9月5日、K君来る。近々東洋経済新報社からマーケティングの本を出す。書評を頼まれる。出版記念パーティも開くそうだ。
読書会用として、モーパッサン『脂肪のかたまり』のノートの準備をする。
以下は、そのメモの一部。
モーパッサン(Guy de Maupassant、1850-1893)『脂肪のかたまり』(BOULE DE SUIF)
をめぐって
普仏戦争と日露戦争
エッフェル塔
ドーデー「最後の授業」
馬車、鉄道、自動車
新聞(小説)
田山花袋、夏目漱石、森鴎外、永井荷風
1.『脂肪のかたまり』
『脂肪のかたまり』(2004年、岩波文庫)はゾラを中心とした6人の著者による短編集『メダン夜話』(1880)の中に収録された。メダンというのはパリ郊外の地名。そこにゾラの別荘があった。『メダン夜話』に収録された作品は、何れも普仏戦争(1870-71)がテーマ。『脂肪のかたまり』は、モーパッサン(当時30歳)の文学上の師であるフロベールに絶賛される。以後、モーパッサンは作家として活躍。『女の一生』(1883)、『ベラミ』(1885)、『ピエールとジャン』(1888)といった長編小説のほか、「ジュール叔父さん」(1883)、「首飾り」(1884)、「小作人」(1886)等おびただしい数の短編小説を残す。短編小説は、「ゴーロワ」(多い)、「フランス時報」、「フィガロ」(付録)等の新聞に掲載されている。1930年代にロマン主義文学が花咲き、新聞小説がさかんになる。新聞という媒体は、小説家たちの重要な発表の場であり、新聞により小説家の生活が保障された。このような時代に、モーパッサンは、うまく乗れた訳である。モーパッサンは1893年に42歳で死去する。自殺をはかり精神病院での死。悲惨な最後だった。モーパッサンが、作家として活躍した期間は10年余に過ぎない。後世に名を残したと文学者。しかも、短い期間に膨大な作品を残した。この点で、夏目漱石を思い出さざるを得ない。
2.夏目漱石(1867-1916)
1900年10月から1902年12月にかけてロンドンに留学。ホトトギスに『我輩は猫である』の連載開始が1905年、日露戦争に沸く世相が取り入れられている。夏目漱石が死去したのは1916年。約10年の作家生活の間、『坊ちゃん』、『三四郎』、『こころ』等多数の作品を残す。『三四郎』(1908)では、日露戦争(1904-1905)に勝った日本の将来に“負”の予測を行っている。
3.田山花袋(1871-1930)
父は警察官、西南の役で戦死。このため、向学心がありながら、正規の学校教育が受けられなかった。若い頃、丸善でモーパッサンの短編集(英訳)に出会う。日露戦争に従軍体験をもち、「一兵卒」は、脚気で死ぬ一兵士が主人公(この兵士は森鴎外に殺されたともいえないことはない)。
『蒲団』(1907)、「一兵卒」(1908)では、モーパッサンの作品の影響が見られる(「小作人」、『脂肪のかたまり』)。『東京の十年』(1917年)に、若い頃日本橋丸善の洋書売場でモーパッサンの短編(英訳)を購入したときの喜びが記されている。なお、『東京の十年』は、講談社文芸文庫の一冊として1988年に刊行された。
4.永井荷風(1879-1959)
1903年から米国に外遊。1907年にフランスに渡り、同年7月から翌年3月と短期間ではあるが横浜正金銀行リヨン支店に勤務した。翌1908年にフランスから帰国している。帰国後の1904年、『ふらんす物語』を発表するが、発売直前に発禁となった。この本を21世紀初頭の今日読むと“富国強兵”よりも“享楽”を求める国民が増える虞があるとおもい、当局の判断は時代を反映していたものして理解できる。『ふらんす物語』(1978年、新潮文庫)には、「椿姫」(p.106)、「カバレリアルスティカーナ」(p.192)等の言及がある。当時のフランスは、馬車の時代から自動車の時代への移行期。都会には馬車、電車、乗合馬車、自動車が混在して走っていた(p.177)。サンテグジュペリは、1900年、リヨンの生まれ。従って、永井荷風とサンテグジュペリは、同じリヨンの街角で、出会っていたかもしれない。
5.『脂肪のかたまり』と普仏戦争
『脂肪のかたまり』(1880)は、普仏戦争(1870-71)、ルアンからルアーブル(最終目的地)に向かう途上の馬車の中、宿屋滞在中の出来事が物語化されている。この地域はすでにプロシャ軍に占領されていた。乗合馬車が主要な交通手段であったからこそ、この物語は成立する。この時代、既に新聞は庶民の生活に溶け込んでいる。物語では、馬車の中での食事に古新聞を使用するシーンがある。
富める人、地位の高い(高かった)人、戦争で負けた国の人、人間としての娼婦、プロシャの軍人、俗物、職業差別、戦争の愚、兵士の苦しみ、戦勝国兵士への迎合等様々なテーマが語られている。
【脱線】「カバレリアルスティカーナ」(マスカーニ作曲、1890年初演)は、イタリア、シチリア島が舞台。美しい間奏曲で知られているが、不倫と決闘がテーマの物語。決闘する二人の男のうち一人は馬車屋。もう一人は復員兵。
普仏戦争をテーマとした文学作品としては、ドーデー「最後の授業」が広く知られている。日本では、小中学校(日本語)や大学(フランス語)のテキストとして使用されてきた。普仏戦争後の1873年、ドーデーは短編集『月曜物語』(岩波文庫)を発表、その中に「最後の授業」が入っている。普仏戦争の結果、ドイツ(戦争中、プロシャ王国を中心とした統一国家ドイツ帝国が誕生)に割譲されたアルザス地方が舞台。なお、クラウゼヴィッツの『戦争論』は、プロシャを勝利に導いた戦略書。哲学書の色彩もあり難解。森鴎外は小倉に左遷された時期(1899年6月から1902年3月)、『戦争論』を翻訳した。鴎外を小倉に転勤させたのは、(左遷でなく)日露戦争の準備のために『戦争論』を翻訳させることが目的という説がある。日露戦争では、脚気のための死者が戦傷による死者を上回った。森鴎外は、翻訳などに傾注せず、脚気の研究を深め、自説(細菌説)を早く撤回すべきであった(野次馬的批判)。なお、わが国が日露戦争(1904年-1905年)に勝利したのは、クラウゼヴィッツの『戦争論』によるかどうかは、実証不可能ではあるが。
5.モーパッサン(M)とドーデー(D)
モーパッサン(M)とドーデー(D)は同時代を生きた。生まれは、北仏ノルマンディー地方(1850年、M)、南仏プロヴァンス地方のニーム(1840年、D)と異なる。しかし、二人とも普仏戦争に従軍し、その体験を踏まえた文学作品を残す。『脂肪のかたまり』(M)、「最後の授業」(D)は、ともに遥か極東の国日本でも永らく読み継がれてきた。なお、この物語を読んでいると、疑問に突き当たる。アルザスの住人たちはフランス語を満足に習得していない。彼等は、ドイツ語を話していたのだろうか。その答えは・・・。
6.エッフェル塔とモーパッサン
エッフェル塔が建設されたのが1889年。普仏戦争で負けたドイツを見返してやろうという国民的(政治的)野望の実現化のシンボルでもある。EIFFELEというのは、設計者の名。曽祖父の代にドイツ領だったアルデンヌ地方からパリにきた。フランス風の読み方にするため、ドイツ風の姓EIFELEに“F”を加えた。パリ万博に合わせて建てられ、万博終了後数年後には、取り壊しになる筈だったといわれている。このエッフェル(ギュスタブ・エッフェル、1832-1923)という技術者は、元来腕利きの鉄道技師。フランスだけでなく、ポルトガル、ハンガリー、ベトナム等にエッフェルによる鉄橋が建設され100年以上の歴史を越えて現存している。19世紀にフランスに鉄道網が出来上がっていった。その時代にエッフェルは才能を発揮した。エッフェル塔は、鉄橋が縦に立っているイメージと見られるのは、以上のような背景がある。なお、ニューヨークの自由の女神の内部の鉄骨部分はエッフェルの設計。また、パナマ運河建設にも関係した。当時のフランスのチャンピョンといわれる人物だった。エッフェル塔の下部には、目立たないが胸像がある。以上は、主として倉田保雄『エッフェル塔ものがたり』(1983年、岩波新書)による。
エッフェル塔建設に当たってはモーパッサンをはじめ多数の文化人が猛反対する。デュマ(息子)、グノー等とならんでモーパッサンもその一人だった。しかし、モーパッサンはエッフェル塔のレストランに食事に行く。その理由は・・・。似た話がある。山崎豊子『ムッシュ・クラタ』(1993年、新潮文庫)は、毎朝新聞パリ支局長を務めたフランス風気取った紳士倉田怜(ムッシュ・クラタ)を描いた作品。ムッシュ・クラタもエッフェル塔嫌いだった(p.47)。戦前、戦後2度のパリ駐在を経験するがムッシュ・クラタは、一度もエッフェル塔には登らなかった。
モーパッサン(1850-1893)
フロベール(1821-1880)
デュマ(息子)(1824-1895) 『椿姫』(1848)
ドーデー(1840-1897) 『月曜物語』(1873)
ゾラ(1840-1902)
エッフェル(1832-1923)
以下は、そのメモの一部。
モーパッサン(Guy de Maupassant、1850-1893)『脂肪のかたまり』(BOULE DE SUIF)
をめぐって
普仏戦争と日露戦争
エッフェル塔
ドーデー「最後の授業」
馬車、鉄道、自動車
新聞(小説)
田山花袋、夏目漱石、森鴎外、永井荷風
1.『脂肪のかたまり』
『脂肪のかたまり』(2004年、岩波文庫)はゾラを中心とした6人の著者による短編集『メダン夜話』(1880)の中に収録された。メダンというのはパリ郊外の地名。そこにゾラの別荘があった。『メダン夜話』に収録された作品は、何れも普仏戦争(1870-71)がテーマ。『脂肪のかたまり』は、モーパッサン(当時30歳)の文学上の師であるフロベールに絶賛される。以後、モーパッサンは作家として活躍。『女の一生』(1883)、『ベラミ』(1885)、『ピエールとジャン』(1888)といった長編小説のほか、「ジュール叔父さん」(1883)、「首飾り」(1884)、「小作人」(1886)等おびただしい数の短編小説を残す。短編小説は、「ゴーロワ」(多い)、「フランス時報」、「フィガロ」(付録)等の新聞に掲載されている。1930年代にロマン主義文学が花咲き、新聞小説がさかんになる。新聞という媒体は、小説家たちの重要な発表の場であり、新聞により小説家の生活が保障された。このような時代に、モーパッサンは、うまく乗れた訳である。モーパッサンは1893年に42歳で死去する。自殺をはかり精神病院での死。悲惨な最後だった。モーパッサンが、作家として活躍した期間は10年余に過ぎない。後世に名を残したと文学者。しかも、短い期間に膨大な作品を残した。この点で、夏目漱石を思い出さざるを得ない。
2.夏目漱石(1867-1916)
1900年10月から1902年12月にかけてロンドンに留学。ホトトギスに『我輩は猫である』の連載開始が1905年、日露戦争に沸く世相が取り入れられている。夏目漱石が死去したのは1916年。約10年の作家生活の間、『坊ちゃん』、『三四郎』、『こころ』等多数の作品を残す。『三四郎』(1908)では、日露戦争(1904-1905)に勝った日本の将来に“負”の予測を行っている。
3.田山花袋(1871-1930)
父は警察官、西南の役で戦死。このため、向学心がありながら、正規の学校教育が受けられなかった。若い頃、丸善でモーパッサンの短編集(英訳)に出会う。日露戦争に従軍体験をもち、「一兵卒」は、脚気で死ぬ一兵士が主人公(この兵士は森鴎外に殺されたともいえないことはない)。
『蒲団』(1907)、「一兵卒」(1908)では、モーパッサンの作品の影響が見られる(「小作人」、『脂肪のかたまり』)。『東京の十年』(1917年)に、若い頃日本橋丸善の洋書売場でモーパッサンの短編(英訳)を購入したときの喜びが記されている。なお、『東京の十年』は、講談社文芸文庫の一冊として1988年に刊行された。
4.永井荷風(1879-1959)
1903年から米国に外遊。1907年にフランスに渡り、同年7月から翌年3月と短期間ではあるが横浜正金銀行リヨン支店に勤務した。翌1908年にフランスから帰国している。帰国後の1904年、『ふらんす物語』を発表するが、発売直前に発禁となった。この本を21世紀初頭の今日読むと“富国強兵”よりも“享楽”を求める国民が増える虞があるとおもい、当局の判断は時代を反映していたものして理解できる。『ふらんす物語』(1978年、新潮文庫)には、「椿姫」(p.106)、「カバレリアルスティカーナ」(p.192)等の言及がある。当時のフランスは、馬車の時代から自動車の時代への移行期。都会には馬車、電車、乗合馬車、自動車が混在して走っていた(p.177)。サンテグジュペリは、1900年、リヨンの生まれ。従って、永井荷風とサンテグジュペリは、同じリヨンの街角で、出会っていたかもしれない。
5.『脂肪のかたまり』と普仏戦争
『脂肪のかたまり』(1880)は、普仏戦争(1870-71)、ルアンからルアーブル(最終目的地)に向かう途上の馬車の中、宿屋滞在中の出来事が物語化されている。この地域はすでにプロシャ軍に占領されていた。乗合馬車が主要な交通手段であったからこそ、この物語は成立する。この時代、既に新聞は庶民の生活に溶け込んでいる。物語では、馬車の中での食事に古新聞を使用するシーンがある。
富める人、地位の高い(高かった)人、戦争で負けた国の人、人間としての娼婦、プロシャの軍人、俗物、職業差別、戦争の愚、兵士の苦しみ、戦勝国兵士への迎合等様々なテーマが語られている。
【脱線】「カバレリアルスティカーナ」(マスカーニ作曲、1890年初演)は、イタリア、シチリア島が舞台。美しい間奏曲で知られているが、不倫と決闘がテーマの物語。決闘する二人の男のうち一人は馬車屋。もう一人は復員兵。
普仏戦争をテーマとした文学作品としては、ドーデー「最後の授業」が広く知られている。日本では、小中学校(日本語)や大学(フランス語)のテキストとして使用されてきた。普仏戦争後の1873年、ドーデーは短編集『月曜物語』(岩波文庫)を発表、その中に「最後の授業」が入っている。普仏戦争の結果、ドイツ(戦争中、プロシャ王国を中心とした統一国家ドイツ帝国が誕生)に割譲されたアルザス地方が舞台。なお、クラウゼヴィッツの『戦争論』は、プロシャを勝利に導いた戦略書。哲学書の色彩もあり難解。森鴎外は小倉に左遷された時期(1899年6月から1902年3月)、『戦争論』を翻訳した。鴎外を小倉に転勤させたのは、(左遷でなく)日露戦争の準備のために『戦争論』を翻訳させることが目的という説がある。日露戦争では、脚気のための死者が戦傷による死者を上回った。森鴎外は、翻訳などに傾注せず、脚気の研究を深め、自説(細菌説)を早く撤回すべきであった(野次馬的批判)。なお、わが国が日露戦争(1904年-1905年)に勝利したのは、クラウゼヴィッツの『戦争論』によるかどうかは、実証不可能ではあるが。
5.モーパッサン(M)とドーデー(D)
モーパッサン(M)とドーデー(D)は同時代を生きた。生まれは、北仏ノルマンディー地方(1850年、M)、南仏プロヴァンス地方のニーム(1840年、D)と異なる。しかし、二人とも普仏戦争に従軍し、その体験を踏まえた文学作品を残す。『脂肪のかたまり』(M)、「最後の授業」(D)は、ともに遥か極東の国日本でも永らく読み継がれてきた。なお、この物語を読んでいると、疑問に突き当たる。アルザスの住人たちはフランス語を満足に習得していない。彼等は、ドイツ語を話していたのだろうか。その答えは・・・。
6.エッフェル塔とモーパッサン
エッフェル塔が建設されたのが1889年。普仏戦争で負けたドイツを見返してやろうという国民的(政治的)野望の実現化のシンボルでもある。EIFFELEというのは、設計者の名。曽祖父の代にドイツ領だったアルデンヌ地方からパリにきた。フランス風の読み方にするため、ドイツ風の姓EIFELEに“F”を加えた。パリ万博に合わせて建てられ、万博終了後数年後には、取り壊しになる筈だったといわれている。このエッフェル(ギュスタブ・エッフェル、1832-1923)という技術者は、元来腕利きの鉄道技師。フランスだけでなく、ポルトガル、ハンガリー、ベトナム等にエッフェルによる鉄橋が建設され100年以上の歴史を越えて現存している。19世紀にフランスに鉄道網が出来上がっていった。その時代にエッフェルは才能を発揮した。エッフェル塔は、鉄橋が縦に立っているイメージと見られるのは、以上のような背景がある。なお、ニューヨークの自由の女神の内部の鉄骨部分はエッフェルの設計。また、パナマ運河建設にも関係した。当時のフランスのチャンピョンといわれる人物だった。エッフェル塔の下部には、目立たないが胸像がある。以上は、主として倉田保雄『エッフェル塔ものがたり』(1983年、岩波新書)による。
エッフェル塔建設に当たってはモーパッサンをはじめ多数の文化人が猛反対する。デュマ(息子)、グノー等とならんでモーパッサンもその一人だった。しかし、モーパッサンはエッフェル塔のレストランに食事に行く。その理由は・・・。似た話がある。山崎豊子『ムッシュ・クラタ』(1993年、新潮文庫)は、毎朝新聞パリ支局長を務めたフランス風気取った紳士倉田怜(ムッシュ・クラタ)を描いた作品。ムッシュ・クラタもエッフェル塔嫌いだった(p.47)。戦前、戦後2度のパリ駐在を経験するがムッシュ・クラタは、一度もエッフェル塔には登らなかった。
モーパッサン(1850-1893)
フロベール(1821-1880)
デュマ(息子)(1824-1895) 『椿姫』(1848)
ドーデー(1840-1897) 『月曜物語』(1873)
ゾラ(1840-1902)
エッフェル(1832-1923)