中島飛行機とカルメン
私の頭の中では、「中島飛行機」と「カルメン」という一見関係のなさそうなキーワードが関連を持って記憶されている。この二つのキーワードを繋ぐのが、別のキーワード「ラビット」である。これには、少々説明が必要だ。
私は、”ラビット”というコトバからスクーターを連想する。また同時に小学校4年生の時の音楽の時間に歌った「ダダダダ ダダダダ ラビットだ 小さなからだできれいだな ラビットモーターのウサギだな」という歌詞とメロディーを思い出す。音楽の教科書の楽譜の脇には、スクーターに乗った男のイラストが添えられている。この「ラビット」という歌は、コマーシャルソングのようにおもえるが、そうではない。当時の小学校の音楽の教科書に掲載されていたれっきとした唱歌である。今日では、ホンダやヤマハ、そしてカワサキのオートバイをテーマとした歌が、小学校の教科書に掲載されることはありえない。オートバイだけではない。自動車でも、家電製品でも、カメラでも同じことだ。私が、小学校の音楽教室で「ラビット」を歌ったのは、1951年(昭和26年)のこと。まだ、戦後のドサクサ時代。商品名が入った歌をうっかり教科書に収録してしまったのだろう。この歌は、フランスの作曲家ビゼー(「カルメン」の中の1曲)の旋律に、歌詞をつけたもの。作詞者は、ラビットを商品名ではなく、普通名詞と勘違いして「ラビット」を作詞してしまった。それがそのまま、文部省の検閲(?)をすりぬけ、全国の小学生が、現在の富士重工業(当時の社名は富士産業)が生産したスクーターの商品名を、大きな声で歌ったということになる。当時、「ラビット」というコトバは、商品名というよりは、普通名詞化していたということなのであろう。2004年に刊行された『富士重工業50年史』には、北原三枝、白川由美という当時のトップスターたちがラビットに乗ったり、脇に立ったりしている写真が収録されている。ラビットの生産のピークは1961年だったという。これらの写真は、おそらく1961年前後のものであろう。
富士産業は、終戦直後になって軍需会社としてあまりにも有名だった中島飛行機が改称されて出来た会社。中島飛行機(カットは同社の社債。敗戦と同時に紙くず同様となった。筆者の祖母旧蔵)という会社は、1917年(大正6年)、海軍機関大尉中島知久平氏が、海軍に辞表を出し航空機製造に乗り出したことにルーツを持つ。中島飛行機は、戦闘機「隼」、同「疾風」を生産したことで知られている。中島飛行機は、まさに終戦直後の8月17日、富士産業と改称、GHQの許可のもと電気部品、モーター、農機具、ミシン、タイプライター等の製造に業態転換する。その中で、三鷹工場(東京)、太田工場(埼玉)で、スクーターの生産がはじまる。第1号の生産は、1946年6月。1968年に生産を打ち切る迄に63万台強のラビットが世に送り出されたという。1953年になって、様々な社名で各種製品を製造していた旧中島飛行機は集約化され富士重工業が設立された(7月15日)。この時期、スクーターの生産は、全体の50%近くを占めていた主力製品だったようだ。また、富士重工業設立直後の1954年2月には自動車の試作車第1号が完成、「すばる」と命名されていた。
戦後、富士重工業が再出発して間もない1955年、東京大学経済学部を卒業して入社したのが作家の黒井千次(1932年生まれ)である。最初の4年間はバスボディーを製造する伊勢崎工場(群馬県)に勤務する。その後、本社に転勤して市場調査の業務に7年間従事した。黒井千次は、サラリーマンの傍ら新日本文学界に所属、創作活動を続けたが、1970年に退職、作家活動に専念する。「二足のワラジをはいていて、股がさけそうになった」というのが、会社を辞めた理由だった。黒井千次には『働くということ』(1982年、講談社現代新書)という著書がある。この本は、学生時代の就職活動にはじまり富士重工業に勤務した15年間の体験をもとに若者を対象に書かれている。若干の年数のズレはあるが、まさにラビットを製造していた時期の富士重工業が生き生きと描かれている。『働くということ』は、富士重工業の社史のサブテキストとして読んでも興味深い。
私の頭の中では、「中島飛行機」と「カルメン」という一見関係のなさそうなキーワードが関連を持って記憶されている。この二つのキーワードを繋ぐのが、別のキーワード「ラビット」である。これには、少々説明が必要だ。
私は、”ラビット”というコトバからスクーターを連想する。また同時に小学校4年生の時の音楽の時間に歌った「ダダダダ ダダダダ ラビットだ 小さなからだできれいだな ラビットモーターのウサギだな」という歌詞とメロディーを思い出す。音楽の教科書の楽譜の脇には、スクーターに乗った男のイラストが添えられている。この「ラビット」という歌は、コマーシャルソングのようにおもえるが、そうではない。当時の小学校の音楽の教科書に掲載されていたれっきとした唱歌である。今日では、ホンダやヤマハ、そしてカワサキのオートバイをテーマとした歌が、小学校の教科書に掲載されることはありえない。オートバイだけではない。自動車でも、家電製品でも、カメラでも同じことだ。私が、小学校の音楽教室で「ラビット」を歌ったのは、1951年(昭和26年)のこと。まだ、戦後のドサクサ時代。商品名が入った歌をうっかり教科書に収録してしまったのだろう。この歌は、フランスの作曲家ビゼー(「カルメン」の中の1曲)の旋律に、歌詞をつけたもの。作詞者は、ラビットを商品名ではなく、普通名詞と勘違いして「ラビット」を作詞してしまった。それがそのまま、文部省の検閲(?)をすりぬけ、全国の小学生が、現在の富士重工業(当時の社名は富士産業)が生産したスクーターの商品名を、大きな声で歌ったということになる。当時、「ラビット」というコトバは、商品名というよりは、普通名詞化していたということなのであろう。2004年に刊行された『富士重工業50年史』には、北原三枝、白川由美という当時のトップスターたちがラビットに乗ったり、脇に立ったりしている写真が収録されている。ラビットの生産のピークは1961年だったという。これらの写真は、おそらく1961年前後のものであろう。
富士産業は、終戦直後になって軍需会社としてあまりにも有名だった中島飛行機が改称されて出来た会社。中島飛行機(カットは同社の社債。敗戦と同時に紙くず同様となった。筆者の祖母旧蔵)という会社は、1917年(大正6年)、海軍機関大尉中島知久平氏が、海軍に辞表を出し航空機製造に乗り出したことにルーツを持つ。中島飛行機は、戦闘機「隼」、同「疾風」を生産したことで知られている。中島飛行機は、まさに終戦直後の8月17日、富士産業と改称、GHQの許可のもと電気部品、モーター、農機具、ミシン、タイプライター等の製造に業態転換する。その中で、三鷹工場(東京)、太田工場(埼玉)で、スクーターの生産がはじまる。第1号の生産は、1946年6月。1968年に生産を打ち切る迄に63万台強のラビットが世に送り出されたという。1953年になって、様々な社名で各種製品を製造していた旧中島飛行機は集約化され富士重工業が設立された(7月15日)。この時期、スクーターの生産は、全体の50%近くを占めていた主力製品だったようだ。また、富士重工業設立直後の1954年2月には自動車の試作車第1号が完成、「すばる」と命名されていた。
戦後、富士重工業が再出発して間もない1955年、東京大学経済学部を卒業して入社したのが作家の黒井千次(1932年生まれ)である。最初の4年間はバスボディーを製造する伊勢崎工場(群馬県)に勤務する。その後、本社に転勤して市場調査の業務に7年間従事した。黒井千次は、サラリーマンの傍ら新日本文学界に所属、創作活動を続けたが、1970年に退職、作家活動に専念する。「二足のワラジをはいていて、股がさけそうになった」というのが、会社を辞めた理由だった。黒井千次には『働くということ』(1982年、講談社現代新書)という著書がある。この本は、学生時代の就職活動にはじまり富士重工業に勤務した15年間の体験をもとに若者を対象に書かれている。若干の年数のズレはあるが、まさにラビットを製造していた時期の富士重工業が生き生きと描かれている。『働くということ』は、富士重工業の社史のサブテキストとして読んでも興味深い。