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消防中、倉庫が爆発し死傷者百名余(千葉)

2006-02-27 02:39:24 | Weblog
消防中、倉庫が爆発し死傷者百名余

千葉県房総半島の最南端には、一八六九年(明治二年)に完成した野島崎灯台がある。設計は、フランス人ウェルニー。この地は、太平洋の荒波が押し寄せる漁業が盛んな町として栄えてきた。白浜町の海岸には、灯台と同じく明治初期に地元の漁民が作ったクジラを弔う「鯨塚」が立つ。白浜町は、クジラ漁が盛んだった。特に戦後の食糧難の時期は、鯨肉が日本国民の蛋白源を支えた。白浜町の捕鯨は捕鯨禁止運動の高まりを受け、1972年(昭和47年)終わりを告げた。最盛期には年間80頭のクジラを捕獲したという数字が残っている。クジラ漁で栄えた白浜町ではあるが、今はリゾート地として有名になっている。かつてクジラ漁を行っていた会社の跡地にはリゾートマンションが建っている。灯台の近くには、白浜海洋美術館ができた。網元が漁師に贈る祝着「大漁半纏」のコレクションで知られている。背中に描かれた絵柄に魅せられたのが収集のきっかけの由。白浜町の歴史を辿ると、灯台やクジラをはじめ“海”に関する話題が尽きない。もっとも、太平洋の荒波に天候不順が重なると、“海”は恐ろしい存在になる。沖合では、大きな海難事故が発生している。明治期には、ダコタ号、チャイナ号と2件の外国船が遭難した。

白浜町の年譜を更に下っていくと、1935年(昭和10年)に乙浜港で火薬が爆発し、消防組員13名、その他協力者2名、合計15名が殉職した記録がある。1936年(昭和10年)10月30日、午後8時頃、千葉県安房郡白浜町の氷を貯蔵する倉庫から出火、近隣から駆けつけた消防団等の活動で、午後9時半頃ようやく下火になった。丁度そのとき、突然、焼け落ちた倉庫が大音響とともに爆発する。消火活動をしていた人々は逃げるまもなく、爆風とコンクリート破片の直撃を受け、100余名の死傷者を出してしまう。また、爆発のあおりで、付近の民家3棟も倒壊してしまった。何故、爆発が起きたのであろうか。実は、倉庫の中には圧搾酸素入りの円筒ボンベ3本と、ダイナマイトが貯蔵されていた。これらの貯蔵品は、沈没船引き揚げのための資材。丁度この時期、沈没船ダコタ号(米国)の引揚作業が行われていた。このため、倉庫に圧搾酸素やダイナマイトが貯蔵されていたのだ。この船の沈没は、約30年前の1907年(明治40年)3月3日のことであった。
翌日の10月31日付東京朝日新聞は、「消防中に倉庫爆発」「 惨 死傷者百十数名」「千葉白浜で火事の二重椿事」と、大きな活字の見出しで、この爆発事故の模様を伝えていた。同紙によると、10月31日午前一時半までに判明した死者の数は5名。そのほか危篤状態の重傷者が2名いた(前述のように、最終的に死者は15名となった)。この爆発と同時に、白浜町、千倉村、七浦村の電灯は全て消えてしまう。しかも、電信電話は不通。真っ暗闇な中、近隣の町村からは、医師が駆けつける。また、夫や息子など家族の安否を気遣う住民たちが、提灯を持って近隣から集まる。そんな様子が生々しく報道されていた。

『アンダーグランドビジネス最前線』

2006-02-27 02:37:24 | Weblog
夏原武他著『アンダーグランドビジネス最前線』

本書は「洋泉社ペーパーバックス」シリーズの第3冊目として刊行された。このシリーズは、「同時代の熱いテーマをいち早く取り上げる」、「既成概念を疑う」、「タブーに挑戦する」という特徴を持つ。目次を見てみよう。偽造パスポート、地下銀行、密売ドラッグ、高利回り出資詐欺等のキーワードが並ぶ。何業でもそうだが、保険業に携わる者としては、この手の書物にザット目を通し、悪事を行う連中の概要を把握しておく必要がある。44ページに、懐かしい(?)キーワードを発見した。「オレンジ共済」だ。参議院議員友部達夫は、1992年から年利6%以上という高金利の金融商品を販売、90億円の資金を集めた。しかし、1996年に「オレンジ共済」は倒産、友部達夫は逮捕された。事件発生から、そろそろ、10年近くが経とうとしている。今の若い社員は、「オレンジ共済」のことなど全く知らないかもしれない。しかし、「歴史は繰り返す」ことを忘れてはならない。この「オレンジ共済」では、金融商品のみならず、火災共済等も販売していた。営業の第一線では、安い掛金が売り物の「オレンジ共済」の対応に苦慮したものである。「オレンジ共済」の経営者は参議院議員。都バスを使って車内広告をしていたと記憶している。「オレンジ共済」に、だまされた消費者が多数いた。
インターネットを利用した詐欺行為がワールドワイドに広がっている。新しいところでは「カトリーナ寄付金詐欺サイト」。米国ニューオリンズを襲ったハリケーンをネタにした詐欺である。寄付を募ったサイトは4000にものぼったが、その大半は詐欺であったという。
次は盗難車の話題。今年6月、新潟県警等が約200人体制で新潟東港周辺の中古車輸出業者87社に対して立ち入り検査を実施した。これは古物営業法に基づくものだ。その結果、標識や売買台帳の不備で16業者に対して書面で指導・警告を行った。そのほか、外国人2名が旅券不携帯の疑いで検挙された。実は、立ち入り検査は、昨年以来3回目。新潟東港では、年間数十台の盗難車が通関時に発見されている。盗難車の買い手は、主としてロシア・マフィアといわれている。新潟東港に限らず、日本海側の港は盗難車輸出の温床となっている。ロシア・マフィアの暗躍も目立ち、殺人事件も発生した。実は、新潟東港を中心とした中古車輸出に関しては、別な側面がある。約170社ある中古車輸出業者のうち約130社がパキスタン人の経営によるもの。近くにはモスク(回教寺院)もある。昨年5月、この付近に国際テロ組織アルカイダの幹部(フランス国籍)が一時潜伏していたことが判明、大騒ぎになった。警察では、中古車輸出で得た利益がテロ組織の活動に使われているという疑いを持っている。
(2005年、洋泉社、952円+税)

『四〇歳からの勉強法』

2006-02-26 12:52:18 | Weblog
ビジネスマンは“勉強”が、必要

現役商社マン三輪裕範(みわ・やすのり)氏の著書『四〇歳からの勉強法』が、話題を呼んでいる。著者は、1957年の生まれ。総合商社伊藤忠商事の調査室長の職にある。神戸大学法学部を卒業、伊藤忠商事に入社。その後ハーバード・ビジネススクールに留学、MBA資格を取得した。TOEICは985点という超好成績。多忙なビジンネスマンの傍ら、これまでに『ハーバード・ビジネススクール』(丸善ライブラリー)、『ニューヨークタイムズ物語』(中公新書)等の多数の著作をものしている。
本書は、以上のような著者の体験に基づいて書かれた”ビジネスマンの勉強法”についての指南書だ。コマギレ時間の利用法、新聞や雑誌との”付き合い方”、本の選び方、英語力習得法等々内容的には多岐に渡る。これらは、項目としての目新しさはないかもしれない。しかし、著者が(学者や評論家でなく)ビジネスマンであり、知的生産を持続し続けている実績を踏まえている。この点が本書の大きな特色であるといえよう。発売後まもなく二刷、三刷が決まる等売れ行は良好のようだ。
景気は良くなってきた。しかし、日本経済の前途は順風満帆とはいえない。中間管理層の一員として多忙な毎日を送るビジネスマンたちも、いつかは50歳になり、55歳、60歳に到達する。そのとき慌てないためには40歳ぐらいから勉強(テーマは自分で選ぶしかない)を続けていかねばならない。漫然と、ゴルフ、カラオケ、ゴマスリの毎日を過ごす。そんなビジネスマンの未来は暗い。
(三輪裕範著『四〇歳からの勉強法』、二〇〇五年、ちくま新書、七〇〇円+税)

グルメ本に見る一九六〇年代のソバ、うどん ー神戸を中心にー

2006-02-21 07:01:46 | Weblog
グルメ本に見る一九六〇年代のソバ、うどん ー神戸を中心にー

私の本棚には、次のグルメ本が並ぶ。何れも年月を経たもので実用には供し得ない。しかし、歴史的文献としては価値がある。例えば、(3)には、学生時代通ったカレーの「ベンガル」(神戸市灘区)が掲載されている。ところが、(3)の改訂版の(5)には「ベンガル」は出ていない。一九六七年の集中豪雨の被害で廃業したらしい。(3)にはベンガルの店内の写真が出ている。当時を知る私にとっては貴重な写真だ。
(1)創元社編集部編『関西味覚地図 京都 大阪 神戸』一九六〇年、創元社
(2)毎日新聞神戸支局編『神戸うまいもん』一九六〇年、神戸近代社
(3)創元社編集部編『神戸味覚地図』一九六三年、創元社
(4)読売新聞社編『ふるさとの店』一九六七年、読売新聞社
(5)創元社編集部編『神戸味覚地図』一九七〇年、創元社
 (1)は、京阪神三都市が対象。京都では「尾張屋」(中京区、創業は寛政年間)の蕎麦、大阪では「美々卯」(東区横堀)のうどんを紹介する。「美々卯」のうどんすき(450円)は、戦後の大阪名物として広まったとある。神戸では、きしめんの「蔵」(三宮)、ソバの「松涛庵」(福原)が登場。「蔵」では、“百円札一枚ポケットにしのばせただけで入れる”とコメント。百円硬貨と板垣退助の百円札が流通していた時代だ。東京から来たソバ好きの友人を「松涛庵」に連れて行ったところ、好評でザル三杯をおかわりしたと筆者(木村栄次)はベタホメ。(2)は、洒落た本。表紙を川西英の版画が飾る。この本でも「蔵」、「松涛庵」が登場。また、トア・ロード、パウリスタ裏の信州ソバの店「しなの」の“てんぷらソバ150円”が特にお勧めの由。(3)ではソバの「正家(まさや)」(生田区北長狭)、「志奈乃」(三宮)、うどんとソバの店「つるてん」(元町)が登場。「志奈乃」は、地図を見ると(2)で登場の「しなの」と同じ。「つるてん」は、てんぷらが自慢。(4)は、北海道から沖縄(当時は返還前)迄、全国のグルメ情報を満載。例外はあるが、各県に原則五ページが割り当てられ、それぞれ執筆者が異なる。京都の紹介者は臼井喜之助。「尾張屋」とともにソバの「大黒屋」(木屋町)を紹介する。歌人吉井勇は「大黒屋」がひいきだった。大阪の執筆は、作家藤本義一。黒門のうどんの香りにノスタルジーを感じると記す。兵庫県は古林喜樂元神戸大学長が担当。ソバ、うどんの店の紹介は無い。たこ焼きの「蛸の壷」が写真入で紹介されており、目を惹く。(5)は、(3)の新版。(3)に登場の「正家」、「つるてん」が再登場。ただし、「つるてん」は、「つるてん正楽」と店名が変わっていた。



三菱鉱業尾去沢鉱山の変災―沈澱池の堤防決壊事故

2006-02-21 06:54:12 | Weblog
三菱鉱業尾去沢鉱山の変災―沈澱池の堤防決壊事故

秋田県の北東部鹿角市にある観光施設「マインランド尾去沢(おさりざわ)」は、鉱山の跡地。尾去沢鉱山では、古くは金銀、続いて銅の採掘が行われていた。奈良東大寺の大仏、平泉金色堂に使用された金は、尾去沢鉱山から採掘されたものとされている。また、尾去沢鉱山の歴史をさかのぼると、和銅年間(708~715)にたどり着くという。江戸時代には盛岡藩南部氏の最大の銅山であった。このような長い歴史を誇った尾去沢鉱山は、紆余曲折の末、1887年(明治20年)以降は三菱の経営となった。1978年、鉱量の枯渇から閉山した。1981年から市の手で産業遺跡を保存する観光開発が進められ、現在は「マインランド尾去沢」として観光施設化されている。

1936年(昭和11年)11月20日午前三時頃、秋田県鹿角郡尾去沢町の三菱鉱業株式会社尾去沢鉱山中ノ沢精錬所にある硫化泥沈澱貯水池の堤防(高さ40尺)が、数日来の降雨による増水のため決壊した。泥流は怒涛のごとく下流に流れ、中ノ沢、笹小屋、瓜畑、新堀等付近の集落が泥流に埋没した。泥流に流された建物の多くは鉱夫の長屋住宅。劇場、駐在所や農家も流された。死者、行方不明者計362人を出す大惨事となった。
朝日新聞は、事故当日に「号外」を出した。「尾去沢鉱山の堤防決潰」「奔逸する泥流の怒涛」「死傷一千余名を出す」「凄惨・点々死体流る」といった事故の惨状を伝える見出しが号外に並ぶ。この「号外」には、もうひとつ別のニュース(パリー東京間スピード競争機の佐賀県での墜落事故)も掲載されている。事故の状況は直ちに監督官庁である商工省に報告され、技官が現地に向かった。この年の前々年のこと、同様の事故が住友の吉野鉱山でも発生している。その際、商工省は尾去沢鉱山に対しても警告調査を命じた。当時は「かかる危険なし」との回答であったことが、翌11月21日の東京朝日新聞が報道している。この惨事については、1976年に三菱鉱業セメント株式会社(注)が発行した『三菱鉱業社史』に記載があった。すなわち、同書389ページから393ページにわたり「尾去沢鉱山の変災」として事故発生から復興までについての顛末が記録されている。これによると、死者362人(うち行方不明11人)、被害戸数は293戸となっている。死者の内訳も明示されており、鉱山職員8人、鉱山従業員36人、鉱山職員・鉱山従業員の家族226人、町民92人であった。また、被害戸数の内訳は鉱山社宅159戸、私宅128戸、公共建物6戸とある。会社は、犠牲者の霊を慰めるため尾去沢円通寺に観音堂を建立する。開眼落慶式は、変災1周年法要当日の1937年(昭和12年)11月20日にとりおこなわれた。
(注)三菱鉱業セメント株式会社は、1973年に三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメント3社が合併して設立。更に、1990年になって三菱金属と合併し、三菱マテリアルとなる。