読書と著作

読書の記録と著作の概要

大川渉著『文士風狂録』

2006-01-28 10:04:49 | Weblog
大川渉著『文士風狂録』

本書は、作家青山光二の“インタビューによる回想録”といった性格の本である。語り手の青山光二は、一九一三年(大正二年)神戸に生まれた。十代後半で文学に目覚め生涯作家活動を続け、二〇〇三年に「九〇歳で川端康成文学賞を受賞した」と話題になった”現役最長老作家”である。一九三三年(昭和八年)、青山光二は神戸二中(現兵庫高校)を卒業、旧制三高(現京都大学)に入学した。三高で織田作之助と出合い、織田の死(一九四七年一月十日)まで親密な交友が続く。青山の名は、織田作之助の評伝等には必ず出てくる。本書は、その織田作之助を冒頭の章に置き、続いて太宰治、坂口安吾、林芙美子、田中英光等戦前から終戦後にかけて活躍した作家の名が並ぶ。殆どの読者にとっては、これらの作家は「過去の人」であろう。しかし、青山光二にとっては、彼等は友人であり、同時代を共に生きた仲間たちである。田宮虎彦も、その中のひとり。田宮は神戸一中(現神戸高校)から青山と同じく三高・東大に進んだ文学仲間。本書の最終章では「五〇年来の友人」として田宮も登場する。焼け跡、闇市、ヒロポン・・・。写真も多く挿入され、時代の雰囲気を濃厚に伝えてくれる好著だ。
(二〇〇五年・筑摩書房・一七〇〇円+税)

『花火師の仕事』

2006-01-12 22:28:01 | Weblog
池田まき子著『花火師の仕事』

夜空に高く打ち上げられる花火。日本の花火のルーツを辿ると十六世紀半ばの“鉄砲伝来”に行き着く。鉄砲とともに“火薬”というものが日本に伝わってきたからだ。江戸時代の初期、徳川家康は花火を見たという。日本の花火は、400年にわたる歴史を有することになる。
本書は、美しい花火の背景で、(裏方として)活躍している”花火師”と称せられる職業の人々の仕事を追って出来上がった本である。著者の池田まき子氏は、秋田県生まれのフリージャーナリスト。地元秋田の大イベントである「大曲花火大会」に魅せられたことが契機となり本書が出版されることになった。1910年(明治43年)に始まった「大曲花火大会」については、第6章で詳述している。ちなみに、本書はNPO法人大曲花火倶楽部の協力を得て、秋田市の出版社である無明舎出版から刊行されている。このようにローカル色が強い出版物であるが内容は濃い。花火の楽しみ方、花火の製造工程と安全対策、花火大会における防災上の配慮等花火に関する様々な情報を提供してくれる。これらは、一般市民としては到底知りえない情報であり、著者の知的好奇心と綿密な取材により出来上がった労作である。本の性格から、多数の美しい花火の写真が挿入されているのも本書の特色である。
本書の章立ては次のようになっている。

第1章 花火の歴史
第2章 花火の薬学・科学
第3章 花火の種類
第4章 打ち上げ花火ができるまで
第5章 花火師の仕事
第6章 大曲花火大会の今昔
第7章 花火の宴を楽しもう

花火と防災に関しては、第5章の「花火師の仕事」に叙述がある。花火大会には、当然のことながら綿密な計画に基づく準備作業必要だ。花火を打ち上げるための「打ち上げ筒」を設置する前には、必ず落葉を集め、枯れ草を刈る。火の粉がついて延焼するのを避けるためだ。周囲に水を撒いて湿らせておく。山林が近いときは消防署に依頼して、散水してもらうこともある。準備が完了すると、監督官庁と消防署の検査を受ける。危険な火薬を使い、会場には多数の観客が集まるので、安全面には万全を尽くさねばならない。花火大会終了後は、花火師たちは撤収、後片付け作業に移る。夜空を彩る花火を鑑賞する立場からは、想像しにくい様々なプロセスや苦労がある。そこは、一般市民にとっては未知のプロの世界だ。そこのところを本書は読者に見せてくれる。
                    (2005年、無明舎出版、1260円+税)

『夫と妻の定年人生学』

2006-01-12 22:25:10 | Weblog
吉武輝子著『夫と妻の定年人生学』

  本書の著者吉武輝子は、一九三一年(昭和六年)の生まれ。慶応義塾大学を卒業後、東映に勤務し一九六一年に日本初の女性宣伝プロデューサーに就任した。一九六八年以降は作家、評論家として活躍している。本書は、著者が五十代なかばの一九八七年(昭和六十二年)に、海竜社からを出版された。当時すでに「高齢化社会」というコトバはあり、社会的に様々角度から問題提起され、警鐘を鳴らす識者も多く本書も話題を呼んだ。それから約二〇年。本書は集英社文庫の一冊として、再び世に出て脚光を浴びることとなった。読み直してみても、全く古臭さを感じさせない。
著者の父、著者の夫を中心に、友人や取材で出合った人々の定年後の人生。様々な人間模様を本書は扱う。辛口評論家佐高信(当文庫本の解説を担当)に「読むのが辛い」と言わせたのが冒頭の第一章。著者の父親の「定年直後の自殺」という、はなはだショッキングな事象をテーマなのだ。明治生まれの父は、家庭は妻にまかせっぱなし。「男は身軽になって仕事一筋に生きる」もの。「職業人としての成功は即、男の成功」というこれらの方程式を疑いのないものとして受け入れ、銀行マンとしての人生を歩んできた。大学を卒業生して入行して以来、五十五歳で定年退職を迎えるその日まで、父は“三菱銀行の”という“の”の字つきの名刺だけを使って生きてきた。個人はきわめて非力な存在である。しかし、“どこそこのなんのなにがし”という“の”の字が、個人に冠せられたときは、個人の非力さを凌駕する力を持つ。これが男の世界の習いである。三十年余にわたって、“の”の字の威力を発揮する名刺を使って生きていれば、いつしか非力な個人としての己の能力、才能と、“の”の字の威力を混同するようになったとしても不思議ではない。
 このように“三菱銀行の”という“の”の字付の肩書きを持った著者の父が定年をむかえ、名古屋支店長から伊奈製陶(現INAX)へ天下り重役で行く。客観的にみれば、いい身分である。だが、とたんに中元・歳暮の到来数が激減する。続いて年賀状の数も同じく激減。著者の父は、銀行という入れものの中で“偉い人”という錯覚の世界にいたことを思い知らされる。このあたりから、段々“父”はおかしくなり、定年後間もなく自ら命を絶ってしまう。
 以上のような第一章を読むだけで、本書を読む価値は十分ある。利殖、趣味、第二の職場、夫婦のあり方、子供とのつきあい、近隣関係等、本書では様々なテーマが扱われている。これらを総合して、一言でいえば「本人の心の持ち方」が最も大切。このことが著者の主張の根幹であろう。そのあたりを「自分の父親の自殺」といういわば身内の恥までを持ちだして解明・分析した。体験を踏まえているだけに、皮相でなく極めて説得力ある内容の本である。本書は、年金や生命保険のセールスを行うに当たっての貴重な周辺情報を提供してくれる。そればかりではない。定年を間近に控えた本紙読者は是非読んで欲しい。また、若い世代の人たちにも勧めたい。定年は、必ずやって来る。これがサラリーマンの運命だからだ。また、“定年後の生き方”というテーマは自分だけでなく、“親の問題”でもあるからだ。
(二〇〇五年、集英社文庫、五三三円+税)



フルートの吉田雅夫

2006-01-12 22:22:30 | Weblog
日産化学で労務担当していたフルートの吉田雅夫

本誌二〇〇三年七月号で紹介した三木トリローが一時在籍していた日産化学工業。この会社のルーツを辿るとわが国初の化学肥料会社として設立された東京人造肥料会社(一八八七年設立)に辿り着く。一九三八年(昭和十三年)、慶應義塾大学法学部を卒業した吉田雅夫は、日産化学に就職した。配属されたのは労務係。入社して半年後、戦地に行く社員が多く係員は吉田雅夫一人になってしまう。全国の工場で労災事故があると、現地に行き報告書を書き、課長、部長に提出する。これが仕事だった。時節柄、上司からは「半年休養とか一年休養とは何だ。二ヶ月って書き給え」と無茶なことをいわれ書類を書き直す。ところが、今度は同じ事故について警察から「死にそうな怪我人を、全治二ヶ月とは何事か」といわれてこってり絞られる。一番嫌だったのが、社業とはいいながら産業報告会という組織を社内につくらされたこと。国家のためにすべてを捧げるという組織だ。どうにも我慢ができなくて、日産化学工業は、一年二ヶ月で辞めてしまった。そのときやろうと思ったのがタクシーまたは電車の運転手。一人で仕事ができるからというのがその理由だった(吉田雅夫・植村泰一『対談 フルートと私』一九八〇年・シンフォニア)。

「日本フルート界の父」といわれた吉田雅夫は、昨年十一月十七日に八十八歳で死去した。北海道函館市の出身で、東京・牛込の成城中学三年在学中、友人の誘いで近くの陸軍戸山学校のなかにあるブラスバンドに加わっていた。これが本格的な音楽との最初の出会いである。当時、東京にはブラスバンドは僅か四団体しかなかった。陸軍、海軍、豊島園、そしてボーイスカウトに所属する健児音楽隊。この健児音楽隊に吉田雅夫は参加したのだった。最初に持たされたのがバリトンという金管楽器。現在のブラスバンドでは、バリトンはあまり使用されなくなった。少し改良されたユーフォニウム(バリトンより管が太くやわらかい音が出る)という名称の楽器が使用されることが多い。簡単にいうと、バリトンやユーフォニウムという楽器は、いずれも「小型のチューバ」と考えればよい。オーケストラでいうと主としてチェロの役割を果たす楽器だ。小柄だった吉田少年。バリトンを抱えて座ると指揮者からは姿が見えなくなる。そこで、「お前、あんまりチビだから一番小さい楽器をもて」と健児音楽隊の隊長にいわれ、ピッコロを渡された。フルート系の楽器との最初の遭遇である。旧制中学卒業後、東京音楽学校に進学したかったが、父が許さなかったので慶應義塾大学法学部に進学した。在学中、フルートに熱中、「マンドリンクラブ」、「ワグネル」で活躍する。在学中の愛称は、フルートの頭文字をとって「Fさん」。一九三八年三月、卒業して日産化学工業に就職する。

大学在学中からオーケストラでフルートを吹いていたことから、日産化学工業に就職後もアンサンブルのメンバーとして(会社に内緒で)アルバイトをする。幸いにも、練習所が勤め先のそばにあるという好都合。フルートを分解して、風呂敷に包んで出勤した。会社の上司等に見咎められ質問されると「ソロバンです」と応えたこともあったという(二〇〇三年十二月二十二日付朝日新聞「惜別」欄)。吉田雅夫のサラリーマン生活は前述のように短い。一年余で日産化学工業を辞め、一念発起して東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学する。しかし、戦争のため満足な授業も受けられず中退し、一九四二年に新交響楽団(現NHK交響楽団)に首席奏者として入団する。NHK交響楽団でのめぐりあいからカラヤンの推薦を受け、管楽器奏者としては初めて欧州に留学、アンドレ・ジョネ、ハンス・レツニチェック、マルセル・モイーズ等に学ぶ。吉田雅夫は、「わが国のフルートを世界のレベルにまでひきあげた」とは、東京音楽大学教授でNHK交響楽団団友の植村泰一の弁(「吉田雅夫先生追悼の記」三田評論二〇〇四年二月)。吉田雅夫がNHK交響楽団を退団したのが一九六三年のこと。以後、東京芸術大学をはじめ国立、武蔵野、桐朋、昭和と多くの音楽大学で教鞭をとり多数のフルーティストたちを育てた。二〇〇三年十一月十八日付朝日新聞の死亡記事は「金昌国や林りり子ら世界的なフルート奏者を多く育てた」と二人のフルート奏者の名を上げている。金昌国は現東京芸術大学教授。かたわらアンサンブル・オブ・トウキョウを主催して若手音楽家を育てている。私は永らくこのアンサンブル・オブ・トウキョウのメンバー会員となっていて、上野・東京文化会館小ホールで年4回開かれるコンサートを聴きに行っている。金昌国と私は、学年は違うが一時期兵庫県立神戸高校のブラスバンド部員として演奏していた仲。私のブラスバンド部在籍は短かかったが、金昌国が高校一年生時代(私は二年生)のことを良く記憶している。今では、信じられないことであろうが、高校一年生の金昌国はホルンを吹いていた。私が吹いていた楽器は、若き日の吉田雅夫が短期間吹いていたバリトン。そんなのことから、なんとなく吉田雅夫について親しみをもっていた。思い起こすと一九六二年頃、大学生だった私は、フランス人指揮者ジャン・マルティノンが指揮するベルリオーズ「幻想交響曲」を大阪・梅田のフェスティバルホールで聴いたことがあった。このとき、フルートは吉田雅夫が吹いていた筈であるが、何もおぼえていない。金昌国と並ぶ吉田雅夫のもう一人の弟子が林りり子(一九二六-一九七四)。林りり子の名は懐かしい。まだ、テレビが一般家庭に普及する前の「ラジオの時代」。そんな頃から、林りり子の名は時々聞いていたような気がする。人名録で調べてみると、林りり子は、日本フィルハーモニー交響楽団の主席奏者をつとめたが、四十八歳で惜しくも亡くなっている。「りり子」という一風変わった名前は、本名の「璃々子」に由来するそうだ。吉田雅夫と同様、林りり子(自由学園卒)も音楽学校等正規の音楽教育機関を卒業していない。



桂信子

2006-01-08 11:41:48 | Weblog
近畿車輛・総務課に二十年余勤務した俳人桂信子

昨年(二〇〇三年)の十二月二十八日付日経紙が、文学の各ジャンルにおける一年間のベストスリーを特集していた。「俳句」については、俳文学者復本一郎が以下の三冊の句集を挙げている。

川崎展宏『冬』ふらんす堂
中原道夫『不覚』角川書店
桂信子『草影』ふらんす堂

復本一郎は、「桂信子の存在は、やはり大きい。草城を師とし、畏敬しつつも、草城とはまったくといっていいほどの異質な構築しえた」とコメントする。桂信子『草影』は、二〇〇四年一月一日発表の毎日芸術賞受賞の栄誉にも輝いた。ところで、復本一郎が言及した「草城」とは俳人日野草城(一九〇一~一九五六)のこと。本名は日野克修、大正十三年に京都帝国大学を卒業し大阪海上に入社した。この会社は戦時中合併し大阪住友海上火災保険となる。日野草城は、戦後の一時期この会社の神戸支店長をつとめた。

桂信子(結婚前までの姓は丹羽)は、一九一四年(大正三年)大阪市内の八軒家に生まれる。数え年四歳のとき同じ市内の船越町に転居、空襲にあう一九四五年(昭和二十年)までの殆どの期間、そこに住んだ。近くに谷崎潤一郎『春琴抄』のモデル菊原検校の家があった。父は日露戦争に従軍した在郷軍人。家賃収入などで暮らしていた。毎朝自分で茶をたて、兄(後に大阪市立大学教授、英文学)や桂信子に、掛け軸や茶道具の講釈をする。そんな文化人だった。桂信子は、生まれつきの病弱ではなかった。しかし、大正六年ごろに流行したスペイン風邪にかかってから医者通いが絶えない子供になってしまった。小学校は、休みがち。本を読んでいたので、成績は悪くなかった。大手前女学校に入学の際、体格検査で落とされそうになった。兄が購読していた雑誌少年倶楽部に掲載された俳句の解説を「面白い」と思ったのが、俳句との出会いである。更に、女学校時代に読んだ改造社の現代日本文学全集の「俳句編」が本格的俳句に出会った最初である。この本には、二十七歳の日野草城の写真が掲載されていた。こむつかしく、老人くさい。そう思っていた俳句が身近に感じられた。桂信子が、女学校を卒業したのが一九三三年、句作を始めたのは翌々年。阪急百貨店の書籍売り場で見つけた雑誌「旗艦」に投句し、日野草城に師事するのが一九三八年(昭和十三年)のことである。当時、日野草城は大阪海上に勤務する傍ら「旗艦」を創刊していた。「旗艦」四十八号(一九三八年)に桂信子の最初の句が掲載される。

梅林を額明るくすぎゆけり

一九三九年(昭和十四年)七月、桂信子は心斎橋の小倉ビルで開催された「旗艦」の句会に出席する。ここで初めて日野草城と会う。「ハンサムでしたが、頭は薄かったです」というのがそのときの印象だった(『信子のなにわよもやま』二〇〇二年・ブレーンセンター、九十四ページ)。句会に出席していたのは十二、三名。女性は二名で、もう一人の女性は大阪海上の事務員だった。この年の十一月、桂信子は神戸の船会社に勤める桂七十七郎と結婚、兵庫県武庫郡御影町(現神戸市東灘区御影町)に住む。二十四歳だった。ところが、二十六歳のとき夫と死別する。実家に帰ってしばらくぼんやり過ごした後、戦時中の一九四四年から暫くの間、神戸経済大学(現神戸大学)予科の図書課に勤務する。図書課主任は岩波文庫『聖アウグスティヌスの懺悔録』を訳した服部英治郎。神戸の古本屋仲間で知られた存在で、「本の虫」といわれていた。職場環境は良かった。この仕事を見つけるにあたっては、女学校卒業後に通った花嫁学校(洋裁学校が別個に設置した家庭専修学院)時代の恩師岡島千代先生の紹介があった。すなわち、岡島先生は神戸経済大学予科でフランス語を教えていた生島遼一教授(後に京都大学教授)の夫人となっていて、そのルートで職を得たのだ。少々脱線するが、その生島遼一教授は作家片岡鉄兵と親しく、その線から片岡鉄兵の主要作品のひとつ「花嫁学校」(朝日新聞連載小説)が出来上がった。しかも、その作品には桂信子も“モデル”として登場している。休講が多い洋裁の先生がいて、それに抗議するためにスト騒ぎがあり、その首謀者が桂信子だったというのだ(前掲書一〇五ページ)。ちなみに、生島遼一の随筆集『鴨涯日日』(一九八一年、岩波書店)によると、片岡鉄兵は生島遼一が住む夙川(兵庫県西宮市)のアパートの隣室にいたという(一八六ページ)。
 戦時中、神戸経済大学の予科は空襲に遭う。そのため、予科は六甲山の中腹にある学舎に移転する。大阪から電車に乗り、六甲山の中腹にある大学まで坂道を登る通勤。当時の通勤事情から、また体力的にも困難となり、戦後の一九四六年三月になって知人の世話で近鉄系の車両製造会社である近畿車輛(本社・布施市→現東大阪市)に転職する。結局、近畿車輛には五十五歳定年退職となる一九七〇年(昭和四十五年)まで勤務した。総務課に所属、最初の仕事は受付である。桂信子の師である日野草城は、一時俳句から遠ざかっていた。戦後になって俳壇に復帰する。伊丹三樹彦、楠本憲吉等と師を囲む「まるめろ」の時期。桂信子も加わっていた。しかし、この時期は長続きしない。草城は終戦の翌年、風邪から肺炎を併発、その後健康は回復せず二五年勤務した会社を辞める。一九四九年(昭和二十四年)のことだ。その後草城は、病気と闘いながら句作を続けていた。桂信子の最初の句集は『月光抄』。草城が会社を辞めた年である一九四九年に、師の勧めで刊行する。『月光抄』は、空襲の際、唯一持って逃げた句稿が元になっている。なお、この一九四九年は日野草城が編集する句誌「青玄」が創刊された年でもあった。桂信子は、近畿車輛に在職中三冊の句集を刊行する。退職後も精力的に句作を続け、先に紹介されていた句集『草影』は第十番目の句集。

朝粥のまはり初秋の光満つ
秋風やいつも気になる蝶番(てふつがひ)
人の言ふ老(おい)とは何よ大金魚

冒頭に紹介した一文で、復本一郎は句集『草影』の中から上記三句を選んでいる。