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十勝沖地震ー昭和27年

2009-04-12 08:19:06 | Weblog
十勝沖地震ー昭和27年

 ”十勝沖地震”は、北海道の十勝地方の沖合を震源として起こる地震。十勝沖では、過去に数回大きな地震が発生、”十勝沖地震”の名称が付けられている。記憶に新しいところでは、2008年9月11日(震源:北海道襟裳岬東南東沖、M 7.1、最大震度5弱(暫定値))や、2003年9月26日(震源:十勝沖、M7.1 、震度6弱)の”十勝沖地震”がある。

 ここに紹介するのは、1952年(昭和27年)3月4日午前10時22分44秒に発生した“十勝沖地震”。震源地は、北海道襟裳岬東方沖約50km 、M8.2、震度6の地震であった。この地震は、北海道南部と東北地方北部に被害をもたらしている。地震のあとに、北海道から関東地方にかけての太平洋沿岸に津波が襲来した。特に、道東の厚岸湾・浜中湾では、津波が沿岸の流氷を砕き、氷片が陸地に押し寄せた。このため、家屋や漁船、ノリ・コンブ・カキ等の養殖施設に多大の損害をもたらす。地震による被害が特に大きかったのは、十勝川・大津川下流域等の泥炭地帯。大津、浦幌、豊頃では、家屋の全半壊率が50%を超えた。死者は33人。家屋全壊815戸、家屋半壊・破損7719戸、家屋流失91戸、家屋浸水328戸という被害状況であった。また、船舶の被害が451隻に達した。牧場にあるサイロも破損または倒壊する。サイロの全壊90、中壊156、亀裂104といった状況であった。鉄道の被害も大きい。特に橋梁の損壊が多く、古い設計で下部構造がレンガ造のものの被害が大きかった。

高さ3メートルの津波が厚さ1メートル以上の流氷を押し上げてきて沿岸を襲う。このタイプの災害は前例がない。3月6日付朝日新聞では、「暴威振った流氷 霧多布 一瞬、津波にのまる」のタイトルで、流氷による被害をやや詳しく報じている。厚岸郡浜中村霧多布地区は全600戸のうち半数が流失または浸水した。流氷により家屋の柱は折れ、戸には穴があく。被災の翌日の午後になっても地区の中央の道路は腰まで水に浸かるという状態、冷たい海水には氷が混じる。この地区には、救援物資として米軍機から毛布900枚が投下されたことも報じられている。
たまたま、この地震の前日が1933年(昭和8年)の大津波を伴った三陸沖地震の記念日にあたった。三陸沖地震の被災地では、これに因んだ防災訓練を実施していた。そのために、津波予報が有効に機能し、被害を軽減することが出来たという。
なお、“十勝沖地震”は、1968年(昭和43年)5月16日にも発生している。この地震の震源地は、北海道襟裳岬東南東沖120km。M7.9、震度5の規模の地震であった。函館市、苫小牧市、浦河町、広尾町(以上北海道)のほか、青森、岩手両県にも被害をもたらした。

【参考文献】
力武常次・竹田厚監修『日本の自然災害』1998年、国会資料編纂会
十勝沖地震ー昭和27年


佐藤竜一著『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』

2009-04-03 14:31:21 | Weblog
佐藤竜一著『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』

 本書の著者である佐藤竜一(さとう・りゅういち)氏は、1958年岩手県の生まれ。法政大学法学部を卒業後、岩手県の郷土出版物の編集のかたわら、日本、中国の近現代史、宮沢賢治についての執筆活動をつづけている。主な著書に『盛岡藩』(現代書館)、『世界の作家宮沢賢治』(彩流社)等、共著に『帆船のロマン』(日本エスペラント学会)がある。
 「雨ニモマケズ」、「注文の多い料理店」、「風の又三郎」、「どんぐりと山猫」等々、時代は移り変わっても、宮沢賢治(1896ー1933)の残した詩や童話の数々は日本のロマンの、ひとつの到達点を教えてくれる。花巻農学校教師、羅須地人協会を設立した農民芸術運動家としての賢治はよく知られている。しかし、肥料の炭酸石灰、建築用壁材料のセールスマンとして、東へ西へと駆け回っていた最晩年近くの姿はあまり知られていない。本書の著者は、賢治が残した膨大な書簡から、オロオロと歩きながらも、生活者として必死に生きようとしたサラリーマン賢治像を浮かび上がらせる。文学者宮沢賢治とは、一味違ったサラリーマン、そして文学とは程遠いと思われているセールスマンをしていた宮澤賢治に関する話題を本書は提供してくれる。
 賢治は、旧制盛岡中学時代から、”鉱物”に対する関心が強かった。遠足に行くときなどは、必ず愛用の金槌を身につけていた。標本を採るためである。当時から賢治の部屋は、採集した岩石や化石の標本で一杯だった。そんな賢治は、家族から愛情を込めて「石っこ賢さん」と呼ばれていたという。賢治は、1915年(大正4年)に現在の岩手大学農学部の前身校である盛岡高等農林学校に進学する。卒業後も、研究生として残り土性調査に取り組む。土性調査というのは、どの植物がどの土地に適するかを調べるもの。花巻市郊外を流れる豊沢川流域一帯の路線地質図が現在でも残されている。地層や岩石の分布、地層や断層に関する測定値等が細かく記されているという。賢治の調査の成果は『岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書』として纏められ、そこでは「田畑のほとんどが酸性土で、石灰質の足りない病気体質」と指摘されている。この調査は、賢治の次の仕事である花巻農学校教師(1921年12月ー1926年3月)、その次の仕事の東北砕石工場の技師としての仕事に大いに役立つ。
 花巻農学校教師を辞めた賢治は、1926年8月に羅須地人協会を設立する。農民の生活向上のために芸術を取り入れよう。そのような目的があった。羅須地人協会の建物内にはオルガン教室があった。また、ここでは土壌学の講義がおこなわれた。レコードコンサートも開かれたようだ。賢治が上京して、チェロやエスペラントを習う。そのような行為も軌を一にしたものである。
 1929年(昭和4年)、東北砕石工場の創設者の鈴木東蔵が、賢治に手紙を出す。鈴木東蔵は石灰石粉の販売を開始しようとしていて、この分野での専門家である賢治に助力を求めて来たのだ。翌年、賢治は東北砕石工場の技師の辞令を受け給料を貰い、同社の肥料用炭酸石灰の販売に着手する。セールスに当たっては、盛岡高等農林学校や花巻農学校時代の人脈が生きる。また、岩手県農業試験場、岩手県を中心とした東北各地の販売店を巡回する。本書には、セールスマンとして奔走する賢治、猛烈サラリーマンの賢治の姿が描かれている。賢治は、自身にノルマを課した。また、自腹を切っての営業もしたようだ。
                                        (2009年、集英社新書、680円+税)