熱帯ゆるゆる日記

マレーシアでの期間限定生活日記。
2008年駐在開始、そして2011年 本帰国しました。

クリスマスイブの困惑

2011年12月24日 09時56分19秒 | 本帰国後の徒然草

少年たち


「サンタさん何くれるかなぁ」


と夢みています。





お父さんには クリスマス プレゼントに プラモデルを買ってもらうそうです。






困った












プラモデル サンタさんのほうにしたかった












お正月の用意といい
クリスマスといい

まったく てにつかず


気持ちもからだもついていきません










帰国疲れ











かんばれ私






これから息子の病院行ってきます

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風邪とたんぱく質

2011年12月22日 14時18分45秒 | 本帰国後の徒然草

 

 

日本に居るときは 私は、毎年2月15日前後に 肺炎にかかっていました。

医師がカルテを見て笑うほど毎年でした。
そんなジンクスを ぜひとも 破りたいと思っています。

日本に帰ってから 小さな風邪はひいたものの 今のところ 大きな病気には至っていません。

これは 私にとっては 驚異的なことです。

たいてい 疲れがたまると どっか~~~んと 倒れるのです。

今回の勝因は (まだ わかりませんがね)

たんぱく質  だと 私は 思っています。

 

私は 息子たちの 「お腹減ったよ~」という 責め言葉に

いつも がんばって 料理をしてきたのですが

そのために 私は 自分が食べることを おろそかにしてしまっているのです。

おかずを食べ無い日が ほとんどなのです。

自分が かずを食べていないことに 気がついても いなかったのです。

肉など 焼いても 息子たちが すごい速度で 食べてしまうので

私は まったく 食べないのですが

そのことに 気がつかないほど ばたばたと料理していました。

それに気づいたのは 「ためしてガッテン」というNHKの番組でした。

自分で 何を食べているのか 本で 栄養素を調べたら

ま~~~~~~ったく たんぱく質がふそくしてることがわかりました。

たんぱく質は からだのもとです。

これはいけません~~~と それから 意識するようにしました。

脂質もまったく 不足しています。

そこで 朝食を見直しました。

朝から 弁当を作って 疲れ果てて パンをほおばって終わっていたのですが

マレーシアでは チーズやバターを 意識的に 取るようにしました

ひとりの昼食でも 卵料理か納豆を かならず 食べるようにしました

夕食で たんぱく質を食べられなかったら デザートにチーズを 食べるようにしました。

そうしたら 痩せたんです 2KG

つまり たんぱく質が不足して バランスが悪くて肥っていたのです。

それに 風邪も軽く済むようになりました。

良質のたんぱく質を取って からだを整え 脳を 活性化させて

本帰国を乗り切ろう~~~~~~~~

がんばれ 私。

来年は きっと 輝いているぞ   と 言い聞かせています  自分に。

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命がつながる ~金正日さん亡くなる~

2011年12月20日 11時01分06秒 | 本帰国後の徒然草

 

お墓参りをして 思いました。

千の風にのって という歌では 「私のお墓の前で泣かないでください。 そこに 私は いません。

眠ってなんかいません」 と あります。その通りだと思います。

きっと 亡くなった人の魂は お墓に じっとしているのではないと思います。

それは あまりにも あまりにもですものね。

魂も ずっとお墓なんて 退屈です。

だけど 私は お墓の前で いつも 泣いてしまいます。

不思議と。魂は お墓に眠っては居ないと思います。

事情があって お墓参りに行けない駐在妻の方々は だいじょうぶですよ。

遠い異国からでも 魂に 会えると思います。

イスラムでも お墓参りがあります。

ただし イスラムでは 霊魂は認めていません。

私は お墓は いわゆる電話機というか 受話器というか、 お互いに会いやすい待ち合わせ場所。

プロバイダーの基地のような気がしています。

電話機が お墓ではなくて 思い出の場所の人もいるだろうし 仏壇の方や 教会の方もいるでしょう。

あまり こだわらくてもいいのではないでしょうか。

お墓参りに行けないからと 気に病むのは なんだか 亡くなった人も望んでいないような気がします。

それよりも 思い出してあげて 心の中で かたりかけるほうが 好きです

ところで 私の母は 私が36歳の時に他界しました。

そのころ 私のは まだ こどもは居ませんでした。

3月4日のことでした。

その2年後 38歳のとき 父が 亡くなりました。  月は違いますが 母と同じ4日です。

これは 母からのメッセージだと 勝手に 思い込んでいます。

12月4日に父が亡くなり その2週間後に 長男が生まれました。

父が亡くなったとき 私は 妊娠22週から入院していて 歩くこともできない状態でした。

ちょうど 35周のとき 父が亡くなったことになります。

もちろん 父が突然他界したとき 私は 24時間点滴連続4か月 寝たきり入院中でした。

がん闘病中ではありましたが まだ 余命は1年以上あると医師から言われていたのです。

子どもが生まれても 寝たきりで歩けない私に、 末期がんの父の介護が待っていました。

もうすぐ子どもが生まれると言うときに 私は 父の世話をどうしようか 悩んでいたのです。

私は持病があって あまり丈夫ではありませんし

子どもを生むこと自体 命がけで、 生むことができるかどうかも ぎりぎりでした。

4か月寝たきりなので 足が弱り 歩くことも お風呂も できていませんでした。

生まれた子を どうやって育てようか それさえ わからないのでした。

母は もう 他界していましたし 頼れる身内はいませんし、夫の両親は 遠い田舎にいて

大阪に来ることは不可能だと言われていました。

長男が授かったのは 奇跡で、 これが最後の妊娠で、 健康な子が生まれるか 私が出産できるか

すべて わからないほどのことでした。

母の癌の闘病を看病するのは 大変なことでした。

その経験から 赤ちゃんと父の看病が 両立するのかどうか 不安でした。

あれは 絶望的な気持ちでしたよ。

私の妊娠は 母の看病をして それをきっかけに  持病の手術をうけて こどもをあきらめていたら

母が 亡くなり そして その2年後に 奇跡的に長男を授かったのですが

妊娠がわかった直後 父の癌がわかり 看病が始まりました。

会社勤めもしていたし 仕事は 急には辞められないし

父の看病もあるし 妊娠して 体は辛いし・・・

本当に あのときは 絶望的に落ち込んでいました。

せめて 私の自宅に近い病院に父を入院させたかったけれど

父の実の姉が医師で、彼女の懇意にしている病院に入院させていたので私の家から

1時間半もかかる病院でした

4か月の入院の間に 26週で 破水してしまい もう 赤ちゃんは だめかと思ったのですが

なんとか これまた 希有な事例だそうですが うまく 乗り切り 37週まで がんばりました

最後は 呼吸も浅くなり 痩せるほど苦しかったのでした。

生まれた長男は 健康な子でした。

その長男誕生の2週間前 父が 母と同じ4日に 突然 亡くなったのでした。

母が 迎えに来たのだと思います。

まあ そんなことを言っても 奇跡は また 起きて 次男が生まれるのですから 人生 わかりません。

医師が 一番 驚いていました。

奇跡だ  でも これ以上産んだら 死ぬよ

次男出産も たいへんでしたが 2度目だし・・・・

ただ 入院中の長男の預け先が見つからず 市役所からは 児童養護施設に入れろと言われ

それはいやなので ベビーシッターを 〇百万円かけて やとい 長男は 笑顔を忘れた2歳になってしまい 次男が生まれました。

このころも 誰も身内がいなかったので 心身の限界でした。

あれは 根性だけが たよりでした。

私は 両親が亡くなってから こどもを授かったのです。

このすご~~~い 高齢出産。

自然に子を授かるまでが 紆余曲折  長い道のりでした。

子どもを授かるためには たくさんの修行が必要だったのですね

次男は 父にそっくりで 言うことも 食べ物の趣味も 同じです。

長男は 私よりも 人間がおとなで 幼稚園のころから 「できたせいかく」でした。

長男ができた性格というよりは 私の性格が悪い。

母の差し金でしょう。

ちなみに 長男の顔は 夫の父にそっくりです。

こうして 命が つながっていきます。

ところで 昨日 金正日さんが 亡くなりました。

どうなるのでしょう。

信じがたいことですが 息子さんが 世襲するようです。

命のつながり。これは いかがなものでしょう。平和であることを 祈っています。

私は 両親との縁が きれたとき 我が子に出会いました。

私は 人間は あるきっかけで 精神的に生まれ変わっていくような気がしています。

からだは 同じでも 親が亡くなり 子が生まれ  そのほかのたくさんの経験を経て

その中で 扉をあけて 新しい道に

出るような気がします  私は こどもを授かることなどできないような状態でしたが

奇跡といわれなかがらも 2人の子を授かりました。

今でも 授かった2人は 私のこどもではなくて 多くの人の命のつながりのひとつだと感じています。

たまたま 私の体を使って 生まれてきたけれど 

それは なにか縁があって 意味があっただけで  たとえば 私の修行とか

私の子どもであって 私の子どもではないと思うのです

たくさんの人の 命のつながりが ここに 現れて。

私だけの子どもではないと思うのです

そう思えば 隣の子も 学校のクラスメイトも みな つながっている命。

そんなことを お墓で想いました。

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お墓参り

2011年12月19日 13時30分51秒 | 本帰国後の徒然草

先日、両親の墓参りに行って来ました。

車でも 電車でも 我が家から一時間くらいの町の中にあります。

私が 学生時代を過した街の近くです。



いつもは車で行きますが
まだ慣れない新車だし
お墓のある町は、昔ながらの町並みで
道が狭いクランクなので、電車にしました。





駅前で 小さな古いうどん屋さんに入ったら
おじいさんがうどんを 手打ちしていました。




意外なことで
しはし 技にみとれます。駅から5分ほどで お寺に着きます。





お寺は とても落ち着いた きれいな庭があります。供えた樒は、家の庭から切ってきました





街中なのに 静かな寺で
竹林の葉の音が響きます。菊の花も 庭のもの。

 



お墓の掃除をして
すっきり。もっと早く来たら良かったと反省。
母に謝るけれど 返事はありません。




両親に帰国の報告をしました。
お墓に来ると ながなが話したくなります。
もう実家はないし、帰るところも、頼るところも
ありません。お墓にくると 唯一 ほっとします。
母は 今の私の年齢から11年後に他界しました。
私の息子たちは、まだ幼いから、死ぬわけにはいかないなぁ

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庭の柚子で柚子茶

2011年12月14日 14時26分58秒 | 本帰国後の徒然草

 

庭の柚子で柚子茶にしました。

柚子を刻んで はちみつを入れ お湯で のばします。

柚子は 皮も 実も すべて おいしです。

香も豊かで 日本の冬に 明るい太陽のようです。

熱帯の柑橘とは違う 冬の楽しみです。

庭のバラも たくさん咲いています。

年の瀬。

駆け抜けるように いろいろな処理を どんどん こなす毎日。

いけませんねぇ 私もニホンジンなもので 日本に帰った途端に 「ちゃんと しなくちゃ」モードON。

気がつけば 家族は 私に なんでも頼むのがあたり前になり

私は私で 無理を承知で 「帰国してたいへんだろう」と 受けて こなし

疲れ果てました。

さすがに 私も 「ん? それは ご無体な発言だろう」と 「それは 自分でおやりなさいよ」

我に帰ることが できるようになってきました。

私は我に帰って 「どうぞ 自分で」と言うのですが

家族は 私に頼むのが 癖になってきていますから・・・・困ります。

 家族  とくに連れ合いは ひとりっこなもので 自称「わがまま」が いとも簡単に よみがえっています。

反省色なし。一番困ったさんです。

うちには他にも 抱える家族の問題もありますし

帰国したら いきなり 処理することが押し寄せます。

これから お正月だし、 日本の正月は また せわしく忙しいですね。

それは 季節感があって 良いものですが

3年ぶりに 諸問題に対面している今は  茫然としてしまいます。

ちょっとの疲れモードなので 柚子で ひといき。

 

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和牛のすき焼き

2011年12月06日 20時02分36秒 | 本帰国後の徒然草

日本ならではの食べ物は いろいろありますが
牛肉も その代表です
霜降りのうすぎり肉は
海外では なかなか出会えません
日本人が好きな牛肉
和牛は 日本の特別な食べ物です
外国では 日本のブランド和牛が グルメのあこがれとか
さて 我が家に ○△黒毛和牛が やってきました!!
お歳暮です
急きょ すき焼き
もうすぐ 次男の誕生日なのですが 消費期限が迫っているので





お父さんに 早く帰ってもらって 突然 すき焼き しました
和牛 美味しい。
あああ日本

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かにすき

2011年11月28日 00時10分33秒 | 本帰国後の徒然草

今日の夕飯は かにすき



マレーシアは三連休だったそうですね
悔しいので 我が家は蟹
ずわい蟹にしました
クアラルンプールのみなさま
うらやましいでしょう?
マレーシアにも蟹はあります
蟹島 プラウ ケタムが あるくらいです
でも やはり 蟹は日本です
ウキウキ食べたので 写真は とりわすれました
最後の蟹雑炊まで 一気に進んでしまいました
最近の蟹は 食べやすいように 殼を割ってありました
かにすきは 美味しいけど、あの殼と格闘するのが面倒です
マレーシアでは 金槌が出てきます
でも 今回 購入したずわい蟹は 足のところも ちゃんと半分以上 殼を割りけずってあり、手を汚すことなく、食べることができました
まったく日本は 仕事に熱心です

最近 大少年に聞いたのですが たらば蟹は蟹ではなくて ヤドカリだそうです
足の数が違うらしい
ずわい蟹は 日本の近海でとれそうですが、たらば蟹は 北の海だった気がします
マレーシアの蟹は 味が違います
蟹や魚は、寒い海や黒潮や、紆余曲折した人生を経験しないと美味しくならないのです
寒い海、海流に乗った豊かなプランクトン
さて、家は、だんだん片付いてきました
再来週に液晶テレビ 地デジになるので、これでリビングも落ち着くでしょう
我が家は 大柄家族です
現在、それぞれの身長は、180 170 165 150
やたら かさばるので、部屋が狭く感じます

170と150は、さらに伸びる予定なので おもいやられます

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顔見世~京都・南座~

2011年11月20日 12時01分15秒 | 本帰国後の徒然草

南座の前を通ると歌舞伎の顔見世の看板

  師走の恒例行事
母がこの世にいたころは、毎年 2人で観にいったものてした
私には 娘がいないので親子で顔見世は はかない夢です


川をわたると 祖父と行った中華料理店があります


里の墓は 京都の五条坂にあり、墓参りのあとは歩いてこの店まで来たのでした。



日本にいたら 当たり前にやってくる季節の移り変わり
それに伴う顔見世のような芝居や季節の行事
私は、そんな一つ一つの日本の歳時記が、実は 自分の中で大きかったのだと 気がつきました

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清水寺

2011年11月19日 09時09分16秒 | 本帰国後の徒然草

先日 京都の美術館に行きました




美術館カフェでランチを終え神宮道にでると
目の前に急行バスが停まりました
このバスは、すべてのバス停に停まらず観光名所のバス停にだけ停まる急行です


思わず 乗ってしまいました
私の好きな智積院まで行きたかったのですが、智積院は三十三間堂の近くで、かなり距離があります
時間がないので 清水道で降りました
清水寺の千手観音を拝して紅葉を見ようと思い付きました

    
いやいや すごい人
修学旅行です

    
紅葉も まだまだ
千手観音さまに 無事に帰国したお礼をして
足早に下山しました
山を降りたら 修学旅行の女子校生に道を聞かれました
地図を指差すのですが
まったく とんでもない道間違いのことで  どうも 地図が読めないかんじ
清水寺まできたら 産寧坂は歩きたいだろうし
でも あぶらとり紙は 支店が 他にもあるし
途中まで案内しました
秋の京都は 観光客でにぎわいます
そういえば 美術館カフェでも 欧米人らしき夫婦と隣り合わせました
椅子が足りないようだったので 英語で話しかけて譲りました
英語圏は どんなことにも必ずThank youを言います
カフェで 一つ一つのサービスに きちんとThank youを伝えるご夫婦に 気持ちが暖かくなりました
私も この習慣を忘れず ありがとうを伝えたいと思います
京都の紅葉は これからです
駆け足の清水寺でしたが
良いお天気で さわやかな秋の1日を楽しみました

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フランソア喫茶室~京都・木屋町~

2011年11月18日 21時09分21秒 | 本帰国後の徒然草

京都に行き、お茶を飲むなら いつも ここ  フランソア喫茶室

木屋町 四条通りから下がると(下がるとは南)すぐです



    目立たない場所ですが ほんの少し 下がったところです

四条通りの喧騒が 柳に消えて 高瀬川の水の音が聞こえそうです
美術館の帰り道は 時間があれば四条河原町まで歩きます
昨日は 小少年の帰宅時間が門限なので、急いでいました
バスで京阪四条駅まで戻り 鴨川を渡りました



私の実家のお墓は 五条にあり、墓参りのあとは、いつも祖父母と四条駅まであるいたのでした

フランソワ喫茶室
ここのコーヒーは ミルクたっぷりで とても美味しいのです
ケーキも    歩き疲れたら いつも 来ます
スタバもいいけど やはり 昔ながらの落ち着いたお店がいいですね
こういう店が 少なくなりました
昔 やはり 高瀬川の近く 四条から上がったところに 「夜の窓」という喫茶店がありました
もうなくなりましたが  吹き抜けの中庭がある大好きな場所でした
ちょっと 美味しいお茶を飲んで ひとりで落ち着きたいとき 考えたいとき ありますね


先ほど、調べたら
このお店は国の有形文化財指定だそうです
昭和9年創業  バロック様式の建築で、豪華客船のようです
創業者の立野さんは画家を目指しておられたそうです
画家フランソアミレーから名前をつけたそうです
画家や作家が集う歴史あるお店でした  知らずに通っていた私



昼下がりの木屋町

    



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