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熱帯ゆるゆる日記

マレーシアでの期間限定生活日記。
2008年駐在開始、そして2011年 本帰国しました。

テトの黄色い花 ~ベトナムのお正月~

2011年02月22日 06時52分22秒 | ベトナム・サイゴン旅行

 

   

テト ベトナムのお正月(今年は2月3日) 旧暦で祝います

   

ベトナム人のテトにかける情熱は 50年前の日本人のお正月状態。

テトの間 4~6日間 商店はお休み、 人々は故郷に帰ります。

今の日本のお正月は 元旦からお店はやっているし 生活は さほど変わりませんが

昔は お店も休みなり 常とは違う街になっていたものです。

 

    

 

暑い 熱い 厚い テト

テトは 漢字の「節」です。

 旧正月は 日本では 節分です
季節が変わる 節。

 

なるほど 中国の影響を受け 古来 文字は 漢字だったベトナムらしいです

北ベトナムは テトを 桃の花で祝うそうですが 南は 桃が咲かないためか

黄色い梅の花

 

     

テトは 黄色い花

 

 

 

どこに行っても この黄色い梅の花が 飾ってあります。

 

ただし、ベトナム南部でホアマイと称される黄色い花は、実際には梅ではないそうです。

梅はもともと厳しい寒さの残る早春の花であって、気温30度のベトナム南部で梅の花は咲きません。

ですから このホアマイを よくみると 梅の花とは 違う形です。

日本の梅は 白と赤ですが ホアマイは 黄色い花だけです。

 

 南部の黄色いホアマイは、学名をオクナ・インテゲーリマ(Ochna integerrima)といい、梅とはまったく無関係の熱帯性の花です。

梅はバラ科であるのにたいして、オクナ科の植物ですから、梅とは別種です。

街のあちらこちらに 黄色い花が飾られ 商店のドアには 黄色い花のシールが貼られ

お祝いの華やかさを飾っていました。

 

   

 

 

ベトナムには 干支があります。

今年は猫とし。   日本と中国は うさぎですね。

ベトナムの干支は 日本と同じく 十二支は、「ね」「うし」「とら」と、12の動物が割り当てられていて、日本と同じように親しまれています。

マレーシアでも 十二支は 親しまれており 中国文化が濃厚なベトナムも同じです。

   

 

 

 しかし、日本とベトナムでは動物の顔ぶれがいくつか異なっています。

決定的に異なるのは、ウサギがネコであることです。

今年は その 猫歳

その他の違いは 、「ウシ→水牛」「ヒツジ→ヤギ」「イノシシ→ブタ」。

あとは日本と同じです。

マレーシアの十二支は 日本と同じですが やはり イノシシは 豚です。

 

 テトの2~3日間は炊事にわずらわされずにのんびり過ごすという意味もあり、日本のおせち料理と同様に、ベトナムでも伝統的な保存食が工夫されています。

 代表的なものは「バインチュン」とよばれるモチ米料理。

中心に豚肉、その周りに緑豆粉ペースト、その外側にモチ米の層を作り、最後にラーゾンとよばれる植物の葉で幾重にも包みます。

これを10時間ゆでると、最大で1ヶ月近く日持ちするモチ米の保存食バインチュンができます。

 通常、炊いたご飯は1日でいたみますが、バインチュンは、長時間ゆでることで完全殺菌されるうえ、包みかさねた葉のすきまにコメから出るノリ状成分がゆきわたって、外気を完全遮断することで、驚くべき長期保存を可能にしているそうです。

 

   

↑ バイチュン               ↑バイチュン売りのおばさん

この 餅米を葉っぱで包んでゆでるものを正月料理とするのは

マレーシアのストゥーパが 似ています。、

同じアジア 文化に共通性が あります。

 

市場や店先には このバイチュンが 並べられていました。

昔は バインチュンはテトの数日前に手作りされていたそうです。

バインチュンをゆでる大きな鍋を、家族や近所の人々で囲むのが、比較的最近までテトを準備するおきまりのの光景だったそうです。

 バインチュンゆでは、日本の年末の餅つきに似ていますね

最近では、日本の餅と同様に、バインチュンは店に行って買うものになっているらしいです。

 バインチュンは包みの葉からモチ米に色移りするため、包みを開いたとき、モチ米の外側はあざやかな黄緑色をしています。

市場では 切って断面を見せて売っていました

包みを開いたバインチュンは、あらためて火を通さず、そのまま食べることができるます。

 

 

↑ 店先の 緑のものは すべて バイチュン

 

 

私は テトと聞いて テトの攻防を 思いだしました。

 

 

 1968年のテト攻勢。ベトナム戦争中でもテトの際は戦闘が停止するのが慣例でしたが この年、南ベトナムの反政府勢力であった解放戦線は、1月31日の午前2時(すなわちテト初日が終わった深夜)に、首都サイゴンをはじめとする南ベトナムの各都市へ一斉攻撃をしかけたのでした。

この際、サイゴン中心街にあったアメリカ大使館の一部が数時間にわたって解放戦線に占領されたほか、チョロン地区も戦闘により広く被災しました。

1968年のテトは 1日30日でした。

 

 

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ベンタイン市場

2011年02月21日 20時42分32秒 | ベトナム・サイゴン旅行

市場

ベンタイン市場(ベンタインしじょう/いちば Chợ Bến Thành)は ホーチミンの中心部にある大規模な市場。

1907年に建設が決定し、1914年に完成。

第二次世界大戦時に大きな被害をうけ、1950年に改修が行われました。

 

地元の人の市場というよりは 観光客の市場。

 

値切り交渉してみましたが ここは 厳しい。

 

 

他の市場以外のお店の方が やわらかい価格交渉でした。

おみやげの種類は ベンタイン市場が多いですが ドンコイ通りや国営デパートのほうが

価格は安いように思います。

 

 

でも市場独特の雰囲気は ぜひ 体感したいです。

 

  

 

   

 

 

 

 

 

古い伝統のある建物で 巨大な堂の中に個人商店が小さな店を構えてひしめき合っている屋内市場です。

、日用品や食料品を売る店 なんでも あります。

夕方以降は市場の両脇の通りを巨大な屋台が埋め尽くし、ベトナム料理を肴にを飲む観光客や地元の市民でにぎわいます

 

 

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統一会堂 ~トンニャット宮殿~

2011年02月19日 17時15分32秒 | ベトナム・サイゴン旅行

 

   

Reunification Palace 統一会堂 トンニャット宮殿 ノロドン宮殿 独立宮殿

政情が不安定だったベトナムは この建物の呼び名だけでも これだけ変化しました。

 

 ベトナムの厳しい歴史が 垣間見えます。

 

1873年 建設  統治していたフランスによって建てられ 1945年までフランス総督が使いました。(ノロドン宮殿)

 

フランス撤退後 独立政権に寄ってベトナム共和国が 使用したが

1962年のクーデターで 大破し取り壊されました この期間が 独立宮殿時代。

現在の建物は 1962年」の爆撃のあとに再建されたものです。

1966年に 新たに再建され ベトナム戦争終結まで 大統領府・官邸として使われました

1975年 4月30日 北ベトナム軍の戦車が 大統領府のこの建物のフェンスを突き破り

突入し 首都サイゴンは陥落しました。

  

そのソ連製の戦車は今も 庭に 置いてあります

 

この時の映像は 一つの国が消滅する瞬間として 世界中に配信されました

私もオットも 多感な時期に その報道を見たわけで 今でも 忘れられません。

当時 夫は この戦車のプラモデルを作ったそうです

 

 

現在は ベトナム社会主義共和国 成立(1976年)後

統一会堂として 博物館として公開され 一部 国際会議などで使われます。

 

 

3階へリポートには 陥落直前に落ちた 爆弾の跡が 記されています。

   

歴史的に象徴の建物です。

 

 

この建物の内部は 南ベトナム政府が 使用した状態を見ることができます。

私は その装飾やインテリアが 中国の影響を受けたベトナム装飾として

見る価値があるけれど

建物自体に 優美さや優しさは 感じられませんでした

どこかに 余裕のない 空気があります

 

    

                           ↑ 壁の漆の絵画  みごとです

ダンスルーム 大統領の部屋 会議室 婦人のティールーム

 

 

 

優雅ではあるけれど そこに 訴えかける息吹は ないのでした。

優雅な部屋の すぐ 近くには 手描きの地図が広がる作戦室

そして 足元の地下には 無線室  作戦室 秘密の逃げ道

  日本製の映写機

 

見どころは 地下。

 

 

大統領が 執務室から逃げてくる秘密の階段

爆撃に耐える 厚い壁の廊下

迷路のような地下

 

作戦室

 

 

キッチンの洗米機や機械は 日本製でした。

 

 

 

サイゴンは 戦火に焼けることなく 降伏しました。

その象徴的な北ベトナム軍 戦車 突入は この先のフェンスです

この風景は 建物3階から みたところ

 

 

この風景のなか 南の政府・大統領は どんな気持ちで 見たのでしょうか

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笑う ベトナム

2011年02月19日 17時13分31秒 | ベトナム・サイゴン旅行

 

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ベトナム女性は美しい

2011年02月18日 22時28分54秒 | ベトナム・サイゴン旅行

べトナムは インドシナの中で 大陸の海側に南北にへばりつくような
国土です。

 

 

これは 民族の分布

なにも こんな 細長い国にしなくても! という形。
インドシナの国々
ミャンマー(ビルマ) タイ カンボジア ラオス
同じアジアの国々ですが 日本人は その位置関係さえ あやふやな
地域でしょう。


しかし 実は 戦争のときは 日本が侵略した大東亜共栄圏の一部です

赤道から外れたこの地域の気候は 厳しく
メコンデルタの恵みを求めて 民族が争う歴史があります。


争ったのは おもに 民族単位です。
それが インドシナの国の不思議な 入り組んだ国境です。

ベトナムは 多民族国家で 多くの少数部族を含みますが
85~90%は ベト族です。

ベト族  美しい。


肌の色は このインドシナ半島においては 白い。

 

小柄で 華奢で ウェストが細い。
目が大きく 切れ長。
もう 欧米人の理想のオリエンタルです。

私が 感じたのは 顎の線の美しさ
顎が きゅっと しまっているのです。

そして 頬骨が高く 小鼻の小さい鼻

キュートな子猫のようです。



有名なアオザイは チャイナ服の発展系です
チャイナ服とは違うというのが ベト族の断固たる言い分ですが
でも  似ていますね


アオザイは 誰が見ても たおやかで 色っぽく 美しい。
脇の切れ込みから 肌が見えるのは 反則技です。

アオザイは 脇は見せるくせに バストはまったく 布地の下に隠します
これも 思わせぶりな反則技ですね
実は ベト族は バストが小さいのだそうで それを カモフラージュするために チャイナ襟なのだそうです。


さすが 賢い。



べトナム女性は 美人




メコン河河口の町ミトーに行きました
ミトーは 美人のまち という意味だそうです
ほんとうに 美人でした

 

 

さりげないくみんな かわいい    自慢せずにきれい  という感じです

 

 

気がついてないアオザイの色っぽさは 罪。

 

以下 ウィキペディア 抜粋

 

アオザイÁo dài襖𨱽?)とは、正装として着用するベトナム民族衣装。なお南部では「アオヤイ」と発音する。アオザイとはベトナム語で「長い上衣」の意味。

女性用アオザイの美しさは世界的に認知されており、土産物としても人気が高いが、オーダーメイドが基本のため購入には手間がかかる。

起源

アオザイを着用する各国首脳(2006年APEC)

18世紀清朝から移入されたチャイナドレス(旗袍)を起源とする。

本来は厚地のを使うが、ベトナム土着の薄絹(庶民はなど)のゆったりした長衣の影響を受けて、風土に合った薄い布地で仕立てるようになった。

。現在の女性用アオザイの細身でスリットの深いデザインはフランス領インドシナ時代に改良されたものである。

現在ではアオザイ姿を見掛けるのは女性がほとんどで、アオザイは女性のみの民族衣装と思われていることが多いが、男性用のアオザイもある。しかし現代において男性用アオザイの着用は、結婚式での新郎や伝統芸能の演者等に限られ、男性のアオザイ姿を目にすることは稀である。

構造

上衣は「チャイナカラー」と呼ばれる前合わせの立襟で長袖の体に沿った細身の仕立て。

丈は足首にかかるほど長いが、腰骨にかかるくらいの深いスリットが側面にあるため歩行の邪魔にはならない。下衣には上衣と逆に直線的な裁断の白い長ズボン(クワン、quần)の組み合わせで仕立てる。

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美しいアオザイ

2011年02月18日 07時03分28秒 | ベトナム・サイゴン旅行

    

たおやかな アオザイ  レストラン・ベトナム ハウスにて    色っぽいです

      

広場で かしましいお嬢さんたち 

写真を撮ってもいいですか? と聞いたら 大喜びでした

 

飲茶のお店で

 

    こちらは 街角のポスター

 

 

 

これは ミトーのお譲さんたち

ミトーは 美人という意味の地名だそうです

べトナムは 美人が多いと思いました。

肌の色も白いし スタイルがいいし とくに 顔のあごの線が きれいな人が 多いと思いました

アオザイを ひるがえして歩く姿が 妖精のようです。

 

 

 

 

 

アオザイは どこか 中国のチャイナ服に似ている気がします。

でも ベトナムの人は 「中国ではない」と言うし 中国人は「アオザイなんて 着たくない」という・・・

日本人の女性は ベトナムでアオザイを創ることがあります。

 

 

民族衣装は その民族が いちばん 美しく見える衣装です

 

 

さて どんな絵に描きましょうか

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なぜサイゴンはプチ・フランスか?

2011年02月17日 09時34分19秒 | ベトナム・サイゴン旅行

ホーチミン(サイゴン)は ぷち・フランスと ガイドブックに書いてありました。

フランスに統治されていたころのフランス風の建築物があるからです。

確かに このように 陽射しはともかく 建物は フランスのようです。

 

↑聖マリア教会(サイゴン大教会) 19世紀末 カトリックの教会 ネオ ゴシック建築 

教会の後ろ姿   パリのノートルダム寺院を思い出しました

 

     

↑中央郵便局    フランスのようですが ホーチミンさんが。

  

 

↑郵便局のタイル フランス輸入

 

                                     ↑人民委員庁舎  日本で言う市役所?

   夜は ライトアップ

 

 

 

↑ フランス大使館の門

  

       

↑ 市民劇場

    

さて それはいいとして ホーチミンは ベトナム戦争で「サイゴン陥落」「ホーチミン開放」の街です。

ぷち・フランスは 爆撃されなかったのでしょうか。

あの凄惨な戦争で陥落した街。

 

 

 

確かに このちかくのホテル マジェスチックやからベルには ロケット弾が撃ち込まれましたが

サイゴンは 戦火に焼かれませんでした。

 

 

 

 

長い長いベトナム戦争は アメリカが南ベトナムを見放したあと 急速に終焉を迎えます。

北から南進する北ベトナム軍。

周囲の村は アメリカの枯葉剤や北の砲弾で 壊滅的に破壊されました。

サイゴンに迫る北ベトナム政府は 秋・9月ごろ サイゴン陥落と 考えていました。

ところが  北・ハノイの軍部・政府の予想を裏切り 4月30日 南ベトナム政府は 完全降伏宣言をしました。

サイゴンは 戦火にまみれることなく 陥落したのです。

もとは 同じ民族、 陥落しても サイゴンは活気あるメコンの恵みの商人の街で、 入城した解放軍と 打ち解けたと言われます。

アメリカ ソ連 中国 インドシナの国々・・・・ すべてに 疲れ果てた末の あっけない開放でした。

 

 

↑ サイゴンの公園   これは 旧ソ連の戦車  これを オットは こどものころ プラモデルで作ったそうで・・・・我が家の男3人感動

 

 

サイゴン陥落は ちょうど 思春期の私には 大きなニュースでした。

沢田教一さんの写真 近藤紘一さんの報道    アメリカのベトナム戦争映画   心を揺さぶる歴史でした。

後に 沢田さんの写真展を 見に行ったこともありました。

 

 

私は いろんな思いで フランス風のホーチミンにたたずむのでした。

 

 

 

 

10年程前に 東南アジアに駐在する友人が ベトナム旅行の写真を見せてくれました。

大きなロータリーを おびただしいバイクが 走る写真でした。

それと同じ風景が目の前に広がる フランス風のロータリー(マレーシアのラウンドアバウトみたい)

経済成長に乗りきれなかったベトナムは 10年前と同じく 庶民は家族4人でバイクに乗っています。

  

これから ベトナムは バイクから車に乗り換えることができるでしょうか。

経済・インフラの成長を やっと 手にしようとしているベトナム。

ベトナムの人たちの すべての幸せへの開放を 心から祈っています。

 

 

 

 

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ベトナムの美術館から歴史を考える

2011年02月15日 11時47分10秒 | ベトナム・サイゴン旅行

2011年 テト(旧正月を正月とするベトナム)2月3日 ベトナム ホーチミン(サイゴン)に

行きました。

体調が悪いさなかでしたが すでに 予約してあったので

ゆっくりスケジュールで 行きました。

 

ベトナムは テトのお正月。

着いた日は 体調が悪く 困りましたが 昼寝しながら

べトナム料理を「薬」のつもりで もりもり食べたら 2日目には 驚くべき快復。

    

↑ フォー                                  ↑生春巻き

1か月以上くすぶっていた体調が みるみる 良くなりました。

旅ができるか 心配でしたが 「食べる」ことで 体中が 芽吹く感じです。

まだ 100%とは言えませんが ベトナム旅行は 私には 「薬」になったようです。

 

 

 

 

 

ずっとベトナムの勉強をしています。
ベトナムは東南アジアの中でも個性あふれる国です。

行ってみて初めて その不思議さに驚きました。

では なぜ ベトナムはこうなったのか?
それが 私の疑問でした。
それを学ぶまでは 日記が書けませんでした。

 

 

   

まず 美術館。
美術館は とても 良かったのですが ホーチミンでは
ほとんど宣伝もされず ガイドブックにも 大きく取り上げられていません。
初めは 共産主義のために豪華な美術館を宣伝しないのかと思いました。
しかし 中国・旧ソ連でも美術館は有名です。
政治体制以外の理由が有るに違いありません。

 

  

ベトナムに行って 最初の思ったのは ベトナム文化・生活が
とても中国に似ていることです。
東南アジア諸国は 中国の移民・華僑が多く どの国も少なからず
中国文化の影響があります。
でも ベトナムは それが あまりにも濃いのです。

現在のべトナムは フランス占領からアルファベット表記ですが
そのまえは 漢字でした。ホーチミン開放前の都市名サイゴンは 西貢。
しかし ホーチミンでは 漢字をたくさんは 見ません。
KLは 漢字の看板だらけなのに。

これは ベトナムの歴史を見るとわかります。
ベトナムの歴史 2000年以上有史以前を含めて
その3/4は 中国からの侵略と支配への抵抗に費やされているのです。
紀元前3世紀から始まった中国との確執です。

   

                         ↑中庭 



ときに中国に同化され ときに隷属し ときに抵抗してきた歴史です。

紀元前1世紀に中国に抵抗戦線を張った姉妹の物語が現在でも
英雄の話として語り継がれ 今もなお 英雄です。
 周恩来首相の訪越のさいは 首相が姉妹像に謝るという儀式があったほど 中国への恨みは深いのです。

中国への抵抗意識が強い半面 中国文化に頼らざるを得ないことが
べトナム知識層や一般庶民のコンプレックスで それが 屈折した形で
ベトナム戦争にも 影を落とします。

日本も隣国中国の影響を受けた国にひとつですが
独自の日本文化を形成しえた誇りが あります。
ベトナムは それが 代大帝には できなかったようです。

ベトナム戦争で アメリカが引いたことは事実ですが
実際の敗因は 南べトナムの人々がアメリカの支援を自分たちの
私利私欲に費やし おのずから敗北への道を進んだことにもあります。
その一端に 華僑がいたことが大きく 開放後のボートピープルの多くは 華僑ベトナム人でした。

ホーチミンの中華街は クアラルンプールの中華街とは
まったく違います。
それは 私の驚きでした。
華人の町・チョロンは 決して 「KLの中華街」ではない。
それが 不思議でしたが この歴史をみれば よくわかります。

北ベトナムは 宿敵中国と隣接し 抵抗しながらも 深く影響を受けざるを得なかったのでした。

 

  

↑ エレベーター 現在は使われていません

あくまでも 私の予想ですが・・・

ホーチミンの美術館は 華人の町 チョロンに近く
建物は 中国人の邸宅あとです。
フランス風建物で 一見の価値がありますが 宣伝されない理由は 
この建物の出仕にあるのかもしれません。

 

ほとんど人のいない美術館の中は 充実したものでした。
とくに 漆をつかった絵は 他では見られないものです。
ベトナムは中国の螺鈿細工・漆工芸が とても盛んで
漆を絵の具にして描く歴史があります。

 


我々のガイドをしてくれた オンさんは 最初に言いました
「私たちべトナム人は 中国がきらいです
 1000年以上 中国に支配されました みんな大嫌いです」


 

↑床は フランス製 タイル  すべての部屋がタイルで しかも みな 模様や色が違う

  









ところで ここに 「ベトナム文化は 中国に似ている」と書きました
これは ベトナム文化が模倣でしかないと言っているのではありません
ベトナム人は 働き者だし優秀な頭脳を持っています
しかし 優秀であるがゆえに 頭の回転が良いがゆえに
新しいもの・良いものを 模倣・導入・活用するのが 上手なのです
日本と違い 陸続きで中国と接しているベトナム
導入した文化から 創造するゆとりの時間がなかったのでしょう

インドシナにおいて カンボジアのクメール人 ベトナムのベト族は
非常に勤勉で 優秀です。

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↑ 窓が 美しい

 

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