読書と著作

読書の記録と著作の概要

三陸海岸大津波  昭和八年

2006-04-30 23:12:17 | Weblog
三陸海岸大津波  昭和八年

昨年十二月二十六日発生のスマトラ沖大地震、そして大津波。ところが、これに先立ち同年三月に、『三陸海岸大津波』(文春文庫・四三八円+税)が刊行されている。著者は作家の吉村昭。この本は三十年以上前の一九七〇年、中公新書『海の壁-三陸海岸大津波』として刊行された。その後改題され中公文庫『三陸海岸大津波』(一九八四年)となり、更に昨年文春文庫の一冊として出版された。本書は青森・岩手・宮城三県にわたる三陸海岸を襲った津波に関する詳細なルポタージュである。明治以降、この地域は三度の大津波に襲われた。
○ 一八九六年(明治二十九年)六月十五日  死者二六三六〇人
○ 一九三三年(昭和八年)三月三日  死者二九九五名(注)
○ 一九六〇年(昭和三十五年)五月二十一日  死者一〇五名
 著者は三陸地方が気に入り旅するうちに、かつてこの地を襲った津波に深い関心を持つようになる。文献を集め、体験者から話を聞き、本書を書きあげた。三十年以上前の刊行物である。一八九六年の津波体験者が存命で、吉村昭は貴重な証言を得ている。一八八六年(明治十九年)生まれの中村丹蔵は、取材当時八十五歳という高齢。十歳だった中村が、山の傾斜を夢中になって駆け上ったという証言が本書に掲載されている。一方、吉村昭は一九三三年(昭和八年)の大津波の際に書かれた小学生の作文を発見、本書の中に紹介している。以下は、その一例。筆者は「尋二 佐藤トミ」となっている。

 大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじいさんと外へ出て川へ行って見ました。・・・・私はぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負って)山へはせ(走り)ました。

 この津波は地震発生後約三十分後に三陸海岸を襲った。地震発生前には井戸水の減少や渇水、混濁等が見られた。また、鰯の大群が海岸に押し寄せ各漁村は大漁に沸いた。これらの現象が、貴重な記録として本書に収録されている。リアス式海岸という津波の被害を受けやすい三陸地方。数次の津波被害の体験をふまえ、住民の避難訓練や防潮堤の建設が進む。その結果、後年の津波被害の軽減化がはかられていく。例えば田老町(岩手県)の場合、一九三三年(昭和八年)の津波の翌年から防潮堤の建設が始まる。戦時中に中断したが、一九五八年(昭和三十三年)に全長一、三五〇メートル、高さ最大七・七メートル(海面からの高さ一〇・六五メートル)の大防潮堤が完成した。防潮堤完成後に襲ったチリ地震津波(一九六〇年)では死者も家屋の被害はなかった。ちなみに、田老町では一八九六年の津波で一、八五九人、一九三三年の津波で九一一人の死者を出している。
(注)「理科年表」によると、死者・行方不明者数は3064名となっている。


神戸・須磨沖で屋島丸転覆

2006-04-30 23:08:37 | Weblog
神戸・須磨沖で屋島丸転覆、死亡行方不明六十七名 ―昭和八年

一九三三年(昭和八年)十月二十一日付の東京朝日新聞が「別府通ひの旅客船屋島丸顚覆沈没す 神戸沖合で暴風に遭ひ 乗員九十名生死不」」という大きな見出しで、大阪商船別府航路晩便屋島丸(九四六トン塩見海四郎船長)の遭難を報じている。大阪商船社は、現在の商船三井社の前身会社のひとつである。屋島丸は二十日朝、高松を出発。折柄の強い風を衝いて神戸に向う。しかし、同日午後一時五分神戸須磨妙法寺川尻沖合二海里の海上で突如航行を停止する。間もなく沈み始め、遂に赤い船腹を上にして沈没した。近くの須磨漁業協同組合が漁船を出して救助に向かおうとしたが、波が荒く、到底漕ぎ出すことはできない状態だった。当初の朝日新聞の報道では、乗組員四十名、乗客五十名となっていたが、渡辺加藤一『海難史話』(一九七九年、海文堂)によると、乗員乗客合計は百二十二名。うち五十五名は、助かったが、乗客三十九名・乗員二十六名が溺死、二名が行方不明という結果であった。死者に対して大阪商船が渡した「香料」は、一名につき百円内外と報じられている(十月二十二日付、東京朝日新聞)。
この遭難事故は、十月十一日に太平洋上ヤップ島付近で発生した台風によるもの。当初、この台風は紀伊半島沖へ抜けるものと考えられていた。しかし、台風は予想に反して瀬戸内海を横断、中国山脈を越え若狭湾方面へ抜けた。屋島丸自体にも潜在する問題点があった。この船は、元々は第一次大戦中にイギリスで建造された砲艦ランビア号。大戦中はインド方面に出動していた。一九二三年(大正十二年)に大阪商船が、客船として使用する目的でカルカッタのマクネール商会から上海で購入した。ランビア号は船体が細長く、横動揺に対して不安定なため、上甲板の客室を減らすなどの改造を加えた。
当日の記録をもう一度たどってみよう。屋島丸は、午前七時五〇分に高松港から神戸に向けて出発する。午前九時、塩見船長はNHK大阪放送局のラジオで気象通報を聞く。その内容は、「台風は時速五十キロメートルの速度で東北東に向かって進行中。紀州方面の船舶は警戒を要する」というものであった。台風接近下の屋島丸出向は“無謀”と批判されたが、ラジオで放送された台風の予想進路が、結果的に違っていた。これが船長の判断を誤らせる。この点に関しては、後日大阪中央気象台は、「誤っていた」旨を発表した。この問題は、本遭難事故に関する刑事裁判での争点のひとつであった。塩見船長は執行猶予なしの八ヶ月の禁固刑を言い渡された(昭和十一年十一月神戸地裁判決、昭和十二年五月大審院上告棄却)。転覆に至るまでの船長の行動は不可解なものであった。明石海峡に入り風浪が強くなっても自室で風浪を観察するにとどまり、正午の気象通報「台風は進路をかえ、大阪湾に接近」も聴いていない。船長が船橋に出たのは遅い。船員からの報告で、正午の気象通報の内容を知ってからだ。十二時半、船体は左舷に傾く。十二時四十分、巨大な波が船上に突入、防水が十分でなく船体は更に左舷に傾き、午後一時五分に船尾から沈没した。屋島丸を遭難させた台風は、「屋島丸台風」と呼ばれることになる。

『vanity』

2006-04-25 05:58:05 | Weblog
 本書は阪神間の高級住宅地をバックにした小説である。昨年秋、「新潮」誌に一括掲載された新しい作品。しかし、谷崎潤一郎『細雪』でねっとりと描いた戦前の阪神間の雰囲気も引きずった不思議な魅力を持っている。
小説の主人公は、三十歳台前半の独身女性画子(かくこ)。外資系企業に勤務している。画子は早稲田鶴巻町のアパートを焼け出されてしまう。米国留学中の恋人(京大出の商社マン)と相談のうえ、西宮にある恋人の母親(マダム)のもとで、一時“行儀見習”をすることになる。早稲田大学を出て十年、丁度支給されたリフレッシュ休暇を活用して、画子は六甲山麓のマダムの家で暮らし始める。マダムは夫を亡くして一人暮らし。夫は阪神大震災までは酒造業の経営者だった。マダムは株を売買し、そのキャピタルゲインで生活費を稼ぐ。広い家には雨戸が十二枚あり、その開け閉めは画子の仕事となる。マダムは、友人とブリッジやお茶会を楽しむ。そんな優雅な日々・・・。ここ数年、電車に乗っていないマダム。自ら運転する自家用車かハイヤーを使って移動するのが習慣だ。東京郊外で育ち、学生時代から引き続き早稲田鶴巻町の小さなアパートに住んでいた画子。マダムとの年齢差は大きく、東京と関西(しかも、阪神間の高級住宅地)の風土差がある。加えて生活レベルのギャップ。画子のちょっとした言動が、ピリリとマダムを刺激する。かくて二人は“スリリング”な日常を送ることになる。
著者は一九六八年北海道の生まれ。早稲田大学文学部を卒業、一九九七年『街の座標』で、すばる文学賞を受賞した作家。関西人を、異邦人として観察する目が興味を惹く。
(二〇〇六年、新潮社、一四〇〇円+税)


函館大火――昭和九年

2006-04-25 05:55:57 | Weblog
函館大火――昭和九年

一九二二年(大正十一年)に市制を施行した函館市。当時の人口は一四六、八五二人であったが、一九三〇年(昭和五年)には人口一九七、二五二人に達し、仙台・札幌を押さえて東京以北最大の都市を誇っていた。この函館市は、石川啄木が在留中の一九〇七年(明治四十年)の大火以来、度重なる大火に見舞われている。中でも、一九三四年(昭和九年)の大火では、歴史に残る大被害を被った。三月二十一日午後六時五〇分、住吉町の民家に発した火災は市の東部一帯の約一里半にわたり延焼、約二十四時間後にようやく鎮火した。死者二、一六六人、重傷二、三一八人、焼失戸数は二三、六三三に達する大惨事となったこの火災は、一九二三年(大正十三年)九月一日発生の関東大震災による火災に次ぐ規模のもの。旭川からは第七師団が、青森県大湊からは駆逐艦四隻が救助に向かった。

「函館市殆ど灰燼」「二万数千戸全焼 午後漸く鎮火す 焦土に埋る死者八百」と鎮火の翌日である三月二十三日付の東京朝日新聞は第一面トップで報じる。また、三月二十四日付東京朝日新聞は、「酸鼻の焦土函館」という見出しを付している。この時点での死者数は「千名を超える」と推定されていた。三月といっても北国の函館はまだ寒い。被災者、負傷者が、今度は焼け跡で身を刺すような吹雪に曝される。そんな悲惨な状況でもあった。“関東大震災に次ぐ大火”の報道に、全国から義捐金が集まってくる。三井合名、三菱合資から各五万円、安田善次郎から一万円の義捐金が寄せられた。朝日新聞も急遽三千円の義捐金を現地に届ける手配をする。同時に、新聞紙上で読者に対して義捐金の募集を始めた。

火災保険に関する報道もされている。重複・分担関係調査のため火災保険金の支払は遅れがち。「支払期日は四月十日頃になる見込み」と商工当局に報告された。これに対して、函館商工会議所等からは至急支払をするよう求められる。一部保険会社では資金調達に困難を来たすところも出た。次のような報道もある。損害一億円、火災保険金3千万円というのが、函館市による調査の結果だった。しかし、支払保険金の額は、予測からは大幅に下回る2千万円であった。会社別では千代田火災(千五百万円)、三菱海上(千三百万円)、大成火災(千二百万円)、日本共立火災、明治火災(各百万円)の支払保険金が多かった。以上は、国内会社についての数字、外国会社ではサンの千二百万円を筆頭にノースブリティシュ、ホーム(各九百万円)が続く。火災保険の最大手会社で、一九三四年の函館大火で多額の保険金を支払った東京火災は、五十万円の支払と意外に小額(一九三四年四月二十六日付保険銀行時報)。おそらくアンダーライティングが功を奏したのであろう。
この函館大火が直接または間接の原因で経営が傾いた火災保険会社もでた。大東火災と日章火災である。何れも再保険を専門にする会社。この二社は前々年の白木屋火災、および函館大火が原因で“整理”されることになってしまう(『三上英夫座談録』一九八四年、保険研究所)。

東日本で豪雨、磐越東線列車が激流に転落等各地で被害

2006-04-24 01:31:15 | Weblog
昭和の災害史――昭和10年

東日本で豪雨、磐越東線列車が激流に転落等各地で被害

磐越東線は福島県を東西に走り、郡山駅と平駅(現いわき駅)を結ぶ路線である。一九三五年(昭和十年)十月二十七日、磐越東線平駅行の旅客・貨物混合列車が、同線川前・小川郷間で脱線、転覆した。原因は、折からの雷雨のため線路の土砂が一二〇メートルにわたり流出したことによる。先頭の機関車、郵便車、客車二両(二・三等客車と三等客車)の計四両は、まず一丈五尺(約三・五メートル)下の県道に墜落、さらに下にある激流の夏井川に突っ込んだ。客車の乗客は、二両で約七十名だった。死者は十名。三十名が重傷、軽傷者は二十名であった。奇跡的に死を免れた機関手と二人の機関助手(ともに重症)、軽傷の車掌(最後部車両に搭乗)が、近くの小野新町駅に辿りつき事故発生を報じた。事故発生は午後六時頃。午後九時になっても豪雨はやまず、救援作業は困難を極めた。
 転落した機関車は夏井川の奔流の中に車体を埋め、半分は土砂に埋まった状態。郵便車と二両の客車は木端微塵(こっぱみじん)となり、これに鮮血が生々しく染まるという惨状である。一方、転落を免れた客車一両は、辛うじて線路に引っかかり危うく転落しそうな状況だった。
 この時代、既に航空機による取材が行われていた。事故の翌日の十月二十八日早朝、羽田空港を出発した小型機プスモスが事故現場に向かった。現地では、八〇〇メートルの谷間から吹き上げる悪気流、やエアポケットに翻弄されながら取材をし、写真撮影を行った。その記事と写真は、十月二十九日付東京朝日新聞の紙面を飾った。「機上から一点凝視」、「死魔躍る山峡」、「北側の崖が無残に崩れ、支離滅裂の鉄路」という見出しとともに事故の惨状を読者に伝えている。

 一方、十月二十七日の“帝都”は、水漬けの状態。市内各所で異変が起きた。関東大震災からは免れた日比谷の帝国ホテルは水に弱い。豪雨のため地下に濁流が流れ込み、ボイラー二基が水没する。職員がバケツで水を掻い出す状態。消防署からポンプ車が駆けつけ排水作業を行ったがかなわず、停電のため蝋燭(ろうそく)で明かりを採る有様だった。地下鉄には大量の水が流れ込み、朝から運転はストップした。必死の作業で、神田・新橋間は午後三時四十五分にようやく開通したが、浅草・上野間は翌朝の始発までストップした。同じ日の夕方、麹町区丸ノ内の日本興行銀行では、同行地下の電気室で大爆音が発生した。次いで黒煙が噴き出す。電気室には三千三百ボルトの電流が流れている。水をかけると危険なので、防火用の砂をかけるなどして三十分後にようやく鎮火した。原因はオイルスイッチの絶縁不良から漏電発火し、その火が配電盤の土台の板と椅子に燃え移ったもの。日本興業銀行から電力供給を受けていたのが同じく丸ノ内にある工業倶楽部。その夜、住友合資会社の晩餐会に集まっていた“紳士たち”は、暗闇のなかで蝋燭を片手に「もたもたやっていたが、とうとうあきらめて、全部逃げ出してしまった」と戯画調の報道がなされていた(十月二十八日付東京朝日新聞)。帝都の中心街丸ノ内、日比谷あたりは混乱の極みだった。東京市では前月も水難に会っている。すなわち、九月二十四日に関東地方は暴風雨に襲われた。雨量は百二十五ミリ。特に被害が大きかった群馬県での死者は一九〇人に達した。