三陸海岸大津波 昭和八年
昨年十二月二十六日発生のスマトラ沖大地震、そして大津波。ところが、これに先立ち同年三月に、『三陸海岸大津波』(文春文庫・四三八円+税)が刊行されている。著者は作家の吉村昭。この本は三十年以上前の一九七〇年、中公新書『海の壁-三陸海岸大津波』として刊行された。その後改題され中公文庫『三陸海岸大津波』(一九八四年)となり、更に昨年文春文庫の一冊として出版された。本書は青森・岩手・宮城三県にわたる三陸海岸を襲った津波に関する詳細なルポタージュである。明治以降、この地域は三度の大津波に襲われた。
○ 一八九六年(明治二十九年)六月十五日 死者二六三六〇人
○ 一九三三年(昭和八年)三月三日 死者二九九五名(注)
○ 一九六〇年(昭和三十五年)五月二十一日 死者一〇五名
著者は三陸地方が気に入り旅するうちに、かつてこの地を襲った津波に深い関心を持つようになる。文献を集め、体験者から話を聞き、本書を書きあげた。三十年以上前の刊行物である。一八九六年の津波体験者が存命で、吉村昭は貴重な証言を得ている。一八八六年(明治十九年)生まれの中村丹蔵は、取材当時八十五歳という高齢。十歳だった中村が、山の傾斜を夢中になって駆け上ったという証言が本書に掲載されている。一方、吉村昭は一九三三年(昭和八年)の大津波の際に書かれた小学生の作文を発見、本書の中に紹介している。以下は、その一例。筆者は「尋二 佐藤トミ」となっている。
○
大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじいさんと外へ出て川へ行って見ました。・・・・私はぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負って)山へはせ(走り)ました。
○
この津波は地震発生後約三十分後に三陸海岸を襲った。地震発生前には井戸水の減少や渇水、混濁等が見られた。また、鰯の大群が海岸に押し寄せ各漁村は大漁に沸いた。これらの現象が、貴重な記録として本書に収録されている。リアス式海岸という津波の被害を受けやすい三陸地方。数次の津波被害の体験をふまえ、住民の避難訓練や防潮堤の建設が進む。その結果、後年の津波被害の軽減化がはかられていく。例えば田老町(岩手県)の場合、一九三三年(昭和八年)の津波の翌年から防潮堤の建設が始まる。戦時中に中断したが、一九五八年(昭和三十三年)に全長一、三五〇メートル、高さ最大七・七メートル(海面からの高さ一〇・六五メートル)の大防潮堤が完成した。防潮堤完成後に襲ったチリ地震津波(一九六〇年)では死者も家屋の被害はなかった。ちなみに、田老町では一八九六年の津波で一、八五九人、一九三三年の津波で九一一人の死者を出している。
(注)「理科年表」によると、死者・行方不明者数は3064名となっている。
昨年十二月二十六日発生のスマトラ沖大地震、そして大津波。ところが、これに先立ち同年三月に、『三陸海岸大津波』(文春文庫・四三八円+税)が刊行されている。著者は作家の吉村昭。この本は三十年以上前の一九七〇年、中公新書『海の壁-三陸海岸大津波』として刊行された。その後改題され中公文庫『三陸海岸大津波』(一九八四年)となり、更に昨年文春文庫の一冊として出版された。本書は青森・岩手・宮城三県にわたる三陸海岸を襲った津波に関する詳細なルポタージュである。明治以降、この地域は三度の大津波に襲われた。
○ 一八九六年(明治二十九年)六月十五日 死者二六三六〇人
○ 一九三三年(昭和八年)三月三日 死者二九九五名(注)
○ 一九六〇年(昭和三十五年)五月二十一日 死者一〇五名
著者は三陸地方が気に入り旅するうちに、かつてこの地を襲った津波に深い関心を持つようになる。文献を集め、体験者から話を聞き、本書を書きあげた。三十年以上前の刊行物である。一八九六年の津波体験者が存命で、吉村昭は貴重な証言を得ている。一八八六年(明治十九年)生まれの中村丹蔵は、取材当時八十五歳という高齢。十歳だった中村が、山の傾斜を夢中になって駆け上ったという証言が本書に掲載されている。一方、吉村昭は一九三三年(昭和八年)の大津波の際に書かれた小学生の作文を発見、本書の中に紹介している。以下は、その一例。筆者は「尋二 佐藤トミ」となっている。
○
大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじいさんと外へ出て川へ行って見ました。・・・・私はぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負って)山へはせ(走り)ました。
○
この津波は地震発生後約三十分後に三陸海岸を襲った。地震発生前には井戸水の減少や渇水、混濁等が見られた。また、鰯の大群が海岸に押し寄せ各漁村は大漁に沸いた。これらの現象が、貴重な記録として本書に収録されている。リアス式海岸という津波の被害を受けやすい三陸地方。数次の津波被害の体験をふまえ、住民の避難訓練や防潮堤の建設が進む。その結果、後年の津波被害の軽減化がはかられていく。例えば田老町(岩手県)の場合、一九三三年(昭和八年)の津波の翌年から防潮堤の建設が始まる。戦時中に中断したが、一九五八年(昭和三十三年)に全長一、三五〇メートル、高さ最大七・七メートル(海面からの高さ一〇・六五メートル)の大防潮堤が完成した。防潮堤完成後に襲ったチリ地震津波(一九六〇年)では死者も家屋の被害はなかった。ちなみに、田老町では一八九六年の津波で一、八五九人、一九三三年の津波で九一一人の死者を出している。
(注)「理科年表」によると、死者・行方不明者数は3064名となっている。