読書と著作

読書の記録と著作の概要

早川和男著『居住福祉資源発見の旅』

2006-08-27 00:39:38 | Weblog
本書は日本居住福祉学会が発行を開始した「居住福祉ブックレット」シリーズの第1号として発行された。著者の早川和男氏は、1931年奈良市の生まれ。京都大学工学部建築学科卒業、日本住宅公団勤務の後、学界に入る。現在は長崎総合科学大学教授(神戸大学名誉教授)で、日本居住福祉学会会長の職にある。早川氏は、岩波新書のロングセラー『住宅貧乏物語』(1979年)、『居住福祉』(1997年)の著者。そのほか、住宅問題や居住福祉に関する多数の著書がある。“居住福祉“というコトバは、やや聞きなれないかもしれない。その意味するところは、「安全で安心できる住居は、人間生存の基盤であり、健康や福祉や社会の基礎であり、基本的人権である」というものである。

 地域社会の中には、一見すると“福祉とは無関係”と思われる場所や施設がある。例えば、東京・巣鴨の「とげ抜き地蔵」(高台寺)と参道の商店街。ここは「おばあちゃんの原宿」とよばれ、高齢者の憩いの場、交流の場である。本書では、このような場所や施設を“居住福祉資源”と定義付けする。全国各地の“居住福祉資源”の概説書、案内書というのが本書の性格であり使命でもある。写真や図版を多用しているのも本書の特色。親しみやすく、読みやすい庶民的な本である。
東京・巣鴨にある「とげ抜き地蔵」に類似の場所としては、京都・西陣の「くぎぬき地蔵」、岡山県井原市にある「嫁いらず観音院」、大分県日田市の「高塚愛宕地蔵尊」等がある。
 本書には次のような“居住福祉資源”も紹介されていた。京都市には、古い銭湯を改造してできたデイサービス施設「石川湯」や「泉涌寺湯」がある。これらの施設には、広々としたタイル張りの浴室や高い天井が、改造後もそのまま残されている。両者はともに懐かしいレトロな雰囲気を醸し出しており、高齢者たちに人気が高い。また、秋田県・JR鷹の巣駅近くには「げんきワールド」と称する施設がある。ここは元衣料品店を改装してできた市民のための談話室。散歩や買い物のついでに立ち寄り新聞を読む人、列車の待ち時間に使う人がいる。小、中、高校生が勉強する姿も見られる。この施設の特色のひとつは、車椅子用トイレが完備されていること。高齢者や身障者が自由に町を歩くためには、町内にトイレ網が完備される必要がある。トイレといえば、岡山県では306ヶ所ある交番のうち71ヶ所(2005年3月末現在)に、市民が自由に使用できる車椅子用トイレが設置されている。そのほか、無人駅の駅舎を改築してできた高齢者の憩いの場「ふれあいセンター」(鳥取県八橋駅)、岡山県笠岡市(同市には離島が多い)に誕生した日本初のデイサービス船「夢ウェル丸」の例も紹介されている。
 本書に触発されて、全国各地に様々な“居住福祉資源”が形成されていく。本書は、そのような期待をもって世に出た。“居住福祉資源”の増強により、病気や介護とは無関係の元気な高齢者が増加していくことになろう。
                      (2006年、東信社、700円+税)

日新電機社史と谷崎潤一郎

2006-08-20 23:56:52 | Weblog
 事業会社の社史に、“文学者”の名が登場することは少ないといってよかろう。気の早い人は、「そんなの、あるわけないだろう」と、おっしゃるかもしれない。しかし、早計な結論は禁物。一例をあげよう。戦前、明治生命の専務をつとめた阿部章蔵という人物がいる。そのペンネームは水上瀧太郎。文学史に残る著名な作家だ。明治生命の社史(1955年発行の『明治生命七十年史』)には、作家水上瀧太郎について言及がある。
 ここに紹介するのは『人と技術の未来をひらく 日新電機75年史』(1992年)。同書の65ページから66ページにかけて、谷崎潤一郎に関する叙述がある。谷崎潤一郎と日新電機の浅からぬ縁を説明する前に日新電機について概要を確認しておこう。日新電機株式会社の歴史は、創業期から計算すると既に100年近い。1910年(明治43年)、創業者の富澤信(電気技術者。島津製作所に勤務経験あり)が、現在の京都市東山区に日新工業社を創業したことに始まる。1917年(大正6年)4月には株式会社に改組、1937年に住友電気工業株式会社と資本・技術提携し経営基盤を固め、現在に至る。なお、同社の社名の“日新”は、中国の古典『大学』の一文から選んだもの。「少しでも新しくしようと絶え間ない努力する企業」との意味がこめられている。この点に関しては、同じく社名に“日新”を冠する上場企業である日新火災海上保険株式会社についても同様で、日本経営史研究所編『日新火災80年のあゆみ』(1988年)69ページにも同趣旨の記述がある。

 1923年(大正12年)の関東大震災を機縁に、日本橋蛎殻町生まれの「江戸っ子」谷崎潤一郎は阪神間に移り住む。最初は気質・風土の違いに違和感を持っていた谷崎であったが、年月の経過と大阪に生まれ育った松子夫人との結婚等で、関西への理解と関心を深めていく。そのような背景のもとに出来上がったのが長編小説『細雪』。昭和10年代前半の阪神間の地を舞台にしている。戦時中、岡山県津山市、次いで岡山県勝山町に疎開していた谷崎は、戦後は京都に居を構えた。もともと“転居癖”があった谷崎である。1946年(昭和21年)5月に京都市上京区寺町通、同年11月京都市左京区南禅寺下河原町、1949年(昭和24年)4月京都市左京区下鴨と転居するが、ここで転居はピタリと止まる。1956年昭和31年11月に日新電機に売却するまで転居はない。この左京区下鴨の家には7年間住んだ計算になる。谷崎が京都で購入した2軒の家は「潺湲亭」(せんかんてい)と名づけられた。両者を区別するため、南禅寺下河原町の家は「前(さき)の潺湲亭」、下鴨の家は「後の潺湲亭」と呼ぶ。
 谷崎潤一郎から「後の潺湲亭」を購入した日新電機は、現在に至るまでほぼ当時のまま保存しながら寮として使用してきた。「後の潺湲亭」は、もともと明治時代末期に寺町二条の豪商が隠居所として建てた閑静な屋敷。下鴨神社の境内に接し、岩の間から滝の流れ落ちる日本庭園がある。買い手は少なくなかったが、日新電機の役員夫人と谷崎夫人の松子さんが女学校の同窓生であったことが縁で、日新電機が譲り受けることとなった。「できればこのままの風情を維持したい」という松子夫人の意向は破られることなく、21世紀初頭の今日まで引き継がれている。正直いって、私は日新電機という会社そのものについては、良く知らないが、日新電機に連綿との反映ではないかと推察する。「潺湲亭」は、日新電機の手に渡ってからは谷崎自身によって「石村亭」(せきそんてい)と命名された。これは“潺湲”の字が難しいことから、日新電機が谷崎に依頼して改名を懇願したという背景がある。2002年4月、私は「石村亭」を見学する機会を持った。長尾半七『京の谷崎』(1971年、駸々堂)、野村尚吾『伝記 谷崎潤一郎』(1972年、六興出版)を通じて活字や写真で想像していた以上の素晴らしい異空間体験をすることができた。

偕成社の偉人伝(2)

2006-08-17 03:43:03 | Weblog
偕成社の偉人伝(2)

私が子供時代に読んだ偕成社の偉人伝のなかで、『源頼朝』一冊を除くと、残りすべては、父が選んで買ってくれた本である。『源頼朝』は、講談社世界名作全集で読んだ『源平盛衰記』との関連で、私が頼んで買ってもらった。そのように記憶している。父が、私のためにと選んだ本については、ひとつの傾向がある。40歳ごろになって、私は気が付いた。それは、偉人たちの多くが「発明者」または「発見者」であるということだ。イギリスの政治家チャーチル(父は、この人物を尊敬していた)とポルトガル*の海洋探検家マゼランを除くと、父の選択は“「発明」または「発見」をした科学者の伝記”ということになる。父は東京商科大学(現一橋大学)の卒業生で、東海電極(現東海カーボン)に勤務していた。事務系のサラリーマンとして会社での人間関係に苦労していたのだろう。そんな苦労を子供(私)にはさせたくない。わが子(私)には理科系方面に進学させ、クリエイティブな仕事をさせたい。そんな思いから偕成社の偉人伝シリーズを利用して(息子の将来の進路の)誘導を試みたのだろう。そういえば、高校入学時に、“理科系進学コース”を強く勧めたのは父であった。お陰で、高校時代の友人には医者、メーカー勤務のエンジニア、数学者等がいる。大学時代の友人とは毛色が違っていて面白い。後年、私が成人してから、父に偉人伝の人物と、(父が考えていた)私の進路このことを尋ねてみた。明言はしなかったが、私は“父の顔色”から私の推理が正しいことを確認した。この時期、私は小学生だった娘(今は、社会人になっている)に、偕成社の偉人伝『ヘレン・ケラー』を買ってやり、私自身の子供時代を思い出したのだ。もう一度、私が読んだ偉人伝のリスト(前回に掲示)を眺めていると、「発明」、「発見」以外に、別のキーワードが浮かび上がってくる。それは「富豪」という単語である。該当するのは、エジソン、ノーベル、フォード。もしかしたら、ディーゼルや高峰譲吉も「富豪」に属するかもしれない。息子(私)が金持ちになり、父が楽をする。このような将来展望を父は持っていたのだろうか。何れにせよ「父の期待」は、裏切られる。
私は、高校3年の1学期に、理科系志望から文科系に変更した。結局、父の母校と縁の深い旧制商大系の神戸大学経済学部に進学する。「大学では経済地理学を勉強しよう。同時にスペイン語を学び“南米の経済地理”に関する卒業論文を書く」というのが大学入学時に決めた方針だ。学者になる気はない。商社に就職しようと思った。第2外国語を選ぶにあたっては、ドイツ語はやめて、フランス語を選択した。スペイン語をやるためには、同じラテン系のフランス語を選ぶ方が便利だと考えたからだ。
本稿を執筆中に、偕成社偉人伝シリーズ著者として活躍した沢田謙についての情報を得た。最近、神戸の一栄堂書店から送ってきた古書目録(2006年5月号、29ページ)の中に、戦前期の沢田謙の著作2冊を発見した。何れも伝記で、書名は『ヒットラー伝』(1934年、講談社)、『ムッソリーニ伝』(1935年、同)。古書価は3,000円と2,000円。ヒットラーの方が1,000円高い。沢田謙は、戦前にこのような本を書いていたのだ。チョット驚いた。まるで、戦犯岸信介が戦後総理大臣のポストに就いたようなものだ。そう表現したら、少々誇張となるかもしれない。

武蔵野うどん”を訪ねて ―東村山市諏訪町「きくや」―

2006-08-17 03:11:52 | Weblog
時々立ち寄る立川市のオリオン書房で『多摩の蕎麦、うどん 名店77』(2002年、けやき出版)を購入した。定価は1500円+税、100ページ余の薄い本。しかし、ほぼ全ページに蕎麦やうどんの美しいカラー写真を配した楽しい本である。この本を買った動機は、その前日に(東京都)東村山市にある手打ちうどんの店「きくや」を訪れたことにある。私の住まいの最寄り駅は、西武鉄道国分寺線鷹の台駅。「きくや」の名は、毎月発行される西武鉄道の広報誌「西武沿線ニュース」2006年6月号で知った。東村山駅は、西武鉄道国分寺線の終点。鷹の台駅から2つ目の駅である。「土曜日の昼食にうどんを食べよう」そんな軽い気持ちで妻とともに出かけてみた。東村山の北山公園には170種十万本の花菖蒲が咲く菖蒲園がある。6月3日から18日は「菖蒲まつり」が開かれていた。
「きくや」を訪れたのは6月17日(土)。西武鉄道のPRが効を奏したのか、11時30分を少し過ぎた時刻なのに、「きくや」の前にはお客が4人ばかり並んでいる。並ぶこと約10分、ようやく店内に入れた。10人が座れるカウンターと小上がりに4人掛けの座卓が3つ。都合22人が定員だ。メイン・メニューは肉汁うどん。野菜のてんぷら(玉葱、人参等)付の冷たいうどんを豚肉の入った暖かいつけ汁で食べる。薬味として添えられた小皿にゆでた小松菜があり、この店の良心を感じた。この点に関しては、同行の妻も同意見だった。つけ汁は、鰹節がベースで、「つけ麺うどん」と称するようだ。この「つけ麺うどん」は、“武蔵野うどん”の代名詞ともいえる(「西武沿線ニュース」)由。では“武蔵野うどん”とは何だろうか。「きくや」では麺玉の量によってL、LL、LLLといった記号が使われている。うどんは、やや細め。腰が強いわけではない。色は、薄い茶色。LLを注文して、てんぷら付で600円。味、量を勘案して満足だった。特筆すべきは、つけ汁を入れる容器。太目の竹を輪切りにして作ったものだ。ところで、東村山市には「きくや」は2軒ある。私が行ったのは、諏訪町店。『多摩の蕎麦、うどん 名店77』で紹介されていたのは廻田町店で、メニューや竹筒の容器も共通のようだ。
『多摩の蕎麦、うどん 名店77』の巻末の解説によると、東京多摩地区には“武蔵野うどん”の文化が脈々と流れているそうだ。一般に関東の蕎麦、関西のうどんといわれている。その例外と考えればよいのだろう。15年以上も小平市(前身は北多摩郡)に住みながら、“武蔵野うどん”のことは知らなかった。この地は米作に適さないので小麦、粟、稗等を食し、農家では祝い事などの際にうどんを打つ。そんな生活をしていた。これが、“武蔵野うどん”のバックグランドである。江戸時代から戦後の一時期まで、そんな雰囲気が残っていたらしい。これが、21世紀初頭の今日に、小平、東村山、清瀬、国分寺各市(以上東京都)や埼玉県西南部の所沢市に残る“武蔵野うどん”の店に引き継がれているようだ。