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1951年、ベルギー船ルーベンス号の海難事故―保険金支払は5億円―

2006-07-26 22:07:07 | Weblog
 戦後の損害保険業界の歴史を語るうえで、所謂「ルーベンス号事件」は、極めて重要な”事件”のひとつである。1951年(昭和26年)7月21日未明、丸紅が買い付けた醸造用米国産大豆8600トンを満載したベルギー船籍のルーベンス号が、千葉県御宿沖で濃霧の中で座礁した。ルーベンス号は、横浜港に向かって航行中であったが、前日未明から操船を誤り黒潮に流され、岩礁に乗り上げてしまった。岩礁から離れるためにエンジンをフル回転させたが、その結果エンジンの加熱により火災が発生した。火災を鎮めるために水をかけたが、その水のために船は沈没してしまう。ルーベンス号の沈没により、丸紅は東京海上火災から約5億円の保険金を受け取った。この海難事故にかかわる保険金の支払は、「海上保険史の記録に残る大事故」(『丸紅本史』1984年)と記録されている。
 この時期、大豆相場は大暴落していた。朝鮮戦争の勃発が前年の6月25日。以後、国際商品は一挙に値上がりした。ところが、1951年に入ってから停戦の見通しが出てくると、相場は反転して暴落してしまう。3月頃から米軍が物資の購入を控え始めた。そして、7月から休戦交渉が開始する。この当時、日本の商社はシカゴ穀物取引所へのヘッジも許されず、高値で買い付けた大豆が日本で荷揚げされるときには、暴落の影響をモロに受けることになってしまう。ところが、丸紅はルーベンス号が沈没したことにより、暴落に伴う大損失を免れた。後に、丸紅の社長に就任(社長在任1983年-1987年)する春名和雄は、この大豆輸入の担当者だった。日本経済新聞に連載した「私の履歴書」(1990年12月)のなかで、春名元社長は、この「ルーベンス号事件」を回想している。ルーベンス号沈没の際、春名は千葉県・御宿(おんじゅく)の旅館に泊まりこむ。船から流れ出した大豆を拾い集め、海岸で乾かす作業をした。「もし入荷していれば大損を被ったであろう貨物だけに、我々にとってこの海難事故はむしろ救いであった」というのが春名の感懐である。
 一方、ルーベンス号事件当時丸紅の初代社長であったのが市川忍(社長在任1949年-1964年)。春名和雄に先立って日本経済新聞に「私の履歴書」(1970年1月)を連載している。市川忍は、朝鮮戦争後の好景気と、その反動について、1951年(昭和26年)3月期決算では「5億円の利益を生み、5割配当するといった好調ぶり」と述べている。ところが、翌年3月期では「これまでの利益をすべてはき出しても、なお5億円の損失を出す有様」で、無配に転落したと語っている。丸紅は、このあと3期連続で無配を続ける。それだけに5億円の保険金受領は、丸紅の経営上極めて重要な出来事であったことになる。このルーベンス号事件については、『東京海上火災保険株式会社80年史』(1964年)、『東京海上火災保険株式会社100年史』(1982年)何れも記載があることは勿論であるが、ジャーナリスト林芳典(元「エコノミスト」編集部次長)の手による『東京海上の100年』(1979年)の記述内容が、リアリティーがあり興味を惹く(同書195ページ)。以下は、その引用。
 
 ベルギーの船が米国大豆9000トンを積んで横浜向かって航行中、濃霧で岩礁に乗り上げた。満載の大豆には東京海上の保険が6億円かかっている。1社の保険金額としては史上最高のものだった。大豆は水に濡れると2倍半ほどにふくれ上がる。船腹の大豆が膨張したからたまらない。鋼鉄船の船腹も甲板も割れてしまうという前代未聞の事故になった。
 
 この記述のあと、当時損害査定を担当していた宮武和雄の回想が紹介されている。これにより、船から流れ出した大豆の乾燥作業の概要がわかる。宮武等は、海岸の村で大量の筵を買い付け、1ヶ月かけて1000トンの大豆を干し上げた。残りの大豆は船とともに海中に没した。1000トンの大豆は、「格落品」として引き取る業者がいたそうだ。『東京海上火災保険株式会社80年史』、『東京海上火災保険株式会社100年史』には支払い保険金の額は5億4000万円とあり、この事故は「戦前戦後を通じ最大の損害」であったことが記されている。東京海上は、戦後いち早くロンドン、ニューヨークに再保険市場を獲得してあった。巨額の支払保険金も再保険で回収することができた。
『東京海上の100年』をはじめ東京海上サイドの文献には、ルーベンス号に積載された輸入大豆の保険契約者名(丸紅)は出ていない。丸紅側の史料と合わせ読むと、ルーベンス号事件の全貌が浮き彫りにされていく。

【参考文献】
春名和雄『生かされてきた日々-私の履歴書』(1991年、私家版)
春名和雄「私の履歴書」、『私の履歴書―経済人28』(2004年、日本経済新聞社)所収
市川忍「私の履歴書」『私の履歴書―経済人13』(1980年、日本経済新聞社)所収
『丸紅本史』(1984年、丸紅株式会社)
『東京海上火災保険株式会社80年史』(1964年、東京海上火災保険株式会社)
日本経営史研究所編『東京海上の100年』(1979年、東京海上火災保険株式会社)
『東京海上火災保険株式会社100年史』(1982年、東京海上火災保険株式会社)


(文中敬称略)

西沢江美子著『あぶない肉』

2006-07-26 22:05:02 | Weblog
 ここ数年、BSE、鳥インフルエンザ等“家畜に対する新しい病気”に関する報道がマスコミの俎上に度々乗せられている。本書は、農業ジャーナリスト(1940年群馬県の生まれ)の手による「肉の安全」に関する啓蒙書。最初の数ページはカラー。スーパーの「チラシ」の解読法や、パックされて店頭に並ぶ肉の見分け方が解説されている。チラシに“黒毛和牛”と書いてあっても、そのまま信じてはいけない。“国産”という文字がかかれてあって、初めて正真正銘の日本国内産ということが確認できる。単に“和牛”という文字にだまされてはいけない。このように著者はコメントする。著者は、「アメリカ産・和牛肉」と表示された美しい霜降り肉」を大手量販店で見つけて、複雑な気持ちになった経験あった。霜降り肉は、イクラで赤く着色され、白い脂肪は、注射針で注入されたのだろうか。これが、著者の頭をよぎった“悪い想像”である(47ページ)。 本書の構成(目次)は、次のようになっている。

 1 肉食文化への道
 2 肉になるまで
 3 薬づけの食肉とあぶない食肉
 4 人畜共通伝染病が教えること
 5 アメリカの肉は心配ないか
 6 安心への模索
実践編 安全な肉の買い方と食べ方

 本書を一消費者として活用する場合は、最後の「実践編 安全な肉の買い方と食べ方」
のみを読めば足りる。しかし、食肉の安全を踏み込んで考えていくためには、たとえ主婦の立場であっても、最初からの通読をお勧めしたい。例えば、第3章「薬づけの食肉とあぶない食肉」では、家畜に投与される抗生物質の問題と飼料の「ポストハーベスト」問題を扱う。家畜に与えられる抗菌性物質(抗生物質)は、時に乱用され副作用が問題となっている。欧州連合(EU)では、2006年までに抗生物質を成長促進目的で飼料に添加することを全面禁止することが決まっている。スウェーデン(1986年)やデンマーク(1999年)では、既に禁止されている。一方、日本がこれまで輸入の相手先としていたアメリカやオーストラリアでは何等対策は打たれていない。「ポストハーベスト」についても輸入食肉の恐ろしさを本書は指摘する。
 第4章「人畜共通伝染病が教えること」、第5章「アメリカの肉は心配ないか」は、極めて今日的話題が提供される。一般の新聞報道より更に踏み込んだ事実の開示や問題点の指摘があり、本書の啓蒙書としての価値が高いことを示している。
                       (2006年、めこん、1900円)


国崎信江著『犯罪から子どもを守る50の方法』

2006-07-16 09:40:43 | Weblog
本書の著者国崎信江(くにざき・のぶえ)さんは、1969年横浜生まれの危機管理アドバイザー(http://www.kunizakinobue.com)。土木学会巨大地震災害への対応検討委員等をつとめる。二人の小学生の母でもあり、母親の立場から子供を守ることに関して並々ならぬ思い入れがある。国崎さんは、外資系航空会社の機内通訳の職にあったが、結婚を機に退職主婦となった。そのような経歴の国崎さんであったが、阪神淡路大震災(1995年)で600人近い子供たちが命を失ったことに強い衝撃を受けた。これが契機で「自然災害から子供を守るための研究」を始めた。既に『地震から子どもを守る50の方法』(ブロンズ社)の著書がある。本書の構成は、以下のようになっている。
第1章 子供を犯罪から守るために
第2章 登下校時の犯罪から子どもを守る
第3章 外出時の犯罪から子どもを守る
第4章 自宅を犯罪現場にしないために
第5章 学校や園での犯罪から子どもを守る
第6章 子どもが犯罪にあってしまったら
 
 「不審者の固定概念を捨てよう」(第1章)が興味を惹く。一般に事件を起こすような“不審者”に関しては、「サングラスやマスクを付けた人」、「だらしがない服装をした無職風の40歳ぐらいの男性」といった固定概念的なイメージがある。著者は、このような固定概念を知らず知らずのうちに子供に植え付けてしまう危険性を指摘する。同時に、最近起きた子供を対象に起きた“事件の犯人像”を例示する。27歳の住宅メンテナンスのセールスマン(住居侵入・強制わいせつ)、24歳の警備会社員(同)、36歳の郵便局員(強制わいせつ)、13歳の女子中学生(男児突き落とし事件)、29歳の中学校事務職員(ショッピングセンター・トイレでの傷害事件)等をみると、前述の固定概念像とは大きく異なる。
「一人で留守番 誰かが訪ねてきたら」(第4章)は、極めて実用的なアドバイスである。
著者の自宅では、子供が一人で留守番しているときは「誰がチャイムを鳴らしても一切対応しない」というのがルール。子供が一人で家にいることや家族構成をを他人に知られる恐れがあるからだ。宅配便、近所の人、郵便局といった多様な人たちがチャイムを鳴らす。子供に対して、「この人はドアを開けても良い、この人はドアを開けてはいけない」と言っても、正しく守るのは困難。なりすましもあるかもしれない。そうなると、「誰がチャイムを鳴らしても一切対応しない」というルールは、子供を混乱させずすっきりしている。
 「うちの子はだいじょうぶ」といった根拠のない。そんな親の油断が危険を招く。わが子がいつ犯罪にまきこまれるかわからない。そんな現状を、親がしっかり認識する必要がある。そんな著者の母親としての“強い思い”が、本書の隅々まで流れている好著である。また、過去の事件の実例から学ぶというのも本書のスタンスのひとつに、本書のところどころに「過去の犯罪記録」17例が完結に纏められているのも本書の特色であるといえよう。

(2005年、ブロンズ社、1300円+税)

独立行政法人国立環境研究所編『いま地球が大変!』

2006-07-15 18:21:27 | Weblog
本書は国立環境研究所のホームページに掲載された子供向けのサイトに掲載された「Q&A」六十話を単行本化したもの。エルニーニョ、ヒートアイランド、オゾン層、フロン、ダイオキシン、PCB、ワシントン条約といった用語を簡明に説明しながら、環境問題の重要性を平易に子供たちに伝えるよう編集されている。もっとも、本書は一般市民にとって充分読むにたえる内容であることは、いうまでもない。日頃、テレビや新聞で報じられている環境問題に関する様々なテーマを手際よく整理している。
 本書が成立した背景から、子供を意識したテーマ選びがなされている。「なぜ、都会の空気は汚れているのですか」、「人口が増えるとなぜ困るのですか」といった素朴な(実は基本的で重要な)設問がある。読んでみると、上手にまとめられた回答ができている。大人にとっても興味が持てるような内容だ。また、「外来種はどのように生態系をみだしているの」の項目では、最近話題の輸入クワガタムシを取り上げている。しかも写真入だ。
(2005年、丸善、1200円+税)

京都・安井飛行場で、小型機が見物客に突っ込む ――死者一、負傷者八――

2006-07-15 18:19:43 | Weblog
昭和という元号が始まったのは、西暦でいうと一九二六年十二月二十五日。その前日までは、大正十五年であった。昭和元年は、僅か七日間しかなかった計算になる。翌一九二七年は三月には、京都府北部を襲った北丹後地震(死者****人)が発生している。今から歴史を振り返ってみると、昭和という時代は“激震” からスタートしたと見ることもできよう。
 
 一九二七年(昭和二年)十一月三日、同じく京都府の船井郡須知町にある安井飛行場で、死者一名負傷者八名の航空機事故が生じている日本損害保険協会企画・編集『昭和災害史』(一九九〇年、日本損害保険協会)。『昭和災害史』には、事故の状況として、「民間飛行大会で小型機が群集の中に突入。見物客被災」と記載されている。また、日外アソシエーツ編集部編『昭和災害史事典』(一九九五年、日外アソシエーツ)を見ると、事故状況としては「曲芸飛行機墜落」と簡単な記載があるのみ。もう少し詳しいことが知りたくて大内健二『日本の航空機事故90年』(二〇〇三年、成山堂)を参照してみたが、京都の飛行機事故については、記述がない。ちなみに、『日本の航空機事故90年』によると、日本で最初の航空機事故は一九一一年(明治四十四年)、所沢飛行場から川越市街に向かったプレリオ機の麦畑への不時着事故。乗っていた徳川好敏大尉と同乗者一名は、幸いにもかすり傷ひとつ負わず無事であった。さて、京都の航空機事故について当時の新聞記事を見てみよう。 一九二七年(昭和二年)十一月四日付朝日新聞には、「飛行機突入して死傷者十数名 満員の見物人席へ 京都府下須知町の惨事」の見出しのもとに事故の状況が報道されている。以下は、その抄録である。
                            
 京都府船井郡須知町の安井飛行場が、創立五周年記念と安井航空研究所一周年記念を兼ねて冒険飛行大会を三日午前十時から同飛行場において興行した。午後四時半頃、パラシュートの演技にいり安井飛行士が操縦着陸しようとしたが、舵機が故障して機体が満員の見物客にすべりこんだ。この事故により、即死一名、危篤一名その他重軽傷者十数名をだした。所管の園部警察署では急報を受け、警察官、医師等立ち会いのもとに検視を行い、原因その他を取調中。
この新聞記事により、事故の状況はよりリアルになってくる。この時代、飛行機は未だ珍しい存在。世間では見世物のように扱われていた。『昭和災害史事典』の表記「曲芸飛行機墜落」は、当時のニュアンスを伝えている。
本稿は六〇年余続いた昭和時代の事故や災害を辿っていこうという企画。俎上に乗せる事故等は、必ずしも大きい(または重要な)ものに限らないことを、あらかじめお断りしておきたい。