戦後の損害保険業界の歴史を語るうえで、所謂「ルーベンス号事件」は、極めて重要な”事件”のひとつである。1951年(昭和26年)7月21日未明、丸紅が買い付けた醸造用米国産大豆8600トンを満載したベルギー船籍のルーベンス号が、千葉県御宿沖で濃霧の中で座礁した。ルーベンス号は、横浜港に向かって航行中であったが、前日未明から操船を誤り黒潮に流され、岩礁に乗り上げてしまった。岩礁から離れるためにエンジンをフル回転させたが、その結果エンジンの加熱により火災が発生した。火災を鎮めるために水をかけたが、その水のために船は沈没してしまう。ルーベンス号の沈没により、丸紅は東京海上火災から約5億円の保険金を受け取った。この海難事故にかかわる保険金の支払は、「海上保険史の記録に残る大事故」(『丸紅本史』1984年)と記録されている。
この時期、大豆相場は大暴落していた。朝鮮戦争の勃発が前年の6月25日。以後、国際商品は一挙に値上がりした。ところが、1951年に入ってから停戦の見通しが出てくると、相場は反転して暴落してしまう。3月頃から米軍が物資の購入を控え始めた。そして、7月から休戦交渉が開始する。この当時、日本の商社はシカゴ穀物取引所へのヘッジも許されず、高値で買い付けた大豆が日本で荷揚げされるときには、暴落の影響をモロに受けることになってしまう。ところが、丸紅はルーベンス号が沈没したことにより、暴落に伴う大損失を免れた。後に、丸紅の社長に就任(社長在任1983年-1987年)する春名和雄は、この大豆輸入の担当者だった。日本経済新聞に連載した「私の履歴書」(1990年12月)のなかで、春名元社長は、この「ルーベンス号事件」を回想している。ルーベンス号沈没の際、春名は千葉県・御宿(おんじゅく)の旅館に泊まりこむ。船から流れ出した大豆を拾い集め、海岸で乾かす作業をした。「もし入荷していれば大損を被ったであろう貨物だけに、我々にとってこの海難事故はむしろ救いであった」というのが春名の感懐である。
一方、ルーベンス号事件当時丸紅の初代社長であったのが市川忍(社長在任1949年-1964年)。春名和雄に先立って日本経済新聞に「私の履歴書」(1970年1月)を連載している。市川忍は、朝鮮戦争後の好景気と、その反動について、1951年(昭和26年)3月期決算では「5億円の利益を生み、5割配当するといった好調ぶり」と述べている。ところが、翌年3月期では「これまでの利益をすべてはき出しても、なお5億円の損失を出す有様」で、無配に転落したと語っている。丸紅は、このあと3期連続で無配を続ける。それだけに5億円の保険金受領は、丸紅の経営上極めて重要な出来事であったことになる。このルーベンス号事件については、『東京海上火災保険株式会社80年史』(1964年)、『東京海上火災保険株式会社100年史』(1982年)何れも記載があることは勿論であるが、ジャーナリスト林芳典(元「エコノミスト」編集部次長)の手による『東京海上の100年』(1979年)の記述内容が、リアリティーがあり興味を惹く(同書195ページ)。以下は、その引用。
ベルギーの船が米国大豆9000トンを積んで横浜向かって航行中、濃霧で岩礁に乗り上げた。満載の大豆には東京海上の保険が6億円かかっている。1社の保険金額としては史上最高のものだった。大豆は水に濡れると2倍半ほどにふくれ上がる。船腹の大豆が膨張したからたまらない。鋼鉄船の船腹も甲板も割れてしまうという前代未聞の事故になった。
この記述のあと、当時損害査定を担当していた宮武和雄の回想が紹介されている。これにより、船から流れ出した大豆の乾燥作業の概要がわかる。宮武等は、海岸の村で大量の筵を買い付け、1ヶ月かけて1000トンの大豆を干し上げた。残りの大豆は船とともに海中に没した。1000トンの大豆は、「格落品」として引き取る業者がいたそうだ。『東京海上火災保険株式会社80年史』、『東京海上火災保険株式会社100年史』には支払い保険金の額は5億4000万円とあり、この事故は「戦前戦後を通じ最大の損害」であったことが記されている。東京海上は、戦後いち早くロンドン、ニューヨークに再保険市場を獲得してあった。巨額の支払保険金も再保険で回収することができた。
『東京海上の100年』をはじめ東京海上サイドの文献には、ルーベンス号に積載された輸入大豆の保険契約者名(丸紅)は出ていない。丸紅側の史料と合わせ読むと、ルーベンス号事件の全貌が浮き彫りにされていく。
【参考文献】
春名和雄『生かされてきた日々-私の履歴書』(1991年、私家版)
春名和雄「私の履歴書」、『私の履歴書―経済人28』(2004年、日本経済新聞社)所収
市川忍「私の履歴書」『私の履歴書―経済人13』(1980年、日本経済新聞社)所収
『丸紅本史』(1984年、丸紅株式会社)
『東京海上火災保険株式会社80年史』(1964年、東京海上火災保険株式会社)
日本経営史研究所編『東京海上の100年』(1979年、東京海上火災保険株式会社)
『東京海上火災保険株式会社100年史』(1982年、東京海上火災保険株式会社)
(文中敬称略)
この時期、大豆相場は大暴落していた。朝鮮戦争の勃発が前年の6月25日。以後、国際商品は一挙に値上がりした。ところが、1951年に入ってから停戦の見通しが出てくると、相場は反転して暴落してしまう。3月頃から米軍が物資の購入を控え始めた。そして、7月から休戦交渉が開始する。この当時、日本の商社はシカゴ穀物取引所へのヘッジも許されず、高値で買い付けた大豆が日本で荷揚げされるときには、暴落の影響をモロに受けることになってしまう。ところが、丸紅はルーベンス号が沈没したことにより、暴落に伴う大損失を免れた。後に、丸紅の社長に就任(社長在任1983年-1987年)する春名和雄は、この大豆輸入の担当者だった。日本経済新聞に連載した「私の履歴書」(1990年12月)のなかで、春名元社長は、この「ルーベンス号事件」を回想している。ルーベンス号沈没の際、春名は千葉県・御宿(おんじゅく)の旅館に泊まりこむ。船から流れ出した大豆を拾い集め、海岸で乾かす作業をした。「もし入荷していれば大損を被ったであろう貨物だけに、我々にとってこの海難事故はむしろ救いであった」というのが春名の感懐である。
一方、ルーベンス号事件当時丸紅の初代社長であったのが市川忍(社長在任1949年-1964年)。春名和雄に先立って日本経済新聞に「私の履歴書」(1970年1月)を連載している。市川忍は、朝鮮戦争後の好景気と、その反動について、1951年(昭和26年)3月期決算では「5億円の利益を生み、5割配当するといった好調ぶり」と述べている。ところが、翌年3月期では「これまでの利益をすべてはき出しても、なお5億円の損失を出す有様」で、無配に転落したと語っている。丸紅は、このあと3期連続で無配を続ける。それだけに5億円の保険金受領は、丸紅の経営上極めて重要な出来事であったことになる。このルーベンス号事件については、『東京海上火災保険株式会社80年史』(1964年)、『東京海上火災保険株式会社100年史』(1982年)何れも記載があることは勿論であるが、ジャーナリスト林芳典(元「エコノミスト」編集部次長)の手による『東京海上の100年』(1979年)の記述内容が、リアリティーがあり興味を惹く(同書195ページ)。以下は、その引用。
ベルギーの船が米国大豆9000トンを積んで横浜向かって航行中、濃霧で岩礁に乗り上げた。満載の大豆には東京海上の保険が6億円かかっている。1社の保険金額としては史上最高のものだった。大豆は水に濡れると2倍半ほどにふくれ上がる。船腹の大豆が膨張したからたまらない。鋼鉄船の船腹も甲板も割れてしまうという前代未聞の事故になった。
この記述のあと、当時損害査定を担当していた宮武和雄の回想が紹介されている。これにより、船から流れ出した大豆の乾燥作業の概要がわかる。宮武等は、海岸の村で大量の筵を買い付け、1ヶ月かけて1000トンの大豆を干し上げた。残りの大豆は船とともに海中に没した。1000トンの大豆は、「格落品」として引き取る業者がいたそうだ。『東京海上火災保険株式会社80年史』、『東京海上火災保険株式会社100年史』には支払い保険金の額は5億4000万円とあり、この事故は「戦前戦後を通じ最大の損害」であったことが記されている。東京海上は、戦後いち早くロンドン、ニューヨークに再保険市場を獲得してあった。巨額の支払保険金も再保険で回収することができた。
『東京海上の100年』をはじめ東京海上サイドの文献には、ルーベンス号に積載された輸入大豆の保険契約者名(丸紅)は出ていない。丸紅側の史料と合わせ読むと、ルーベンス号事件の全貌が浮き彫りにされていく。
【参考文献】
春名和雄『生かされてきた日々-私の履歴書』(1991年、私家版)
春名和雄「私の履歴書」、『私の履歴書―経済人28』(2004年、日本経済新聞社)所収
市川忍「私の履歴書」『私の履歴書―経済人13』(1980年、日本経済新聞社)所収
『丸紅本史』(1984年、丸紅株式会社)
『東京海上火災保険株式会社80年史』(1964年、東京海上火災保険株式会社)
日本経営史研究所編『東京海上の100年』(1979年、東京海上火災保険株式会社)
『東京海上火災保険株式会社100年史』(1982年、東京海上火災保険株式会社)
(文中敬称略)