読書と著作

読書の記録と著作の概要

『働きすぎの時代』

2005-09-24 22:29:11 | Weblog
本書の著者森本孝二は、関西大学経済学部教授。専門は株式会社論、企業社会論、労働時間論である。これら三つの専門分野は、一見無関係かのように見える。しかし、本書のテーマ「働きすぎ」は、これら専門分野の何れにも大いに関係が深い。

本書は今日の社会を「働きすぎ」というキーワードで多角的。実証的に分析している。このため説得力があり、かつユニークな啓蒙書となっている。過労死が社会問題とされるようになってから久しい。2002年1月、『オックスフォード英語辞典』のオンライン版に、新語「karoshi」が新たに登録されたとのこと(本書27ページ)。この単語は、もちろん日本語の「過労死」から来ている。過労死の背後には、残業手当なしで仕事をする、所謂サービス残業が存在する。最近では、残業手当不払いの企業が公表されるようになった。中部電力、東京電力のように、っその総額が60億円以上に達するケースもある。サービス残業がやりにくくなると、企業の側は早朝出勤を強いるようになる。昨年、ある経済雑誌が早朝出勤する社員の列を捉えた写真を掲載して「早朝出勤」の告発を行っていたことを思い出した。
休日もなく、早朝から深夜まで働き続けるIT技術者。外食産業やコンビにで深夜労働するパート社員やフリーターたち。連日の超過労働勤務にもかかわらず高速道路を猛スピードで走る長距離トラック運転手。そして、死者が多数出る高速道路上での悲惨な大事故。午後8時の消灯後、パソコンの光で密かに残業を続ける社員たち。大学教授として学生を教育し社会に送り出す。これは著者の仕事であり氏名でもある。ところが、卒業生たちは”企業戦士”として働きすぎの世界に埋没、家庭・家族を犠牲にし、健康を害し、ひいては心の健康(例えば、鬱病)までも害してしまう。恐らく、そんな身近な危機感もあったに違いない。全編に、著者の怒りと苦悩が感じられる。人口が減る、若年者がなかなか結婚しない(結婚できない)、フリーターやニートが増加する、高速道路での居眠り運転による死傷者続出。そして、福知山線の脱線事故もJR西日本の収益第一のスピード競争や余裕のないダイヤ編成だけが原因ではなく、それを肯定した利用者の側にも「働きすぎ」の問題が横たわっていたと著者は指摘する。一刻も早く職場に到着したい、遅刻すると会議や商談に遅れ、ひいては人事評価に響く。そう考えて、鉄道会社に無理なダイヤ編成や定時発車を無言のうちに強いてきたのではなかろうか。そうなると、止んでいるのは、一人の従業員、一会社だけでなく”社会全体”ということになろう。
著者は、以上のように容赦なく拡大する「働きすぎ」の原因を解明し、それに一定の歯止めをかけなければならないという立場にたつ。最後の終章(働きすぎにブレーキをかける)では、働きすぎの結果として生じる数々の問題点と弊害をとりまとめ、?そのうえで「働きすぎの防止の指針と対策」として具体的な提案を行っている。これらの提言は、?労働者、?労働組合、?企業、?法律と制度の4者それぞれの立場からの提言となっている。
(二〇〇五年、岩波新書、七八〇円+税)

OLその昔

2005-09-24 11:43:22 | Weblog
OLその昔

1976年(昭和51年)に発行された『三井銀行100年のあゆみ』によると、今から100年以上前の1894年(明治27年)頃、初めて女子事務員を採用した。今日のOLのルーツである。換言すれば、それまでの銀行業務は男子行員のみが遂行していたことになる。三井銀行(現三井住友銀行)における女子事務員(社史では「女子店員」と表記)の採用は大阪支店において“試験的に”行われた。発案者は高橋義雄大阪支店長。高橋は1891年に最初の“学校出”(慶応義塾)の社員として三井銀行に採用された。銀行に入る前は時事新報の記者をしていた。その当時、欧米の商業事情を調査研究し、『商政一新』という著書も書いている進取の気質を持った銀行員だ。銀行での女子の採用。これは当時としては「突飛な試み」であった。採用された女子の年齢は二〇歳前後。紙幣を数える等の業務は、1ヶ月の訓練で男子行員よりはるかに正確で敏捷という結果を得た。

三井銀行以外の他の銀行の事例を見てみよう。『第一銀行史・下巻』(1958年)には、次のような叙述があった。ちなみに、第一銀行は、現みずほ銀行の前身行のひとつである第一勧業銀行の前身行にあたる。第一銀行の設立は1873年(明治6年)。歴史と伝統がある銀行である。
                    ○
昭和3年4月本店で女子事務員を採用して審査部の記録係を担当せしめ、爾後漸次全店に女子行員が増加していった。
一様に女子行員と言っても、高等小学校卒業者と女学校の卒業者があって、前者が女子給仕、後者が女子事務員とよばれた。給仕で入った者は、数年後に事務員に昇格することになっていた。仕事は各課の事務の補助が多かった。
                    ○
以上から第一銀行の場合、三井銀行とは異なり、女子事務員の採用は昭和に入ってからの1928年(昭和3年)であったことが分かる。もっとも、大正時代末期に丸之内支店で例外的に少数の女子事務員を採用していた(前掲書)。なお、電話交換手については、これ以前から女子を採用していた。
次に、三菱銀行(現東京三菱銀行)のケースを見てみよう。『三菱銀行史』(1954年)によると、電話交換手、タイピスト以外の業務に関して、三菱銀行の女子採用が始まったのは、1937年(昭和12年)7月日華事変の勃発後のこと。行員の中に応召される者が増加し、人手不足が生じたことが原因となっている。すなわち、1937年(61人)以降毎年応召が続き、1941年までの5年間で累計427名に達した。解除者(162名)を差し引いても265名の男子行員の減少を見た(同書274ページ)。そこで、1939年(昭和14年)7月に「婦人事務員」の試傭が始まった。まず本部に5名、本店営業部に10名、大阪支店に5名が採用され補助的な業務に従事することになった。翌年は95名、翌々年は190名と急増していく。なお、人手不足のこの時期に「事務改善」の機運が生じ、1940年に本部に事務改善委員会が設置されたというのも興味深い。住友銀行(現三井住友銀行)の社史『住友銀行百年史』には、ちょっと面白いことが書かれている。同行では1919年(大正8年)に「女子任用規定」が制定されていた。しかし、当時は男女が机を並べて仕事することは「風紀上好ましくない」という風潮がつよく、女子の一般事務員への本格採用は見送られていた(同書172ページ)。住友銀行においても三菱銀行と同様、満州事変後に生じた人手不足の補充という要因であった。1944年(昭和19年)8月末になると、住友銀行の男子職員と女子職員の実働割合は4:6と3年前の7:3から大幅逆転をみている。この時期、女子職員に対する本格的指導教育が始まっている。戦局が傾くにつれ、女子職員が軍需工場に働きに出る。この時期、益々事務の合理化・簡素化が進むことになる。
ところで、次に紹介するのは満州事変勃発の1937年(昭和12年)に、ダイヤモンド社から出版された『ダイヤモンド実務知識』からの引用文。ただし、引用に当たっては現代仮名遣い表記に改めてある。
                 ○
最近高等女学校卒業者が実業界に進出して、職業に従事するものが激増した。電話交換手とかタイピストとかいう女子独特の業務以外に、事務の種類性質」によっては、1・2年の熟練により、最高能率を発揮しうるものがある・・・女子が学校卒業後、結婚までの数年間を一期として絶えず交替するのも事業経営上好都合の場合がある。
                 ○
最後の部分の表現は、あまりにも露骨で、ちょっと驚いてしまう。この時代には特に違和感なく受け入れられ考え方であったのであろう。
戦後になっても一時期までは、このような考え方が企業を支配していた。1961年に発行された上坂冬子・志賀寛子・加藤尚文著『BG学ノート』(三一書房)には、某銀行において人事担当重役が入行時にした挨拶文が紹介されている。その中に、「ここにいらっしゃるお嬢さんがたが、めでたくお嫁入りの日には、銀行としては、心から前途をお祝いして、御退行願うことを今からお約束しておきます」とある。まわりくどいが、「結婚したら辞めてもらう」という趣旨である。ちなみに、この銀行の場合、入行式は父兄同伴が原則だったようだ。おそらく、戦後といっても約50年昔の1950年代のことであろう。新憲法下における「男女同権の時代」にも、平気でこんな発言をする経営者がいたのだ。
最後に、明るい話題をひとつ。『東京銀行史』(1997年)によると、東京銀行では1970年9月から女子職員の海外勤務制度を導入した。これは同行のニューヨークや香港の支店から「業務に精通したベテランの女子行員がほしい」との要請により制度化に踏み切ったもの。所定の試験等を経て6名の初回派遣者が決まり、2年間にわたりニューヨーク、ロンドン、香港に各2名の女子職員が期間2年の限定で派遣された。1996年3月現在、類型派遣者数は292名に達したという。1996年に三菱銀行と合併し東京三菱銀行となった今日、東京銀行に始まった女子職員海外勤務制度はどうなっているだろうか。

『大正デモグラフィー歴史人口学で見た狭間の時代』

2005-09-24 11:40:25 | Weblog
速水融・小嶋美代子著『大正デモグラフィー歴史人口学で見た狭間の時代』

デモグラフィ(demography)とは、出生・死亡・移動などの人口統計、あるいは人口の研究を指す言葉。本書は速水融(はやみ・あきら、慶應義塾大学教授を経て麗澤大学教授)・小嶋美代子(こじま・みよこ、慶應義塾大学国際センター勤務)という二人の歴史人口学者の手による「大正時代と人口」のテーマを追ったユニークな本である。明治と昭和に挟まれた僅か十年余の期間。それが大正という時代だ。しかし、この時代には第一次世界大戦があり、それを期に行ったシベリア出兵(大正七年から十一年、日本人の死者数三五〇〇人)、スペイン風邪(大正七年から九年、日本人の死者数約三十九万人)、関東大震災(大正十二年、死者数約十四万三千人)と多数の人口が失われている。また、当時は結核による死亡者も多かった。特に劣悪な労働条件で働く紡績女工の中から結核による死亡者が多く出た。工場内に浮遊する塵埃。そして、ひとつの部屋に多数の女工が寝起きする寄宿舎生活。これらが、紡績女工のあいだに肺結核が蔓延した主な原因である。
本書の第六章(百二十ページから百四十ページ)では、スペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)の流行を扱っている。昨年のSARS禍、そして今年の鳥インフルエンザの流行等で想起されるのがスペイン風邪。しかし、スペイン風邪について手軽読め、まとまった文献は入手しにくかった。そういう意味で本書の登場は時宜を得たものである。スペイン風邪が世界中で猛威を振るったのは一九一八年(大正七年)から一九二〇年(同九年)にかけてのこと。第一次世界大戦の終局時期、西部戦線で戦っていたドイツ軍がインフルエンザに襲われた。ドイツ軍だけではない。西部戦線に兵を送ったアメリカでもインフルエンザが猛威をふるい、アメリカ軍の死者約五万人のうち八〇%がインフルエンザによる死亡といわれている。インフルエンザはヨーロッパ各国に広がり、更にグローバル化する。このインフルエンザに“スペイン”の国名が冠された理由。それは、スペイン国王アルフォンソ十三世がインフルエンザのため病床に伏し、八百万人ものスペイン国民が罹患したからだという。世界中でいったい何人がスペイン風邪で死亡したのだろうか。このことについて著者たちは二千万人から四千五百万人の間と推計している(一二七ページ)。日本人の死者数約三十九万人とともに、これらの数字のあまりの大きさには驚いてしまう。本書は、スペイン風邪についての正しい認識の必要性をしみじみと感じさせてくれる参考資料だ。ちなみに、スペイン風邪が原因で死亡した人物として有名なのが島村抱月(一八七一-一九一八)。松井須磨子(一八八六-一九一九)は、翌年に島村抱月の後を追って自殺した。また、スペイン風邪を扱った文学作品としては武者小路実篤著『愛と死』がある。小説の主人公である村岡の恋人夏子は、スペイン風邪で死ぬ。村岡は、そのことをヨーロッパ(パリ)から船で帰国中、香港の近くで知る。
(二〇〇四年・文春新書・七二〇円+税)



『「震度7」を生き抜く -被災地医師が得た教訓』

2005-09-24 11:38:15 | Weblog
田村康二著『「震度7」を生き抜く -被災地医師が得た教訓』

二〇〇五年三月に祥伝社新書の第一弾五冊が刊行された。本書はその第三番目として刊行されたものである。著者田村康二(たむら・こうじ)は、一九三五年新潟県の生まれ。新潟大学医学部卒業後母校の助教授を経て、山梨医科大学(現山梨大学医科部)教授となり、二〇〇一年からは新潟県長岡市にある立川メディカルセンターをつとめ現在に至る。
本書には、大きく分けて二つの特色がある。第一は、著者が“医師”であるという立場から書かれている点。情緒的、または精神論的な地震対策を提唱することなく、あくまでも科学的スタンスを貫く。これが著者の態度だ。第二は、著者が「震度七の地震を二度経験した」点。著者は、一九六四年の新潟地震、昨年の新潟県中越地震をともに身をもって体験した。本書の帯には、「被災者として、医師として、生き抜く“知恵”を伝えたい」と記されている。本書は、体験者にしか書けない、稀有で切実な詳細現地報告である。
以上のような背景から、防災グッズの紹介も具体的だ。例えば、「防災シート」という商品がある。これは、長めの座布団のような形をしていて、ファスナーを開くと防災ズキンとしても使用できる。この「防災シート」を平時はクッション代わりに自家用車に積んでおく。または、玄関に置いておく。これで、万一の地震に備えることができる。著者のスタンスで感心するのは、この「防災シート」を購入するための問い合わせ先(メーカー名、FAX番号)が、明記されていることである(五十九ページ)。他の商品、例えばアウトドア用組立洋式トイレについても、同様に連絡先が記載されている(九十三ページ)。
トイレについて続けよう。女性の被災者の中には、近くにトイレがないので、我慢する。または、水をなるべく飲まないようにする。そんなケースが多かった。その結果が、エコノミー症候群を引き起こしてしまう。新潟県中越地震では、地震発生後車の中で窮屈な生活を続け、その結果としてエコノミー症候群が原因で死亡した人が八人も出たという。長時間座りっぱなしでいると、足に血栓ができる。これが、何かの拍子に外れて血流により運ばれ、流れ流れて肺動脈を詰まらせてしまう。恐ろしいことである。地震の後のトイレ事情の悪さを考慮すると、男性用として尿瓶、女性用として大人用のオムツを用意しておくとよい。そんなアドバイスもある(九十二ページ)。そのほか、医師の手による本らしく、窒息した人、出血・火傷の応急手当等の実用的な知恵も多数例示されている。
新潟県中越地震が起きる前の一九九六年に長岡市が外部機関に委託して震災シミュレーション行った。その概要が本書に紹介されている。しかし、そのシミュレーションは、一般市民レベルまでには公表されなかった。この点に関して著者は長岡市長を鋭く批判する。この点に関しては科学者らしく、舌鋒鋭い。著者のスタンスに読者は共感を持つであろう。ちなみに、長岡市は著者の居住地でもある。一方、英断をもって、全県下の断層の位置を県民に開示した山梨県の事例も紹介している。全編を通じて、著者のもつ合理性と気骨と被災者に対する暖かい目が感じられる。
(二〇〇五年、祥伝社新書、七四〇円+税)

『下流社会』

2005-09-24 10:19:59 | Weblog
三浦展『下流社会』(2005年、光文社新書)を読む。階層格差が広がる中、「上流社会」や「中流社会」ではなく、「下流社会」と目される階層の人々、特に焼く年層にスポットを当て分析したユニークな本。その日、その日を気楽に生きる。好きな事だけしてイキタイ。お菓子やファーストフードをよく食べる。一日中、テレビゲームやインターネットをして過ごす。そして、未婚(男性で33歳以上、女性で30歳以上)。これが、「下流社会」に属する男女のイメージである。彼らの商業はフリーターや派遣社員。パラサイトの場合も多い。この本の描く世界は、森永卓郎の『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)の世界と重なる。いや、最近になって森永卓郎は、その”年収300万円”すら、下降気味と指摘し始めている。ますます、貧富の差が激しくなったということだ。学生運動華やかなりし1970年代ごろまでなら”革命だ”と叫ぶ若者も多かったかもしれないが、いまやそんな元気はなさそうだ。なお、森永卓郎は、ビンボーを主題にした著書を連発、いまや年収3000万円以上(28ページ)というのには、恐れ入った。