OLその昔
1976年(昭和51年)に発行された『三井銀行100年のあゆみ』によると、今から100年以上前の1894年(明治27年)頃、初めて女子事務員を採用した。今日のOLのルーツである。換言すれば、それまでの銀行業務は男子行員のみが遂行していたことになる。三井銀行(現三井住友銀行)における女子事務員(社史では「女子店員」と表記)の採用は大阪支店において“試験的に”行われた。発案者は高橋義雄大阪支店長。高橋は1891年に最初の“学校出”(慶応義塾)の社員として三井銀行に採用された。銀行に入る前は時事新報の記者をしていた。その当時、欧米の商業事情を調査研究し、『商政一新』という著書も書いている進取の気質を持った銀行員だ。銀行での女子の採用。これは当時としては「突飛な試み」であった。採用された女子の年齢は二〇歳前後。紙幣を数える等の業務は、1ヶ月の訓練で男子行員よりはるかに正確で敏捷という結果を得た。
三井銀行以外の他の銀行の事例を見てみよう。『第一銀行史・下巻』(1958年)には、次のような叙述があった。ちなみに、第一銀行は、現みずほ銀行の前身行のひとつである第一勧業銀行の前身行にあたる。第一銀行の設立は1873年(明治6年)。歴史と伝統がある銀行である。
○
昭和3年4月本店で女子事務員を採用して審査部の記録係を担当せしめ、爾後漸次全店に女子行員が増加していった。
一様に女子行員と言っても、高等小学校卒業者と女学校の卒業者があって、前者が女子給仕、後者が女子事務員とよばれた。給仕で入った者は、数年後に事務員に昇格することになっていた。仕事は各課の事務の補助が多かった。
○
以上から第一銀行の場合、三井銀行とは異なり、女子事務員の採用は昭和に入ってからの1928年(昭和3年)であったことが分かる。もっとも、大正時代末期に丸之内支店で例外的に少数の女子事務員を採用していた(前掲書)。なお、電話交換手については、これ以前から女子を採用していた。
次に、三菱銀行(現東京三菱銀行)のケースを見てみよう。『三菱銀行史』(1954年)によると、電話交換手、タイピスト以外の業務に関して、三菱銀行の女子採用が始まったのは、1937年(昭和12年)7月日華事変の勃発後のこと。行員の中に応召される者が増加し、人手不足が生じたことが原因となっている。すなわち、1937年(61人)以降毎年応召が続き、1941年までの5年間で累計427名に達した。解除者(162名)を差し引いても265名の男子行員の減少を見た(同書274ページ)。そこで、1939年(昭和14年)7月に「婦人事務員」の試傭が始まった。まず本部に5名、本店営業部に10名、大阪支店に5名が採用され補助的な業務に従事することになった。翌年は95名、翌々年は190名と急増していく。なお、人手不足のこの時期に「事務改善」の機運が生じ、1940年に本部に事務改善委員会が設置されたというのも興味深い。住友銀行(現三井住友銀行)の社史『住友銀行百年史』には、ちょっと面白いことが書かれている。同行では1919年(大正8年)に「女子任用規定」が制定されていた。しかし、当時は男女が机を並べて仕事することは「風紀上好ましくない」という風潮がつよく、女子の一般事務員への本格採用は見送られていた(同書172ページ)。住友銀行においても三菱銀行と同様、満州事変後に生じた人手不足の補充という要因であった。1944年(昭和19年)8月末になると、住友銀行の男子職員と女子職員の実働割合は4:6と3年前の7:3から大幅逆転をみている。この時期、女子職員に対する本格的指導教育が始まっている。戦局が傾くにつれ、女子職員が軍需工場に働きに出る。この時期、益々事務の合理化・簡素化が進むことになる。
ところで、次に紹介するのは満州事変勃発の1937年(昭和12年)に、ダイヤモンド社から出版された『ダイヤモンド実務知識』からの引用文。ただし、引用に当たっては現代仮名遣い表記に改めてある。
○
最近高等女学校卒業者が実業界に進出して、職業に従事するものが激増した。電話交換手とかタイピストとかいう女子独特の業務以外に、事務の種類性質」によっては、1・2年の熟練により、最高能率を発揮しうるものがある・・・女子が学校卒業後、結婚までの数年間を一期として絶えず交替するのも事業経営上好都合の場合がある。
○
最後の部分の表現は、あまりにも露骨で、ちょっと驚いてしまう。この時代には特に違和感なく受け入れられ考え方であったのであろう。
戦後になっても一時期までは、このような考え方が企業を支配していた。1961年に発行された上坂冬子・志賀寛子・加藤尚文著『BG学ノート』(三一書房)には、某銀行において人事担当重役が入行時にした挨拶文が紹介されている。その中に、「ここにいらっしゃるお嬢さんがたが、めでたくお嫁入りの日には、銀行としては、心から前途をお祝いして、御退行願うことを今からお約束しておきます」とある。まわりくどいが、「結婚したら辞めてもらう」という趣旨である。ちなみに、この銀行の場合、入行式は父兄同伴が原則だったようだ。おそらく、戦後といっても約50年昔の1950年代のことであろう。新憲法下における「男女同権の時代」にも、平気でこんな発言をする経営者がいたのだ。
最後に、明るい話題をひとつ。『東京銀行史』(1997年)によると、東京銀行では1970年9月から女子職員の海外勤務制度を導入した。これは同行のニューヨークや香港の支店から「業務に精通したベテランの女子行員がほしい」との要請により制度化に踏み切ったもの。所定の試験等を経て6名の初回派遣者が決まり、2年間にわたりニューヨーク、ロンドン、香港に各2名の女子職員が期間2年の限定で派遣された。1996年3月現在、類型派遣者数は292名に達したという。1996年に三菱銀行と合併し東京三菱銀行となった今日、東京銀行に始まった女子職員海外勤務制度はどうなっているだろうか。
1976年(昭和51年)に発行された『三井銀行100年のあゆみ』によると、今から100年以上前の1894年(明治27年)頃、初めて女子事務員を採用した。今日のOLのルーツである。換言すれば、それまでの銀行業務は男子行員のみが遂行していたことになる。三井銀行(現三井住友銀行)における女子事務員(社史では「女子店員」と表記)の採用は大阪支店において“試験的に”行われた。発案者は高橋義雄大阪支店長。高橋は1891年に最初の“学校出”(慶応義塾)の社員として三井銀行に採用された。銀行に入る前は時事新報の記者をしていた。その当時、欧米の商業事情を調査研究し、『商政一新』という著書も書いている進取の気質を持った銀行員だ。銀行での女子の採用。これは当時としては「突飛な試み」であった。採用された女子の年齢は二〇歳前後。紙幣を数える等の業務は、1ヶ月の訓練で男子行員よりはるかに正確で敏捷という結果を得た。
三井銀行以外の他の銀行の事例を見てみよう。『第一銀行史・下巻』(1958年)には、次のような叙述があった。ちなみに、第一銀行は、現みずほ銀行の前身行のひとつである第一勧業銀行の前身行にあたる。第一銀行の設立は1873年(明治6年)。歴史と伝統がある銀行である。
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昭和3年4月本店で女子事務員を採用して審査部の記録係を担当せしめ、爾後漸次全店に女子行員が増加していった。
一様に女子行員と言っても、高等小学校卒業者と女学校の卒業者があって、前者が女子給仕、後者が女子事務員とよばれた。給仕で入った者は、数年後に事務員に昇格することになっていた。仕事は各課の事務の補助が多かった。
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以上から第一銀行の場合、三井銀行とは異なり、女子事務員の採用は昭和に入ってからの1928年(昭和3年)であったことが分かる。もっとも、大正時代末期に丸之内支店で例外的に少数の女子事務員を採用していた(前掲書)。なお、電話交換手については、これ以前から女子を採用していた。
次に、三菱銀行(現東京三菱銀行)のケースを見てみよう。『三菱銀行史』(1954年)によると、電話交換手、タイピスト以外の業務に関して、三菱銀行の女子採用が始まったのは、1937年(昭和12年)7月日華事変の勃発後のこと。行員の中に応召される者が増加し、人手不足が生じたことが原因となっている。すなわち、1937年(61人)以降毎年応召が続き、1941年までの5年間で累計427名に達した。解除者(162名)を差し引いても265名の男子行員の減少を見た(同書274ページ)。そこで、1939年(昭和14年)7月に「婦人事務員」の試傭が始まった。まず本部に5名、本店営業部に10名、大阪支店に5名が採用され補助的な業務に従事することになった。翌年は95名、翌々年は190名と急増していく。なお、人手不足のこの時期に「事務改善」の機運が生じ、1940年に本部に事務改善委員会が設置されたというのも興味深い。住友銀行(現三井住友銀行)の社史『住友銀行百年史』には、ちょっと面白いことが書かれている。同行では1919年(大正8年)に「女子任用規定」が制定されていた。しかし、当時は男女が机を並べて仕事することは「風紀上好ましくない」という風潮がつよく、女子の一般事務員への本格採用は見送られていた(同書172ページ)。住友銀行においても三菱銀行と同様、満州事変後に生じた人手不足の補充という要因であった。1944年(昭和19年)8月末になると、住友銀行の男子職員と女子職員の実働割合は4:6と3年前の7:3から大幅逆転をみている。この時期、女子職員に対する本格的指導教育が始まっている。戦局が傾くにつれ、女子職員が軍需工場に働きに出る。この時期、益々事務の合理化・簡素化が進むことになる。
ところで、次に紹介するのは満州事変勃発の1937年(昭和12年)に、ダイヤモンド社から出版された『ダイヤモンド実務知識』からの引用文。ただし、引用に当たっては現代仮名遣い表記に改めてある。
○
最近高等女学校卒業者が実業界に進出して、職業に従事するものが激増した。電話交換手とかタイピストとかいう女子独特の業務以外に、事務の種類性質」によっては、1・2年の熟練により、最高能率を発揮しうるものがある・・・女子が学校卒業後、結婚までの数年間を一期として絶えず交替するのも事業経営上好都合の場合がある。
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最後の部分の表現は、あまりにも露骨で、ちょっと驚いてしまう。この時代には特に違和感なく受け入れられ考え方であったのであろう。
戦後になっても一時期までは、このような考え方が企業を支配していた。1961年に発行された上坂冬子・志賀寛子・加藤尚文著『BG学ノート』(三一書房)には、某銀行において人事担当重役が入行時にした挨拶文が紹介されている。その中に、「ここにいらっしゃるお嬢さんがたが、めでたくお嫁入りの日には、銀行としては、心から前途をお祝いして、御退行願うことを今からお約束しておきます」とある。まわりくどいが、「結婚したら辞めてもらう」という趣旨である。ちなみに、この銀行の場合、入行式は父兄同伴が原則だったようだ。おそらく、戦後といっても約50年昔の1950年代のことであろう。新憲法下における「男女同権の時代」にも、平気でこんな発言をする経営者がいたのだ。
最後に、明るい話題をひとつ。『東京銀行史』(1997年)によると、東京銀行では1970年9月から女子職員の海外勤務制度を導入した。これは同行のニューヨークや香港の支店から「業務に精通したベテランの女子行員がほしい」との要請により制度化に踏み切ったもの。所定の試験等を経て6名の初回派遣者が決まり、2年間にわたりニューヨーク、ロンドン、香港に各2名の女子職員が期間2年の限定で派遣された。1996年3月現在、類型派遣者数は292名に達したという。1996年に三菱銀行と合併し東京三菱銀行となった今日、東京銀行に始まった女子職員海外勤務制度はどうなっているだろうか。