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中島飛行機とカルメン

2009-07-26 18:50:04 | Weblog
中島飛行機とカルメン

私の頭の中では、「中島飛行機」と「カルメン」という一見関係のなさそうなキーワードが関連を持って記憶されている。この二つのキーワードを繋ぐのが、別のキーワード「ラビット」である。これには、少々説明が必要だ。

 私は、”ラビット”というコトバからスクーターを連想する。また同時に小学校4年生の時の音楽の時間に歌った「ダダダダ ダダダダ ラビットだ 小さなからだできれいだな ラビットモーターのウサギだな」という歌詞とメロディーを思い出す。音楽の教科書の楽譜の脇には、スクーターに乗った男のイラストが添えられている。この「ラビット」という歌は、コマーシャルソングのようにおもえるが、そうではない。当時の小学校の音楽の教科書に掲載されていたれっきとした唱歌である。今日では、ホンダやヤマハ、そしてカワサキのオートバイをテーマとした歌が、小学校の教科書に掲載されることはありえない。オートバイだけではない。自動車でも、家電製品でも、カメラでも同じことだ。私が、小学校の音楽教室で「ラビット」を歌ったのは、1951年(昭和26年)のこと。まだ、戦後のドサクサ時代。商品名が入った歌をうっかり教科書に収録してしまったのだろう。この歌は、フランスの作曲家ビゼー(「カルメン」の中の1曲)の旋律に、歌詞をつけたもの。作詞者は、ラビットを商品名ではなく、普通名詞と勘違いして「ラビット」を作詞してしまった。それがそのまま、文部省の検閲(?)をすりぬけ、全国の小学生が、現在の富士重工業(当時の社名は富士産業)が生産したスクーターの商品名を、大きな声で歌ったということになる。当時、「ラビット」というコトバは、商品名というよりは、普通名詞化していたということなのであろう。2004年に刊行された『富士重工業50年史』には、北原三枝、白川由美という当時のトップスターたちがラビットに乗ったり、脇に立ったりしている写真が収録されている。ラビットの生産のピークは1961年だったという。これらの写真は、おそらく1961年前後のものであろう。

 富士産業は、終戦直後になって軍需会社としてあまりにも有名だった中島飛行機が改称されて出来た会社。中島飛行機(カットは同社の社債。敗戦と同時に紙くず同様となった。筆者の祖母旧蔵)という会社は、1917年(大正6年)、海軍機関大尉中島知久平氏が、海軍に辞表を出し航空機製造に乗り出したことにルーツを持つ。中島飛行機は、戦闘機「隼」、同「疾風」を生産したことで知られている。中島飛行機は、まさに終戦直後の8月17日、富士産業と改称、GHQの許可のもと電気部品、モーター、農機具、ミシン、タイプライター等の製造に業態転換する。その中で、三鷹工場(東京)、太田工場(埼玉)で、スクーターの生産がはじまる。第1号の生産は、1946年6月。1968年に生産を打ち切る迄に63万台強のラビットが世に送り出されたという。1953年になって、様々な社名で各種製品を製造していた旧中島飛行機は集約化され富士重工業が設立された(7月15日)。この時期、スクーターの生産は、全体の50%近くを占めていた主力製品だったようだ。また、富士重工業設立直後の1954年2月には自動車の試作車第1号が完成、「すばる」と命名されていた。
 戦後、富士重工業が再出発して間もない1955年、東京大学経済学部を卒業して入社したのが作家の黒井千次(1932年生まれ)である。最初の4年間はバスボディーを製造する伊勢崎工場(群馬県)に勤務する。その後、本社に転勤して市場調査の業務に7年間従事した。黒井千次は、サラリーマンの傍ら新日本文学界に所属、創作活動を続けたが、1970年に退職、作家活動に専念する。「二足のワラジをはいていて、股がさけそうになった」というのが、会社を辞めた理由だった。黒井千次には『働くということ』(1982年、講談社現代新書)という著書がある。この本は、学生時代の就職活動にはじまり富士重工業に勤務した15年間の体験をもとに若者を対象に書かれている。若干の年数のズレはあるが、まさにラビットを製造していた時期の富士重工業が生き生きと描かれている。『働くということ』は、富士重工業の社史のサブテキストとして読んでも興味深い。

松村弓彦編著『環境ビジネスリスク 環境法からのアプローチ』

2009-07-10 17:53:41 | Weblog
松村弓彦編著『環境ビジネスリスク 環境法からのアプローチ』

本書は、企業のリスク管理の目的のために編纂された環境法解説の書である。その元となったのは、産業環境管理協会が発行する月刊誌「環境管理」に連載されている「環境法の新潮流」。その中から、リスク管理関連の論稿をピックアップし、ビジネスリスクについての書き下ろしを加えて構成されている。
企業の環境ビジネスリスクとしては、環境汚染事故、公害がある。環境汚染事故としては、1984年、インドボパールに進出していたアメリカの化学会社の農薬製造工場から多量の有害物質が漏出、約4000人が死亡したケースが、あまりにも有名である。これを受けて、米国政府は「緊急対処計画及び地域住民の知る権利法」を制定した。日本での事故としては、1999年に茨城県東海村核燃料加工会社で発生した臨界事故がある。公害については、新潟水俣病(1967年提訴、1971年一審判決)、四日市喘息(1967年提訴、1972年一審判決)等の四大公害訴訟が、広く知られている。このような事故や公害の経験を受けて、国家が環境に関する法の制定を行ったり、環境に関する規制や基準を制定するようになってきた。企業は、単に事故の際に大きな損害賠償を負うにとどまらず、大気汚染や土壌汚染に関して基準値をこえたまま放置すると、たとえ現実的な損害が生じていなくても、法や規制に違反したことになり、その回収等に多額の費用を負担し、更にマスコミ報道の結果、社会的批判を受ける。企業イメージは大きく下がり、一般大衆・消費者から不買運動を起こされる恐れが出て来る。2001年、家庭用ゲーム機に含まれたカドミウムがオランダの環境規制で許容される安全基準の最大20倍を超えると判定され、オランダ当局から130万台の出荷停止(130億円の売上高に相当)を受けた例もある。

編著者である松村弓彦(まつむら・ゆみひこ)氏は、産業界・学会双方に通じた現職の大学教授。松村氏は1963年に一橋大学法学部卒業後1993年まで川崎製鉄に勤務した(退社時:理事)。その後、杏林大学保健学部を経て1998年から明治大学法学部に勤務する。現在は、同大学法学部・法科大学院教授、博士(法学)。本書の目次は、以下のとおり。前述のように、極めて多方面のテーマが盛り込まれている。そのため、執筆者は、学者、実務家17名と多数がラインアップ。東京海上日動リスクコンサルティング志田慎太郎上席研究主幹(香川大学客員教授)もその一人である。

第1章 環境経営と企業リスク
第2章 環境リスク概念
第3章 社会的許容リスクの考え方
第4章 環境規制と環境ビジネスリスク
第5章 環境法におけるリスク管理水準の決定方法
第6章 環境リスクに対する事前・事後配慮
第7章 環境配慮義務論
第8章 欧州の製品規制政策と環境リスク管理
第9章 (行政)刑法の未然防止機能
第10章 海外投資と環境保全
第11章 自然起因の健康リスク管理のための法政策
第12章 環境コンプライアンスとリスク・マネジメント
第13章 環境関連リスク配慮に対する国・自治体の責任
第14章 製品起因の環境損害に対する責任
第15章 国際社会からみた環境損害責任のしくみ
第16章 環境損害の評価基準
第17章 環境リスクと予防原則

ビジネスリスク管理の重要性が高まっている現在、企業は国内外の環境法・政策の動向を先取りすることが求められるようになった。本書は環境法・政策からリスク管理を考えるための多面的なアプローチをしている。環境経営従事者必携の書であるといえよう。


         (2009年、産業環境管理協会出版広報センター、3000円+税)