よれよれ日記

谷晃うろうろ雑記

天然色と板飛び

2004年11月29日 | Weblog
悲しくなるほど天気の良い日曜日。なのに朝からいろいろ小さな用事を片づけなくては。知事選挙の投票も。

 午後次男が野市で友人のコンサートを見に行くというので、車で送っていく。帰り道吉川漁港に立ち寄る。ここの防波堤に上がると、目の前で物部川が太平洋に注いでおり、振り返ると高知の山ぜんぶが見渡せるようなおおきな景色の、その真ん中に自分が立っているような気色がして、私の好きな場所。とりたてて雄壮な、というわけではないが、山川海空を見渡し、浜に打ち上げられた流木をながめ、足下の小石をけとばし、人間なんてちっぽけだなと思う。いつも、来る度に。
 漁港の即売所「天然色市場」で揚げ物を買って帰ったら、ちょうどこれが食べたかった、と妻に喜ばれた。

 夕方テレビで韓国旅行の番組をしていて、韓国民族村というところで見ることが出来る「板飛び」というものを知った。韓国式のシーソーで、板の両方に少女が立ち、最初小さく飛ぶことからはじめ、相手のおりてくる力を利用して段々に高く飛び、ついには二人が3メートルほども交互に飛び会うようになる。飛んでいる間にトランポリンのようにいろいろ技を披露し、着地は必ず板の上にすとんと降り立つ。見事で不思議な伝統芸。お正月や節句の折りの女の子の楽しみだという。直線距離なら東京よりも近いかもしれない。行ってみたい、と少し思った。
http://www.lifeinkorea.com/Activities/traditionalj.cfm#Nol-twigi

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30年後の防災力

2004年11月27日 | Weblog
地震に関するセミナーを受講
http://www.jishin.go.jp/main/index.html

京都大学防災研究所の林春男教授の危機管理についての講演。
 次の南海地震が起こる時期は、30年後の2035年を中心にその前後10年の期間。建物を耐震化するにしても、そのころにはもう使っていないであろう建物を補強しても仕方ない。地震を止めることはできないし、もので被害を少なくするのにも限度がある。一番大事なのは、そのころ社会の中心になっている世代に、災害発生時の対応を知識としてではなく考える力としての「防災力」を持ってもらうこと。
http://inpaku.dpri.kyoto-u.ac.jp/

2035年に私は80歳、息子たちは50歳前後。孫は、、、、。

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最後の学費

2004年11月25日 | Weblog
大学4年の長男から「最後の学費を振り込んだ」と連絡があった。

 就職も決まり、仕事を覚えて将来は独立したい、もっと大学で集中して勉強しておけば良かった、と妻に電話で話したらしい。今からでも遅くはない。
 それにしてもほんのこの間、合格、入学、アパート、とかけずり回ったと思ったのにもう卒業。何もしてやれなかったが、本人には唯一無二の大学生活として残ることになる。

ようこそ無事にここまで、と思う。

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故意の片道切符

2004年11月23日 | Weblog
「明日の東京便、2枚タダ券がある。」とメール。

 50歳男女の記名済み、だという。いかにタダだとて、その条件にかなう男女があるものか、と考えたら我らが夫婦はそろって「数え50歳」。こりゃいける。
 だけど片道しかないって、言うじゃない。どうすんの、ただで東京へ行きっぱなしになって。帰りはどうしてくれる。逃避行とかいうならいいけど、そんな身の上でもなし。しぃばらく考えて、諦めた。

 が、諦めきれない。50歳男女の記名済みタダ券、おもしろい使い道はないものか。

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草テニスにも韓流?

2004年11月22日 | Weblog
普段と違うテニスコートに行った。

 サークルのメンバーが、ホームステイで預かっている韓国の青年を連れてきた。ソウル大学の4年生で、まもなく卒業し兵役に付く前に日本各地を旅行している、という。
 ソウル大学と言えば難関名門と聞く。英語が出来て、日本語も語彙は少ないがごく自然に会話が出来る。こちらは英語が出来ず韓国のことは何も知らず方言丸出し。大学では毎週土曜日朝から晩までテニスをするらしく、日本にも道具一式を持ってきたとのこと。

 名門大学を卒業し、2年ほどの兵役に付く前に日本各地を旅行し、今日たまたま我々とテニスをする。彼の人生の中でどんな1日として残るのかしら、と思った。彼の姓はヨン様ではなくヨ君だった。


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633美の里

2004年11月20日 | Weblog
むささびのさと、と読みます。

 間伐作業で旧吾北村上八川に行った帰り道、時間に余裕があったので立ち寄りました。
 http://www.skr.mlit.go.jp/road/rstation/station/633b.html

 こんにゃくとよもぎ、こんにゃくとそば、で作った「お焼き」のようないかにも山の食べ物があり買ってきました。車で乗り付けてあわただしく買って帰るような雰囲気のものではなく、鉄板であぶってくれたのをゆっくりその場でほおばって暖かいお茶でも飲めばよかったのですが、市内に帰ってからのラッシュが気になりすぐ出発。ちょっと残念。

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78歳現役と隠居じいさん

2004年11月14日 | Weblog
あいついで老父の旧制高校時代の級友の方々が尋ねてくださった。

 おふたりとも78歳を過ぎた今でも第一線で活躍されており、隠居して家から滅多に出ない父とは雲泥の差がある。ぴったり時間を守って行動するし、パソコンも平気で操作する。というよりそうしないと間に合わない、ということかもしれないが。

離れていても会えば当人同士学生時代に戻れることは、我が身に置き換えても得心できるが、身を翻すようにして次の予定地に向かわれるお二人を見送ると、その後に何かが遠くなる感じがする。祭りの後の寂しさは、云々という歌詞が吉田拓郎にあったっけ。
 

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変わらないものは、ない、弐。

2004年11月12日 | Weblog
エラリー・クィーンの小説で思い出した。

 大学5年間で私が読んだ本は、エラリー・クィーンだけだった。阪急雲雀丘花屋敷駅に近い下宿の頃は、梅田の紀伊國屋書店や旭屋によく行って、文庫本新書版を買いあさった。
 芦屋の国道2号線が業平橋を渡るあたりに下宿していた頃は、三宮の本屋をまわり、日本語で出版された本は全て読んだ。バイトをする他は、大学にも行かずエラリー・クィーンを読むだけ。だったような気がするが、今、そのあたりを歩いてもとんと思い出せない。

 芦屋の下宿先は、広い庭のあるお屋敷の書生部屋だったが、今回尋ねたら敷地全部が高層マンションに化けていた。2号線を神戸市東灘区にむけて歩くが、見覚えのある建物が全然無い。通った銭湯の場所もわからない。パチンコ屋はかすかに憶えているがそばにあったであろう他の店が思い出せない。
 定食屋はもとの場所にあったが、震災後間口一杯ではなく、少し引いて建てなおしていてわびしげな様子だった。何か丼物でも食べたかったが、そこまでたどり着いたときは午後3時を過ぎていて「準備中」の札が下がっていた。

 同じ場所に、同じ人間が来たはずが、前と同じものは何もない、と思った。

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大雨、大雨漏り

2004年11月12日 | Weblog
明け方から、雨音で目が覚めるほどの大降りになった。

 次男を学校に送り届けたところへ、「雨漏りがしだした」と電話。家を出たときは何ともなかったのに。ラジオでは時間雨量が68ミリあったとか、道路や鉄道の不通を伝えている。引き返そうとするが道路が冠水したらしく、普通ならラッシュでも30分のところが1時間半かかった。
 帰り着いてみると、家の北東の角の天井と壁面の境目から何カ所もぽたぽた水滴が落ちていて、バケツや洗面器、ゴミ箱を総動員しても受けきれず、妻がゴミ袋の中にタオルをまるめてスポンジのようにして受け止めていた。 管理している不動産業者に連絡したが、あたふたしている間に雨が小止みになって雨漏りも収まった。

 午後仕方なく仕事に出かけた留守中に、大工さんがきて屋根を点検してくれたが、瓦には異常がなく屋根の排水を越える量の雨が降ったためではないかとのことだった。とりたてて対処の方法もない、と聞かされ、また雨が降ったら同じ事の繰り返しか、と布団をぬらされた末っ子はげんなり。 学生の頃下宿で読んだ、エラリー・クイーンの「災厄の日」という小説を思い出した。

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変わらないものは、ない、壱。

2004年11月07日 | Weblog
文化の日、卒業した大学から「文化祭とホームカミングディへの案内」が届いたので、10数年ぶりに母校を、そして卒業して25年はじめて下宿先を訪ねる事にした。

 朝一番伊丹空港におりて阪急蛍池駅に行くべきところ、間違えて阪急伊丹行きのバスに乗ってしまった。気がついてJR伊丹駅前でおりて、JR宝塚線(旧福知山線?)で川西池田に。結果としては最初の目的地=阪急川西能勢口駅につくことは出来たが、なんだか出だしからして寝ぼけたような気分。

 駅周辺が阪急線高架工事で再開発され、もとの町並みがどんなだったかまるきりわからない。よく行った食堂、うどん屋、散髪屋、銭湯、どれひとつ見つからない。

 坂道を登り、高校を出て最初に世話になった下宿のある「花屋敷」に向かう。坂を上りきったところに30年前は商社兼松江商の社員寮とそのテニスコートがあったはずだが、その区画全部が低層集合住宅群のきれいな町並みに化けていた。青い空の下に白い壁がまぶしいくらい。

 その前の路地を入ったところに2階建ての下宿があったのだが、その場所には普通の庭付き住宅が建っていて、表札は当時の家主さんの名字と別の名字が並んでかかっている。病気療養中だったご主人が私が下宿している間に亡くなり、奥さんと二人の娘さんのどちらかが結婚後同居しているものと思われる。

 大家さんの家の前の角を曲がったところに「神戸屋のパン」の看板がかかった店が残っていた。もう廃業しているが、建物と看板は残っている。お金がなくなると、この店でパンの耳を一袋10円で買い、数日しのいだことが何度もあった。

 この日歩き回った中で30年前と変わらない、と確信できたのはこの看板だけだった。

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