稲葉洋子著『阪神・淡路大震災と図書館活動』(旧稿抄録)
阪神・淡路大震災(一九九五年)からはや十年。本書は被災地にある国立大学(当時。現在は国立大学法人)である神戸大学において図書館司書をつとめていた著者による「震災の体験記録」と「震災直後から始まった震災関連文献の収集・保管業務」に関する報告書ともいえる本である。百ページに満たない薄い本である。しかし、その内容は極めてユニーク。また、表紙をはじめ各所に挿入されたている写真は、図書館における地震の被害の壮絶さを物語るに十分な資料的価値がある。
六甲山の山裾にある堅牢な学舎。地震による建物の損害は、比較的軽微にとどまった。しかし、建物の中の什器備品等は、飛び出したり転倒したりで室内は惨憺たる状態。簡単な固定しか施されていない書架は、なぎ倒されるように転倒した。蔵書は床に散乱し、本の一部は転倒した書架の下敷きになっている。これらの被害を回復するのが図書館職員たちの仕事である。ところが、被災地での交通は遮断されている。しかも、職員の多くは地震の被災者だった。比較的建物の被害が少なかった神戸大学は、七ヶ所に分かれ約一七〇〇名の避難住民を受け入れていた。食料品配布などの対応を大学事務局職員が行っている。学内のグラウンドには自衛隊がテントを張り救援活動を始める。二月二十六日に控えた前期入試は、岡山大学、神戸大学、大阪大学の三ヶ所に分かれて実施することになる。その準備も行わなければならない。そんな中、一月三十日に図書館は再開する。大学がある灘区の公共図書館は三月末まで閉鎖されていたことから、通常は認めていなかった高校生に学内図書館を開放した。このような状況下、そして暖房が切れたままの寒さに耐えながら図書館の復旧活動はおこなわれる。
のちに「震災文庫」とよばれるプロジェクトの“芽“がでてきたのは、一九九五年四月になってからのこと。学外から「今回の地震に関する図書・資料を網羅的に見たい」という趣旨の要請があった。また、図書館の上司から「震災資料の本格的収集」に関する打診が来る。著者は、深く考えることなく、「やりましょう」と回答した。市販の図書の収集は、比較的容易である。しかし、ポスター、チラシ、張り紙、ニュースレター、ビデオフィルム、写真等多種多様な資料を収集していかなければ、地震被害の全貌はつかめない。一方、ポスターやチラシ等の”書籍以外の資料“は、どんどん廃棄処分される運命にある。かなり意図的に収集しなければならない。本書二十ページ以下には、次の三種類の文献に関して、集める際の苦心等が語られている。
(1) ボランティア関係資料
(2) 行政資料
(3) 市民から情報発信資料(自費出版物)
文献の収集に当たっては広報活動が重要な役割を果たす。神戸新聞等の媒体への掲載、地元NGOへの呼びかけと著者たちの活動は広がっていく。収集した資料のデータベース化を行う。また、広報用の印刷物も作成した。八月中旬には、朝日新聞が、神戸、大阪、東京版等で「震災文庫」の記事を掲載してくれる。このようにして、公開の準備を進め、一九九五年十月三十日に「震災文庫」の公開がスタートした。収集、整理、公開でことが足りるわけではない、外国語文献の収集、海外からの照会への対応(地震保険に関する英文資料が欲しいという照会もあった)、著作権やプライバシーといった問題のクリアー、貸出しない理由の徹底(利用者がいつでも参照できるように配慮)等々「震災文庫」を維持・発展させていくためには色々と苦労がある。また、「震災文庫」を継続していくための“体制造り”も欠かせない。人事異動により、せっかく養成した人材がいなくなってしまうからだ。現に、著者自身も二〇〇一年四月には香川医科大学教務部図書課長として転任する。
本書巻末には「年表」があり、本書の価値を更に高めている。
開のためのノウハウの書としても活用できる。
(二〇〇五年、西日本出版社、定価一〇五〇円)
阪神・淡路大震災(一九九五年)からはや十年。本書は被災地にある国立大学(当時。現在は国立大学法人)である神戸大学において図書館司書をつとめていた著者による「震災の体験記録」と「震災直後から始まった震災関連文献の収集・保管業務」に関する報告書ともいえる本である。百ページに満たない薄い本である。しかし、その内容は極めてユニーク。また、表紙をはじめ各所に挿入されたている写真は、図書館における地震の被害の壮絶さを物語るに十分な資料的価値がある。
六甲山の山裾にある堅牢な学舎。地震による建物の損害は、比較的軽微にとどまった。しかし、建物の中の什器備品等は、飛び出したり転倒したりで室内は惨憺たる状態。簡単な固定しか施されていない書架は、なぎ倒されるように転倒した。蔵書は床に散乱し、本の一部は転倒した書架の下敷きになっている。これらの被害を回復するのが図書館職員たちの仕事である。ところが、被災地での交通は遮断されている。しかも、職員の多くは地震の被災者だった。比較的建物の被害が少なかった神戸大学は、七ヶ所に分かれ約一七〇〇名の避難住民を受け入れていた。食料品配布などの対応を大学事務局職員が行っている。学内のグラウンドには自衛隊がテントを張り救援活動を始める。二月二十六日に控えた前期入試は、岡山大学、神戸大学、大阪大学の三ヶ所に分かれて実施することになる。その準備も行わなければならない。そんな中、一月三十日に図書館は再開する。大学がある灘区の公共図書館は三月末まで閉鎖されていたことから、通常は認めていなかった高校生に学内図書館を開放した。このような状況下、そして暖房が切れたままの寒さに耐えながら図書館の復旧活動はおこなわれる。
のちに「震災文庫」とよばれるプロジェクトの“芽“がでてきたのは、一九九五年四月になってからのこと。学外から「今回の地震に関する図書・資料を網羅的に見たい」という趣旨の要請があった。また、図書館の上司から「震災資料の本格的収集」に関する打診が来る。著者は、深く考えることなく、「やりましょう」と回答した。市販の図書の収集は、比較的容易である。しかし、ポスター、チラシ、張り紙、ニュースレター、ビデオフィルム、写真等多種多様な資料を収集していかなければ、地震被害の全貌はつかめない。一方、ポスターやチラシ等の”書籍以外の資料“は、どんどん廃棄処分される運命にある。かなり意図的に収集しなければならない。本書二十ページ以下には、次の三種類の文献に関して、集める際の苦心等が語られている。
(1) ボランティア関係資料
(2) 行政資料
(3) 市民から情報発信資料(自費出版物)
文献の収集に当たっては広報活動が重要な役割を果たす。神戸新聞等の媒体への掲載、地元NGOへの呼びかけと著者たちの活動は広がっていく。収集した資料のデータベース化を行う。また、広報用の印刷物も作成した。八月中旬には、朝日新聞が、神戸、大阪、東京版等で「震災文庫」の記事を掲載してくれる。このようにして、公開の準備を進め、一九九五年十月三十日に「震災文庫」の公開がスタートした。収集、整理、公開でことが足りるわけではない、外国語文献の収集、海外からの照会への対応(地震保険に関する英文資料が欲しいという照会もあった)、著作権やプライバシーといった問題のクリアー、貸出しない理由の徹底(利用者がいつでも参照できるように配慮)等々「震災文庫」を維持・発展させていくためには色々と苦労がある。また、「震災文庫」を継続していくための“体制造り”も欠かせない。人事異動により、せっかく養成した人材がいなくなってしまうからだ。現に、著者自身も二〇〇一年四月には香川医科大学教務部図書課長として転任する。
本書巻末には「年表」があり、本書の価値を更に高めている。
開のためのノウハウの書としても活用できる。
(二〇〇五年、西日本出版社、定価一〇五〇円)