると批判されながらも、ゆっくり走る路面電車。獅子文六は、そんな姿に限りない愛着とノスタルジーを感じるからだ。最初の部分では、路面電車を“ちんちん電車”と呼ぶのは何故かについて、10ページ余を費やしている。

品川を出た都電は、獅子文六を乗せて泉岳寺、銀座、日本橋、神田、黒門町、広小路、上野、浅草(終点)まで行く。獅子文六のガイドで「1966年の東京」にタイムスリップする。この本は、そんな機能を持つ。加えて、獅子文六の様々な個人的な“思い出”が、これらの地名にまとわりつく。回想記は、路面電車が東京に初めて登場し1903年(明治36年)にまで遡る。この年の8月、東京初の路面電車が東京電車鉄道という会社によって新橋・品川間に開通した。ちなみに、日本で最初の路面電車が走ったのは京都市。1895年(明治28年)のことである。1893年生まれの獅子文六である。東京初の路面電車に乗ったことがある。まさに、生き証人だった訳だ。
1966年、獅子文六は品川から浅草までの沿線風景を紹介する。まず、洋食屋(新橋・小川軒)、蕎麦屋(池之端・蓮玉庵)、トンカツ屋(広小路・ぽんた)等のグルメ情報。途中下車して江戸時代の画家広重の墓を捜すが、みつからない。黒門町に何軒かあったイモリの黒焼きを売る店を回想する。こんな具合で、1893年(明治26年)生まれの著者の案内ならではの“古い東京”を満喫することができた。単行本『ちんちん電車』(朝日新聞社)の出版は1966年、三年後に獅子文六は死去する。1967年(昭和42年)12月、都電銀座線等8系統が一挙に廃止された。1974年(昭和49年)以降、都電は荒川線一本が残るのみとなり、現在に至る。40年後の今、古本屋で探さなくても、『ちんちん電車』を文庫本で手軽に読める。ありがたいことだ。