松岡正剛のにっぽんXYZ
このブログはセイゴオ先生の古くからの友人「なんでも知ってるタカハシ君」のブログと並行して展開します。
そちらもお楽しみください。また初の教室形式のブログ、みなさんと一緒に学ぶのはキラキラの7人娘「なにわセブンローズ」!
01 東アジアと倭国(7)
02 仏教世界観(6)
03 「日本」の出現(6)
04 内裏と摂関政治(6)
05 真名から仮名へ(6)
06 生と死の平安京(6)
07 院政と源平(6)
08 歌枕と今様(6)



今様を歌い踊った白拍子たちは可憐な男装でした。日本ではこのような男女の取り替えは、神聖な神の出現ともとらえられたんです。神聖な神に奉仕した巫女たちは、また、遊女でもあった。その遊女たちの今様に、時の最高権力者、後白河法皇がぞっこん惚れこんでしまったわけですね。最下層の遊女とトップの法皇が繋がる。これが日本文化のおもしろいところです。

今様を全国的に流行らせたのが、この遊女たちでした。当時、遊女はどこにいたかというと、各地の交通の要所にいたんです。中世は川や海の舟を使った交通が中心だったので、遊女たちは、港や宿場などに集まっていた。舟をねぐらとして西は博多から東は房総半島まで活動していた彼女たちによって、今様は全国に伝わり大ブレイクします。

その交通の要所の一つに、信州と関東への道の分岐点、伊勢湾につながる交通の拠点でもある岐阜県大垣市の青墓(あおはか)があります。この青墓の宿には諸国の芸能者が大勢集まっていた。ここから出た乙前(おとまえ)という遊女の歌と舞いが、都でも大評判をとります。

保元の乱の翌年、後白河法皇はすでに70歳を超えていたこの乙前の今様を聴いて大感動したんですね。なんとそれから10年以上、乙前に今様を習い続けた。そして乙前の死後、後白河法皇は、今様の唄い方と歌詞を残そうとして編集したのが、『梁塵秘抄』だったわけです。

今様を歌う白拍子たちは、覇を競う武家の棟梁たちも夢中になります。『平家物語』には平清盛が愛した、祇王(ぎおう)と仏御前という白拍子の哀感にあふれる話が載っている。平清盛に対抗した源義朝も、白拍子の常盤御前を妻にしました。その子、源義経もまた、静御前という白拍子を愛した。

静御前は、平氏滅亡の後、頼朝に追われて逃亡した義経と離ればなれになった。頼朝に捕らえられた静御前は、義経を思慕した歌を頼朝と北条政子の前で歌ったといいます。それを伝える「静御前の舞」が今でも鎌倉八幡宮で毎年奉納されているんですね。

後白河法皇、清盛、義経と、みんなこの白拍子がみせる新しい動向にほれていった。この「今様」には、大きく分けて3種類のテーマが歌われているんです。神仏への思いを歌った歌、流行を歌う歌、そして庶民の感情を歌う歌ですね。神仏を題材にしたものが一番多い。例えば、こんな歌があります。

「仏法弘(ひろ)むとて 天台麓に跡を 垂れおはします
光を和らげ 塵となし 東の宮とぞ 斎(いわ)れおはします」

これは、琵琶湖に臨んだ日吉大社の功徳を唄っているものです。仏法を広めようと、仏が日本人に親しい神に姿を変えて教えを説く。本来の仏教が光のように見えにくいので、塵になって分かりやすく説いてくださる、と言う意味です。このような仏が日本古来の神になって教えを説くことを「和光同塵」といいます。

2番目は、流行のものをあつかった歌。これがちょっとおもしろい。
「武者の好むもの 紺よ紅 山吹(やまぶき) 濃(こ)き蘇芳(すほう)
 茜寄生樹(あかねほや)の摺(すり) 良き弓胡ぐい(やなぐい)
 馬鞍(くら)太刀腰刀(こしがたな) 
鎧兜に 脇立(わきだて)籠手具(こてぐ)して」

まるで早口言葉みたいですね。これは当時の武者の好みを連ねた歌なんです。貴族が淡い色を好んだのに対して、武者たちは濃い色合い、目にもあざやかな紺や紅などの派手で目立つ色彩が好みだったんですね。

そして3つ目の大事なテーマが、人々の日常を歌ったもの。
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」

『梁塵秘抄』の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。こういった内容を歌にした歌謡は、今までなかった。流行や人々の気持ちを歌う歌は、今様で初めて現れたわけです。

さあ、このにっぽんXYZでは、これまで古代から中世の始まりまでを見ていく中で、歴史的な事件だけでなく、時代がもつ文化のモード、コードをかなりじっくりと見てきました。いかがでしたか。

平安時代の最初のころでは、漢詩と和歌がまだ並列していました。次に女房たちが現れて物語などをつくり、平仮名が出現し、たいへんに流行しましたね。そして『方丈記』では、日本語というものの記述が変化してきた。

これらを言い直すと、貴族、公家とか、あるいは天皇が担っていた日本の文化が、『山家集』、『方丈記』では、個人の、自分の心の中に映ったものになり、また今様が民衆のものであったように、だいぶ変わってきたということです。平安時代が終わり、鎌倉時代を迎えると、ここから新しい鎌倉の感覚が出てくるのです。それは一言でいうと「リアリズム」というものでした。仏像が表情を持ったリアルな彫刻になり、似絵(にせえ)という写真のような絵画が出てきます。

貴族から武家へ、時代の担い手が変わるとともに、人々の感覚も平安王朝のベールの優美さを脱ぎ捨て、写実の芸術がもたらす迫真の像を求めていくわけです。このように時代の変化は文化のありようと関係している。それも一様ではなく、力を担う階層の変化や国際的な状況など、そのときどきのバイアスが相互に組み合わされているんです。こういった表現と時代の関係を読み解くことは、現代を考えるときにも大きなヒントになっていくんですね。

【「にっぽんXYZ」は今回で、ひとまずお休みをいただきます。ご愛読をいただき、ありがとうございました。】




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街のCDショップには所狭しとJ-popのアーティストやアイドルのCD、DVDが並んでます。今ではネットで買う人も多いですね。こういうものを日本では「流行歌」といいます。では、流行歌はいつごろからあったと思いますか? 実は平安時代のころからあったんです。

平安時代のころは、流行歌のことを「今様(いまよう)」と言っていました。「新しい」という意味です。また、「ファッショナブル」という意味もあるんです。平安時代、流行歌を琵琶など当時のいろいろな楽器を使って歌う歌手がいました。しかも、ファッションについても、新しいもの、面白いもの、際立ったものをつけていたのです。今のアイドルや歌手と同じですね。

さあ、中世を迎えた日本の文化の変動を見てきたXYZの最後は、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』です。これは今様の歌謡曲集、つまり平安のポピュラーソングを記録した作品集なんです。『梁塵』とはまた難しい字ですね。どういう意味でしょうか? 

「梁」というのは、建築を支える横木、「はり」のことです。そこに「ちり」がたまる。むかし、中国にテノールかバリトンか、すごい歌手がいたんですね。パヴァロッティとか、ドミンゴみたいな人。歌うと、その響きで建物の梁の塵が動いて3日間、舞い続けたといいう。その故事にちなんだものです。つまり、「梁塵」というのはすばらしい歌のことをいうんですね。それをパッケージソフトにした。

この今様、すなわち、かっこよく、新しい、ニューウェーブ、ニューミュージックとしての歌謡を歌っていたのは、民衆であり、しかも遊女のような人がたくさん歌っていたのですが、これに注目したのが、なんと源平の争乱のまっただ中で画策した、あの後白河法皇だったのですね。『梁塵秘抄』は、法皇が編集した歌謡集なんです。

戦乱の世にありながら、後白河法皇は十代のころから今様に夢中でした。「今様を好みて怠る事なし。昼はひねもすうたひ暮し、夜はよもすがら唄ひ明さぬ夜はなかりき」と自ら『梁塵秘抄口伝』に書き残すほどだったのです。

この『今様』は、七五調で、これまでにない調べだったんです。日本の歌謡の記録は、『古事記』や『万葉集』が、全国の民謡や宴会の歌などを記したのが始まりですね。平安時代には、各地の神社で歌われた「神楽歌」や地方の民謡を宮廷風に洗練して歌った「風俗(ふぞく)」、それを中国の音階に合わせて歌曲とした「催馬楽(さいばら)」などが残されています。

ところが、律令体制が崩れ始めると、宮中の音楽家が、武家が支配している荘園や、自立し始めた村落に招かれて、地方の音楽や歌詞の指導を始めた。宮中の音楽が形を変えて広まっていくんです。これを受けて民衆の歌謡のリーダーとなっていったのが、村落の芸能、「田楽」を指導した田楽法師や、神楽を舞い唄う巫女からシンガー・ソングライターとなっていった白拍子(しらびょうし)です。この白拍子たちが唄い舞ったのが、「今様」でした。

歌と踊りができるエンターテナー、「白拍子」。それは、今の宝塚歌劇団のような男装の麗人だったんですね。このころ、最も格好のいい女性たちでした。金の立烏帽子をつけて、純白や朱の、あるいは目にも綾な織物の水干(すいかん)姿で、大和絵の桧扇を持ち、白鞘巻の太刀を下げて舞い踊ったんですね。

日本の社会とか文化を考える場合、「例」と「今」の二つの言葉で見るといいですね。「例」はこれまでどおり、従来のこと。「今」は従来を破ること。新しい。「今様」は、つまり、新しい音楽であり、新しい風俗であり、新しい文化だったんです。しかも身なりも白拍子。男振りをする変わった格好です。これに貴族も民衆も、武家も僧りょも夢中になっていったんですね。

【次回は11月30日(火)、08 歌枕と今様、Z=梁塵秘抄の2回目です】

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後鳥羽法皇は、鴨長明に神官としての生活を保証しようとしたのに、長明はこれを断ってドロップアウトした。長明は、いったい何を考えていたのでしょうか?

保元の乱が起こる前、白河法皇らは、都に巨大な六勝寺や鳥羽殿を建設しましたね。でも、これは源平の争乱ですべて灰になってしまったんです。戦乱が収まると、後鳥羽法皇はまた京都をきらびやかに再建しはじめますが、こうした俗世間が素晴らしいと思う大掛かりなものはすべて滅びるんですね。それでは、人がなしとげられることはほかにないのだろうか。長明は生き方を変えて、それを探すことになります。

鴨長明が身を隠したのは、比叡山のふもと・大原の地でした。実は、長明にはあこがれの人がいたんですね。それは大原に住む三人の兄弟でした。「大原三寂」と呼ばれた寂念、寂超、寂然という元貴族で遁世した出家者が、「数寄」の道を極めようとしていたんですね。

もとは藤原為経(ためつね)といった寂超が歌った歌に
「ふるさとの 宿もる月に こととはん 我をば知るや 昔住みきと」
があります。荒れ果てた家に帰ると、月が守ってくれていたようだ、その月に私が、昔、住んでいたことを知っているかと聞いてみよう、という意味ですね。その生き方は、身のまわりから、世俗が尊ぶすべてを捨て去り、わびしい生き方を貫くものでした。長明はこの大原三寂の後を慕って、大原に入ったんです。

日本の文化を考えるときには、先行しているモデルがあって、それを誰があこがれて、まねをしていったか、ということを見るのが大切ですね。長明は大原三寂のわびしい生き方をまねようとした。この長明の生き方をまた、あこがれる人々が後に出てくる。これが日本の文化のあり方でもあるんですね。

60歳に間近くなった長明が、大原の後にさらにわびしい生き方を貫くために選んだのが、日野山に小さな方丈の草庵での寂しい生活でした。そこで『方丈記』を執筆します。晩年の長明はそこに何を書いたのでしょうか?

前半では、1177年、長明が23歳の時の大火をはじめ、そのころに都を襲った5つの天変地異をたいへん具体的に記しています。最初の大火事、平安京の3分の1を焼き尽くしたという大火については、
「風烈しく吹きて静かならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りて、いぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。」と書き始めている。また、1185年、壇ノ浦で平家が滅亡した後の7月に起こった元暦の大地震については
「そのさま、よのつねならず。山はくずれて河を埋(うず)み、海は傾(かたぶ)きて、陸地(くがち)をひたせり。」と書いているんです。

どうでしょう。まるでニュースを伝えるアナウンサーのような冷静さですね。こういったリアルな表現は、これまでにないものだったのです。長明はこの淡々とした記述を通して、人の世の無常というものを明らかにしたんですね。そして、この大地さえ傾く時代に、権力者や金持ちのような世俗での成功者に依存するのはどうかしている、と、後半では方丈の閑居の一人の生活を書き記し、自立して生きる決心を描いているんです。

長明はどうして最後にこんな寂しい暮らしを選んだのでしょうか。このころから「寂しさ」というものが、新しい哲学、新しい美意識、新しい生き方になっていたのです。ふつう寂しさとは、賑やかに比べて、非常に暗いとか、一人ぼっちということですが、日本人はこのころに「さび」ということを考えた。

よく「わび・さび」と言いますね。「わび」というのも「わびしい」で「さびしい」とちょっと似ています。長明は人間の生活から不要なものを削いで現れた寂しい空間こそ、自由な空間であるとした。そこに生まれる美意識として、「さび」ということを考えたんですね。長明のあと、鎌倉時代後期に吉田兼好が『徒然草』を書きます。兼好もやはり隠棲、遁世をして出家を試み、そして自分が寂しい世界に入っていくわけです。

寂しいといろいろなものが透いて見えるのですね。よく見える。浮き立つような世の中にいないことによって、人間や存在、歴史の本質を見ようという、そういう姿だったわけです。鴨長明や吉田兼好の文章は、たいへん大事な視点を残してくれたのですね。

【次回は11月27日(土)、08 歌枕と今様、Z=梁塵秘抄の1回目です】


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日本の変革期である12〜13世紀を、文化から見ていくXYZのYです。2番目のここには『方丈記』を選びました。『方丈記』はだれが書いたかわかりますね。鴨長明(かものちょうめい)です。1212年、長明が58歳ごろに書かれた作品で、『方丈記』という書名は、長明が晩年に住んだ京都の南東、日野山の草庵にちなんだものです。大変に有名なエッセイの古典ですが、たった8000字、400字詰めの原稿用紙で20枚ぐらいの短い文章なんですね。

でも、この8000字のコンパクトなエッセイの中には、日本の中世の大事な考え方、「無常」が入っていました。無常、常ならないもの。うつろうもの。世の中というものは、決して一定ではないという歴史観、価値観が書かれています。長明は桂流の琵琶の名手でもあったんですね。その琵琶を弾きながらこのエッセイが綴られた場所、方丈の庵とは、どのようなものだったのでしょうか?

方丈とは、一辺が一丈の正方形を言います。一丈はおよそ3メートルで、六畳間よりちょっと小さいくらいですね。長明の住んだ庵は、その一間にをこんなふうに使っていたと考えられています。東には庇(ひさし)を出して、その下で柴を燃やし、その近くが、煮炊きをするキッチン、部屋の西側が、机を置いたリビングと壁に阿弥陀の像を掛け、前に法華経を置いた仏間スペースで、日が暮れると東に蕨を敷いて寝室となる。という具合です。しかも全体は解体して荷車で運べるようになっていた。

長明は『方丈記』でこの庵のことを「老いたる蚕の繭をいとなむがごとし」と紹介しています。方丈に持ち込まれた持ち物は、和歌、音楽の本、『往生要集』などの冊子に琴と琵琶。後は衣類と食器類だけだったんですね。しかし、この方形の小さな空間は、現代に至る日本人の住居、和風建築の原型となっているとも言えるんです。普段は居間のように使って、寝具を敷くと寝室になり、台所があって、仏間がある。

王朝時代以来、多くの権力者が建てた豪華な住居は、ほとんどが滅びていますね。しかし、鴨長明の方丈に表された簡素な住宅様式は、日本人に根づいて、現代にまで継承されているんです。

こういった長明の感覚とは、いわば「数寄(すき)」の感覚なんですね。「すき」とは、髪を「梳く」の「すき」であり、紙を「漉く」、耕す「鋤く」、とか、光が「透く」とか、それから「好き」の「すき」である。そういう「数寄」。つまり、長明は徹底的に余分なものを捨て、本当に心惹かれるものだけに、すいてみせたわけですね。

「ゆく河の水は絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。
有名な『方丈記』の出だしです。川の岸辺に立って、水の流れを眺めていると、目の前の水は流れ去り、そして新たな水が流れてくる。いつも同じように見えるけれども、さっき見た水と今見る水は違っている。時代の流れも同じなんですね。つい先頃までと、今では町の景色は同じように見えるけれども、実は全く違ってしまっているかもしれない。この『方丈記』の「ゆく川」には、長明の一族が神官を務める京都下鴨神社に流れる川、御手洗川のイメージが重ねられているんです。

鴨長明は、もともと京都・下鴨神社(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)の有力な神官の出身でした。京都の東で、賀茂川と高野川が合流して鴨川になりますが、その2川が合流するY字状のところに下鴨神社があります。長明は、保元の乱が起こる前年の1155年ころ、この下鴨神社の神官の家の次男に生まれたんですね。鴨の一族は王朝以前から京都盆地の鴨川流域を開発した古い豪族で、代々、京都の水を守る鴨神社の神官を勤めていたんです。御手洗川とは、下鴨神社の森に流れる、京都の水への祈りが捧げられた神聖な川でした。

源平の争乱の激動を世の中が迎える中、名門に生まれ、豊かな生活をしていた長明も運命にほんろうされます。19歳の時に賀茂御祖神社のトップであった父が亡くなると、一家は急速に零落し、長明は一族の厄介者になってしまうんです。長明は、一般に普及し始めた琵琶を、名演奏家として知られた中原有安に学び、和歌を摂関家の指南でもあった源俊恵(しゅんえ)から学んだ。武家の世になっていく変動期に、鴨長明は芸道をめざしたんですね。

鎌倉幕府が始まり、再び平和が訪れると、後鳥羽法皇による勅撰和歌集、『新古今和歌集』の編集が始まります。30代からすぐれた歌人として認められ始めた鴨長明は、『新古今和歌集』の編集者に選ばれた。精力的に活動した長明の働きを認めた後鳥羽法皇は、長明を下鴨神社末社の河合社の神官に任命しようとします。ところが鴨の一族のトップである下鴨神社惣官の鴨祐兼(すけかね)が反対し、これが没になってしまうんですね。しかし、法皇は長明のために、さらに別の小さな社(やしろ)を国家が保護する神社に昇格させて、その神官としようとするですね。これは大変な厚遇と言えます。

新たな神社を得ることは、一族全体の勢力増大になるため、今度は反対が起こらない。ところが、鴨長明はこれを拒否して、雲隠れしてしてしまうんです。ここから先、長明は世間の栄達をすべて打ち捨て、遁世の道を歩んでいくんですね。

【次回は11月24日(水)、08 歌枕と今様、Y=方丈記の2回目です】


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西行の最初の長旅は、陸奥の歌枕の地を巡るものでした。歌枕とはなにか、知っていますか? 万葉集以来の古い歌が詠まれた土地の名前や景色を言うんですね。歌枕は、「吉野」と言えば「桜」で、「竜田川」と言えば「紅葉」というように、連想される言葉をもったキーワードであり、その景色にひそむ物語が取り出せるデータベースでもあるんです。そのため、歌枕は絵画の画題になり、着物の文様にもなっていきます。

また、歌枕の地を訪れ、その景色に触れることは、古い歌とともにそれを詠んだ歌人の人生をよみがえらせることでもあった。西行はかつて歌枕を巡って全国を旅した平安中期の歌人・能因(のういん)法師、あるいは陸奥の歌で都人を感動させた藤原実方(さねかた)らの足跡をたどって、陸奥に向かったんです。

陸奥の入り口、白河の関を訪れた西行には、まず能因法師のこんな和歌が脳裏に浮かぶんですね。
「都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」

西行はそのイメージを引き継いで、こう歌を詠んだ。
「白河の 関屋を月の 漏るかげは 人の心を とむるなりけり」
白河の関では月の光に能因法師の心がとどまっているようだ、と歌ったんです。

今でも旅行で史跡に行くと、そこの景色にある物語を知ろうとしますね。実はこんな旅先の光景の見方をするのは、歌枕を巡る伝統がある日本人ならではなんですね。

西行は陸奥という、いわば究極の外に向かったように、世間から離れ、戦乱から離れて自分の心を静めていく。このような西行の気持ちが、歌集『山家集』にたくさん残っていますが、こういうものを「風月を友にして」と言います。風と月を友にして自分の日々を送っていくんです。でも、この西行の生き方がだんだん注目されていったんです。

また、ちょっと意外なところで西行の力が発揮したりもしています。高野山で修行していた西行が書いた書状が今も残されていて、そこには、西行が高野山に命じられた木材の拠出を時の実力者・平清盛に頼んで免除してもらったことが記されている。つまり、西行は北面の武士時代の人脈を生かして、高野山の苦しい経済を助けたんですね。

西行には一方で、戦乱に亡くなった魂を鎮める修験者としての顔があります。西行が高野山に住みなれたころに、保元の乱と平治の乱が立て続けに起こった。乱の後、50代の西行は、中国、四国を巡る2度目の長旅に出るんですね。旅の目的は保元の乱で敗れ、讃岐に流されて亡くなった崇徳上皇の霊を慰めるためでした。そして、今の香川県坂出市にある白峰で、荒れ果てた上皇の墓を発見して、あつく弔います。西行はそのとき
「よしや君 むかしの玉の床とても かからんあとは 何をかはせん」
と詠んでいる。かつては豪華な寝床に伏した方が、今は荒れ果てた墓に眠っておられる。こうなったからには、仏の導きに従ってください、と、その魂をなぐさめている。

さらに西行は、平氏が滅亡した壇ノ浦合戦の翌1186年、70歳になろうという時に、最後の長旅に出ます。平氏が焼き払った東大寺の復興に立ち上がった僧・重源(ちょうげん)の求めで、資金や材料の寄付を集めるため、東国に向かったんですね。関東の源頼朝、奥州の藤原秀衡を尋ねながら、西行はこの晩年の旅でも、源平の争乱に敗れた人々の霊魂を弔ったんです。

西行には花の歌が多かった。当時は花といえば桜ですが、230首くらいありますね。そのほか、月の歌、鳥の歌も多い。西行は常に雪月花、花鳥風月というものを旅の中で歌いました。これらには何か共通するものがありますね。そう、すべては変化するもの、うつろうもの。花は散っていく、水は流れていく、鳥は飛び去る、風は吹き抜ける、月は満ち欠けをする。

こんな歌があります。
「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」

花が散ってしまって、自分がみた夢がどこに行ったかわからないのにまだ胸騒ぎがする。何もないかもしれないような、そういうものに西行は心を託したわけですね。西行は現実も夢もその境を区別しなかった。だからこそ、源平の争乱の後、現実の苦難を顧みず、死者の霊を慰めようとして武者が引き起こす戦乱の悲惨を引き受けていったのです。

陸奥から戻った西行は1190年、河内の弘川寺(ひろかわでら)で73歳で亡くなりました。以前、西行は
「願はくば 花の下にて われ死なん その如月の望月のころ」
と歌っていたんですね。その歌の通り、ちょうど如月の満月のころの旧暦2月16日、春の桜の下で、花月を友とした西行は、亡くなっていったのです。

【次回は11月20日(土)、08 歌枕と今様、Y=方丈記の1回目です】


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さあ、ここからは、平安末期から鎌倉時代へと、中世日本が大きく変わっていった時代を文化から見ていくXYZです。その3つは『山家集』『方丈記』『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という文芸の作品。まず最初のXは、西行という歌人の『山家集』を取り上げましょう。西行は平清盛と同じ1118年に、京の武官の家に生まれたんですね。平清盛と西行、まったく違った生き方をした二人ですが、その若き日の二人は、武士として実はたいへんよく似た道を歩んだんです。

西行はもともとの名前を佐藤義清といいます。平将門を討伐した俵藤太秀郷の子孫でした。代々、今の和歌山県に荘園を経営し、宮廷では京都の治安を守る検非違使の武官を勤めた家柄です。18歳のときに義清は、鳥羽上皇の親衛隊である北面の武士に選ばれたんですね。以前お話ししたように当時のたいへんなエリートコースです。ところが義清は、23歳の時に、この前途洋々たるコースを突如として捨ててしまう。武士を辞めてしまうんです。

義清は武士の栄達の道を捨て、出家の決心をしたんですね。その決心は固く、世間への思いを断ち切るために、娘を足蹴にして家を出たなどといわれているほどです。出家の原因には、親しい者の死や自身の悲しい恋、あるいは親しく崇徳上皇らが不遇に追いやられるのを目の当たりにしたためと、さまざまに言い伝えがあります。

義清は勝持寺に入り、僧となって「西行」と名乗ると、嵯峨や鞍馬など京の近くの山々を転々とするんですね。このころ人里離れた野や山には、摂関家から上皇、そして平氏や源氏と、目まぐるしく権力者が交代する世に無常を感じて、出家をして俗世を離れる人々が次々と現れていたんですね。西行もまた、その一人となった。出家というのは、仏門に入って毎日念仏を唱え、そして心を清めようとすることです。

その時に西行が選んだ次の生き方は、「歌と旅」だったんですね。「花」、「月」、「風」、「鳥」、「水」という自然の中に自分を置き、心を澄ましていく。ようするに執着(しゅうじゃく)、こだわりを捨てようとしたのです。このように歌をつくりながら、旅に生きる人生のように、好きなことをして生きていくことを「数寄」ともいいます。「数寄屋造」の「数寄」ですね。西行の旅、歌は「数寄の遁世(とんぜい)」ともいいます。「遁世」というのは「世を捨てる」ということです。世間を捨てる。

そういう遁世者には、世の外に出て、世の中を見る目が養われてきます。西行は、そのような外からの視線で世の中を見ようとする。出家後、桜で有名な吉野山を訪れた西行がこんな歌を詠みます。
「花に染む 心のいかで残りけん すてはててきと 思う我が身に」
出家して世を捨てたばかりなのに、どうしてこんなに桜の花に魅惑されるんだろうか、という意味ですね。

もうひとつ、こんな歌も歌っています。
「世の中を夢と見る見る はかなくも なほ驚かぬわが心かな」

「世の中ははかないものである。はかなくたって驚かない。それは当たり前なのだ。夢と浮世は境をなくしている」。西行はそういうふうに見定めていた。それでももう私の心は驚かない、こだわりは捨てている、という歌ですね。この西行の生き方は、のちのち日本人に大きな影響を与えたんです。それは日本の文化の一つの骨格をつくりました。江戸時代、松尾芭蕉が「奥の細道」を歩いたのも、この西行を慕ってのことだったのですね。

京の山奥にこもった西行は、伊勢などを訪れながらも、やがて高野山に移り、仮住まいの庵を本拠とするようになります。祈りと和歌づくり、そして行脚の日々に生き始めた西行が30代になったころ、和歌の面影を求めて、人生最初の長旅に向かいます。それが都から遠く離れた陸奥への旅でした。

【次回は11月16日(火)、08 歌枕と今様、X=山家集の2回目です】


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頼朝に先んじて京都に入った源義仲でしたが、もともと政治力に欠け、朝廷との折り合いが悪かったんですね。そこに後白河法皇が頼朝に接近を図ったんです。義仲は怒って法皇を幽閉してしまう。これを義仲を討つチャンスとみた頼朝は、即座に行動に出た。1184年1月、弟の源範頼を総大将とした6万の大軍勢が京都に向かいます。その先頭を切ったのが、これも頼朝の弟、源義経でした。

平治の乱の後、清盛に敗れた源義朝の遺児として鞍馬山に送られた牛若丸こと義経は、自分の素性を知ったのち、平泉の奥州藤原氏三代の藤原秀衡(ひでひら)の元に行って保護され、平家打倒の機会を待っていたといいます。1180年の頼朝の挙兵の知らせを聞くと、すぐに奥州から兄の下に駆けつけたんですね。

東国から京都に入る場合、防衛ラインとなるのが宇治川です。橋を落とされた川の対岸で義仲軍に対峙した2万5千騎の義経軍は、凍り付くような真冬の宇治川を馬で渡り切り、勢いに乗って大勝した。義仲は京都から逃れる途中の近江国粟津(大津市)で討たれます。この義仲との戦いが幾多の伝説を残す戦の天才、義経のデビュー戦でした。

西海を抑え、福原まで上ってきていた平氏の軍勢は、東は生田森(いくたのもり)、西は一ノ谷に軍陣を構えて都の奪還を狙っていたんですね。法皇から今度は平氏追討の院宣(いんぜん)を得た範頼・義経軍は、すぐさま福原を攻撃した。有名なひよどり越え、一ノ谷の合戦です。背後を守るとんでもない崖の上から、坂落としで奇襲してきた義経軍に、平氏軍は四国の屋島(高松市)に退却。しかし、ここも今度は陸づたいに襲ってきた義経軍に海上に追い立てられる。すでに制海権を失っていた平氏は、1185年3月、いよいよ壇ノ浦(下関市)、源平合戦最後の戦場に追いつめられていったんです。

平氏が一族の存亡をかけて臨んだ壇ノ浦の合戦でしたが、攻め入る源氏は、潮の流れを味方につけて平氏を圧倒した。平氏は追いつめられ、まだ8歳の幼い安徳天皇は祖母の二位尼(にいのあま)に抱かれて入水(じゅすい)し、この日、一族のほとんどが海に消えていった。平清盛が太政大臣となったわずか18年後に平氏は滅亡したんです。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす」。ご存じ『平家物語』の冒頭ですね。栄華の絶頂にあった平氏がたちまち亡んでしまった。これは日本人に大きなショックを与え、盛んな者は必ず滅びるという無常観が広まっていきます。

『平家物語』は、この平氏の興亡のありさま、政治や社会の成り行きというものを盲目の琵琶法師たちが語り歌いながら、物語として編集していったものです。たいへん悲しい響きの歌ですが、庶民の台頭期である中世の始まりに、この音曲からなる文芸は、貴族や僧りょといった知識層だけでなく、文字を読めない人々からも熱狂的な支持を集めた。いわば初めての国民文学となっていったんですね。

壇ノ浦とともに5年にわたる源平の争乱は終わりましたが、頼朝の全国的な臨戦体制はまだ続いた。なぜでしょうか? 平氏滅亡の後、後白河法皇は一躍ヒーローとなった義経に昇殿を許すなど厚遇し、一族の長である頼朝との間に緊張を生じさせるんです。兄弟を対立させて再び政治の主導権をとることを狙ったわけですね。しかし、結果は意外な方向に進みます。

頼朝は義経謀反を許したことで法皇に強硬な圧力をかけ、反対に義経追討の院宣を出させた。孤立した義経は変装して各地を逃れた末、奥州の藤原秀衡を頼って再び平泉に入ったんですね。優れた統治者であった秀衡は、子の泰衡(やすひら)らと知将の義経が協力することで、鎌倉の時代になっても平泉の独立が続くことを狙っていたのですが、秀衡の死後、泰衡は頼朝の圧力に負けて義経を襲い、死なせてしまいます。しかし、結局、頼朝は泰衡も許すことなく攻めて滅ぼしてしまう。1189年のこの奥州征討により、100年続いた奥州藤原氏は途絶え、東北は頼朝の直轄下に入るわけです。

頼朝にとってこの義経の探索は、全国に支配力を広げる格好な口実となった。源義仲を追いつめる見返りに東国の支配権を認めさせたように、頼朝の、あらゆる機会を利用して着実に幕府の基礎固めをする方法は、法皇よりも数段上だった、ともいえます。すでに平氏追討が始まると同時に、有力な家臣を国ごとの軍事指揮官である総追捕使(そうついぶし)として畿内各国に配置していましたが、義経の謀反事件をきっかけに、反乱防止として全国に「守護」と「地頭」を設置することを法皇に認めさせるんです。

国ごとに置かれた「守護」は、さきの総追捕使をパワーアップしたもので、犯罪者の処罰や京都の警護にあたる。武家による警察の全国ネットワークをつくったんですね。「地頭」は全国の荘園や国司が支配する国衙領ごとに置かれ、土地の管理や年貢の取り立てを行うものです。頼朝はこの守護・地頭を束ねる日本国総追捕使・総地頭となって、東北、関東、西国をすべて支配する実質的な武家の統治システムをつくりあげることに成功します。そして1192年、後白河法皇が没した後、頼朝はついに征夷大将軍に就任。武家政権としての鎌倉幕府が名実ともに成立したんですね。

頼朝を中心にした源氏の棟梁というリーダーのもとに、全国の人民と土地と軍事力が支配された。こういう仕組みのことを「封建」、あるいは「封建制度」といいますね。この封建制度は三つの要素からできています。ひとつは「一所懸命」、「一生懸命頑張る」と言いますが、本来は「一所」から来ています。ひとところに命を懸けること、つまりリーダーに「そこを守りなさい」と言われると、その場所を守り続けることが「一所懸命」なんです。次に「本領安堵(ほんりょうあんど)」。自分が与えられた土地をリーダーが安堵する、ゆるぎないものとして安定させるということ。そして、三つ目が自分が仕えている棟梁の御恩を必ず返すという「御恩奉公」です。これが鎌倉時代の領地の保証をめぐって成立した封建制度の仕組みだったんですね。

中世の始まりとともに、武者(むさ)の世へ向かった日本を「法皇、平清盛、源頼朝」のXYZで見てきました。みやびな時代がむき出しの力の世界へと劇的に変わってきたんですね。しかし、一方、まったく同じ時代に、強者の論理とは正反対の新しい感性が生まれているんです。

では、次のXYZで、まさに日本的といえる美意識やセンスを生んだ、三つの文芸作品の驚くべき影響力をお話ししましょう。

【次回は11月13日(土)、08 歌枕と今様、X=山家集の1回目です】


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「うぐいす鳴くよ(794)平安京」、「いいくに(1192)できた鎌倉幕府」なんて年号の覚え方は昔からありますね。400年に及んだ長い長い平安時代が、いよいよ12世紀とともに終わろうとしています。日本は12世紀末から13世紀で大きく変わる。これはぜひ覚えておいてほしいところですね。法皇、平清盛とみてきた変革期の日本のXYZの最後のZは、もちろん「源頼朝」です。

ご存じのように、頼朝は征夷大将軍となって鎌倉幕府をつくります。ずっと日本を支配していた天皇に対して武家の将軍が並ぶという新しい時代が始まるんですね。このとき天皇家のトップにいたのが後白河法皇です。この後白河法皇の力がだんだん弱くなり、幕府が生まれていくわけですが、そこには5年におよんで日本中が内乱状態になるという事態がありました。源平の争乱ですね。

平清盛は1179年、院近臣に広がった反平氏勢力との対立の末、後白河法皇を幽閉し、院政を停止させるというクーデターを行い、独裁政権の形をとります。翌1180年、後白河法皇の第3皇子、以仁王(もちひとおう)は、平氏を倒して皇位につくことを決意して、全国の源氏や寺社に平氏追討を命令するんですね。

その直後に以仁王は平氏によって倒されますが、これを引き金に、平氏打倒の動きが全国に広がっていった。以仁王の平氏追討令を受けて動き出した一人が、1159年の平治の乱で伊豆に流され、そこで20年の歳月を過ごしていた源頼朝でした。1180年8月、頼朝は伊豆から平氏打倒の兵を挙げ、各地で戦いながら南関東を移動します。その間に武家の領地を保証する政策を打ち出したことから、関東武士が続々と頼朝の下に参集した。鎌倉を本拠とした頼朝の軍団は、挙兵わずか2ヶ月後には関東全域を押さえたんですね。

もちろん平氏も指をくわえて事態を見ているだけではない。10月、東国を目指した平維盛(これもり)を総指揮官とする平氏の追討軍は、駿河の富士川を挟んで頼朝軍と対決します。ところが平氏軍は、夜半に数万の水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と勘違いし、あわてて全軍が退却してしまった。これが有名な富士川の戦いですね。頼朝はこのとき、西へと進まなかった。鎌倉に戻り、関東の独立政権をつくっていくんです。

こうして平氏打倒の兵が各地で内乱状態を生んでいる中、平氏軍は反平氏の拠点である奈良になだれ込んで、東大寺や興福寺を僧兵や民衆もろとも焼き尽くすという南都焼き討ちを行う。しかし、これで仏教にも敵対したとして、寺院勢力や貴族を一斉に敵にまわすことになってしまいます。平氏の総帥である平清盛は、この異常事態の中、翌1181年に熱病でこの世を去っていったんです。

もう一人、頼朝とほぼ同時に立ち上がった武家の棟梁がいました。木曽の源義仲です。義仲も以仁王の命令に応じて挙兵、北陸から京をめざしていく。まさに破竹の勢いで進撃し、1183年に、頼朝に先んじて平安京を制圧したんですね。平氏一門は安徳天皇を擁して西海に落ちていきます。しかし、すぐに平氏は滅亡の道を歩むわけではないんです。ホームグラウンドに戻った平氏は、瀬戸内海を中心にいったんは勢力を回復します。

この1183年ごろの段階では、関東を治める源頼朝、京都から中部・近畿を押さえた源義仲、西海で立て直し福原にまで戻ってきた平氏、という三つの勢力が拮抗していた。パワーを使って政治を行うことを「パワーポリティクス」といいますが、ここでパワーポリティクスを考えた人がいました。平氏都落ちの後、院政を復活した後白河法皇ですね。さあ、源義仲と頼朝と平氏、これらのパワーをどのようにしたらバランスよく自分の支配下に置けるのか。

その方策とは、源頼朝と義仲を戦わせ、平氏を都に呼び戻し、この三者の均衡の上に法皇の強力な政権を立て直そう、ということでした。武家の上に立つ王朝を再現したかったわけですね。そこで後白河法皇はまず、頼朝に接近します。頼朝の東国支配を正式に認める宣旨(せんじ)を出し、都を手中にした義仲を政治的に追いつめていく。法皇の狙いは果たしてうまくいったのでしょうか。

ここから源平の争乱は後半戦に入ります。そこに、もう一人の英雄が現れた。誰でしょう。そう、ご存じ源義経ですね。

【次回は11月9日(火)、07 院政と源平、Z=源頼朝の2回目です】


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1156年、鳥羽法皇が重態に陥ると、後白河天皇と崇徳上皇の院政の後継をめぐる対立は一気に緊迫します。上皇、天皇の間だけではなく、このときに起こっていた関白の座をめぐる摂関家の争い、藤原忠通と弟の頼長の対立も重なった。朝廷全体が真っ二つに分裂するんですね。両派は有力な武家を味方に引き入れることに必死になった。こうして北面の武士、武家の棟梁として台頭した源氏、平氏それぞれも上皇方、天皇方に分かれたんです。

父の死後、平家一門を率いて鳥羽法皇に仕えた平清盛は、後白河天皇方についた。叔父の平忠正は崇徳上皇方です。源氏も源為義は上皇方、子の源義朝は天皇方と、一族内で分裂した。7月2日、鳥羽法皇が死去した直後、ついに戦いの火の手が上がります。

10日、崇徳上皇らが立てこもる白河殿に源義朝・平清盛ら天皇方が夜討ちをかけ、たった2、3時間の猛攻で、あえなく上皇方は壊滅してしまう。最初に夜討ちをしようとしたのは、実は上皇方の源為義だったのですが、参謀の藤原頼長が「戦いにも礼節がある」と却下したんですね。ところが天皇方では、源義朝が立てた夜討ち案を参謀の藤原信西(ふじわらのしんぜい)があっさり採用した。上皇方参謀の藤原頼長は敗死、崇徳上皇は捕まって四国の讃岐に流されます。

ここに日本史上初めて、都が戦乱に巻き込まれた事態が発生したんですね。これを保元の乱といいます。しかし、これでは終わらなかった。武士の力がつよく認識された時代は、今度は武士団が主導権を握る戦いを生みます。英語でpowerは「権力」と「力」そのものをいいますが、このときから、まさにパワーとパワーがむき出しになった戦いが出現し続けるんです。この保元の乱では、まだ源平は敵味方に混じっていましたが、このあといよいよ「源平」に分かれた戦いが始まっていくことになります。

保元の乱で後継の座を手にした後白河天皇は、乱後2年で二条天皇に皇位を譲り、上皇となって院政を復活します。しかし、ここで勝ち組に分裂が生じるんですね。院政を取り仕切り、新たな改革を推進したのは藤原信西でした。平清盛は信西につきます。一方、上皇お気に入りで守旧的な藤原信頼と組んだのは源義朝でした。乱では結果的に大多数の親兄弟を殺された源義朝は、信西を恨むところが多かったといいます。保元の乱からわずか3年後、この対立に再び都が兵火に襲われることになる。これが平治の乱ですね。

1159年12月、平清盛が熊野詣に出かけて京を留守にした隙を狙って、信頼と義朝は兵を挙げ、三条殿を焼き討ちして後白河上皇と二条天皇を幽閉。これが乱のはじまりです。捕まった信西は自害させられた。こうして最初は信頼と義朝が圧倒的に先手を取ります。しかし、対する清盛は相当な策士であったんですね。京都に戻った清盛は、信頼に服従するふりをして油断させながら、幽閉先から天皇をなんと女装させて救出した。その瞬間から、信頼らは天皇を保護するという大義名分がなくなり、逆賊として追われる側になってしまうわけです。

源平両軍は互角の戦力だったといいますが、天皇を手中にした平氏に勢いが移り、最後は平氏軍の圧倒的勝利に終わります。義朝は殺され、義朝の残された子は伊豆に流されるんです。これがまだ13歳の頼朝だったんですね。このとき源氏の軍団はいったん壊滅します。

こののち、勝者平清盛は、めざましい昇進を見せる。平治の乱の翌1160年には武家として初めて公卿となり、1167年にはついに太政大臣従一位の地位を得た。日本で初めての武家政権樹立への道が開かれたんですね。

以前、平氏が信奉したのは、広島県・宮島の厳島神社だったと言いました。ここには国宝の「平家納経(へいけのうきょう)」というたいへんに美しい経典が収められています。奉納したのは平清盛で、1164年に平氏一族の繁栄を祈願してつくらせたものです。全33巻の装飾経は、表紙から金具、紐、軸に至るまで、この時代の最高の工芸技術が駆使されている。お経なのにありとあらゆるアートがついている。まさに日本各地の知行国や荘園を一門が手中にした栄華のあらわれでもあったんです。

清盛は武家の棟梁としての存在から、さらに影響力を持つために、摂関家に接近し、政権を担うための藤原氏的な外戚関係を天皇家と結ぼうとします。平氏の勢力拡大に対抗しようとする後白河法皇らを抑えながら、1180年に、高倉天皇の中宮となった清盛の娘徳子が産んだ子が安徳天皇に即位するんですね。こうして念願の天皇の祖父となった清盛は、名実ともに政権を完全に掌握したわけです。

清盛は、実は平安京を遷都しようと計画を進めていた。それはどこかわかりますか? いまの神戸市兵庫区の「福原」というところです。福原は古来からの貿易港・大輪田泊(おおわだのとまり)に近接した平氏一門の別荘地でした。1180年、まだ小さな安徳天皇を連れて、平清盛はここに国際貿易都市・福原をつくろうとしたんです。日本の都はこれまでもさまざまな企図で遷されてきましたが、清盛の計画もまた、日本を海を中心とした、海での交流に生きる国家としようとした、大胆な一手だったのですね。

しかし、貴族や寺院の反対もあり、半年も持たずに遷都事業は失敗、京都に都は戻ります。この背景にはすでに全国にひろがりつつあった在地武士の力を、一族だけに繁栄を集中した平氏が集めることができなくなっていたことがあります。平氏のパワーは時代の中心からはずれてしまったんですね。

さあ、ここからが源平合戦の始まりです。海を中心にした平氏政権は、陸を馬で戦おうとした源氏に追いつめられていくことになるのです。

【次回は11月6日(土)、07 院政と源平、Z=源頼朝の1回目です】



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最初の武家政権をつくった平清盛、みなさん、もちろん知っていますね。清盛については、平家物語の「おごれるものは久しからず」や、「盛者必衰のことわり」など、平家滅亡のシーンがよく記憶されていますが、この平清盛が統治者として実際に考えていたこと、推進したことには、もっと注目したほうがいい。

その一つの大きなポイントは、国際貿易を強力に押し進めていこうとしたことです。海に囲まれた日本で、貿易を中心にすることは、海洋に生きる国、海洋国家をつくろうということですね。これは日本の歴史の中でも非常にユニークな目標だったといえます。ただ、いろいろとあせってしまったために、結果的に清盛は失敗してしまったのですね。

では、なぜ、貿易がそんなに力を持っていたのでしょうか。12世紀中ごろ、日本の貿易はとても活発になっていたんです。最大の相手は、中国の南宋でした。中国では10世紀初頭に唐王朝が滅びた後、五代十国の混乱期を経て成立した宋王朝が、12世紀に大陸の北部を金(きん)という国の女真族に抑えられたので、南宋を建国したんです。宋時代から続く南宋との貿易で、日本から輸出されたのは、大量の金や真珠でした。

とくに日本の金は、大陸より8割も安かったんですね。外圧に苦しんでいた南宋にとって、日本の金は国家を支える貴重な財源だったのです。では、日本に輸入されたのはなんだったか分かりますか? 代表的なものは、貴族が好んだ青磁の壺、そして大量の銅銭でした。中国のお金を輸入していたんですね。

「04 内裏と摂関政治(荘園2)」でも話しましたが、日本では古代銭貨の発行が、958年を最後に止まったんです。その後、荘園経済の活発化を背景に、米や絹という生産物をお金の代わりにしていたんですが、一方で私製の銭貨や中国のお金を使ってもいたんですね。とくに院政期から、日本では宋銭が通貨として機能していた。宋の銭貨がつねに流通貨幣の半分以上を占めていたんです。

こうしてみると、平清盛がとろうとしていた政策が、少しずつわかってきましたね。簡単に言えば、貿易と通貨という二つの仕組み、システムで新しい経済力をもたらそうとしたわけです。これは、とても現代的な考え方ですね。

では、そういう中で平清盛は、どのように日本の権力のトップに躍り出ていったのでしょうか。平清盛の祖父正盛、父忠盛は、伊勢平氏として貿易からつくった膨大な財をもち、また、北面の武士として朝廷の軍事力の中心となっていた。清盛自身も北面の武士として活躍し、平氏一族の財力や政治力を背景に、朝廷に影響力を広げていきます。

そこに起こったのが、平安京が迎えた初めての武力衝突、保元の乱という内乱だったのです。中心人物は前回紹介した崇徳上皇と後白河天皇。清盛がパワーゲームの表舞台を務めるのは、この戦火の中からとなります。


【次回は11月2日(火)、07 院政と源平、Y=平清盛の2回目です】

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みなさんは「田楽」という言葉を聞いたことがありますか? そういう食べ物もありますね。本来は農民が着飾って田植えの時に豊穣を祈り、笛や太鼓とともににぎやかに舞う踊りのことです。10世紀からこの田楽が各地に流行するんですが、そのピークは1096年、ちょうど白河上皇が法皇になったころでした。平安京の近郊に始まった田楽踊りが都になだれ込み、京の庶民や下人はもちろん、貴族や官人まで一緒になって踊り狂うという事態に至ります。「永長の大田楽」というんですね。

この田楽の流行には、民衆の力がどんどんと強まってきたことが見て取れます。この民の力と上の力がだんだん混ざっていく。その間に源平の武士団が登場するのです。この時期が日本の中世の始まりということができます。しかし、ここではまだ、最大の力を持っていたのは白河法皇でした。前回も言ったように院政をはじめてからは、専制的な力を発揮します。

なんでも思うがままとされた白河法皇でしたが、法皇さえ意のままにならないことがこの世には三つあった、という話が『平家物語』に載っています。その三つとは、賀茂川の水の流れに双六のさいころの目、そして山法師だ、というんですね。

山法師とは、比叡山延暦寺の僧のこと、とくに集団で武器を持った僧兵のことですね。律令制の崩壊によって、寺院がそれぞれ経営していた荘園の自衛を図るために、僧たちが武装したのが僧兵の発生です。平安末期、興福寺や延暦寺などの大寺院は、自らの権益を守るために、関係のある関係ある神社の神木や神輿を担ぎ、大挙して朝廷に出向き、要求を伝えるデモンストレーションを行うようになる。これを「強訴(ごうそ)」といい、行動を担ったのが僧兵たちだったのです。

こうした僧兵に手を焼いた白河法皇は、皇室を守る親衛隊として武士の集団を用意したんですね。その軍団は院御所の北側に控えたので「北面の武士(ほくめんのぶし)」と呼ばれました。彼らは皇室の豊かな財政を背景に、既存の組織からではなく、広く人材を求めて集められ、武芸に秀でたスーパーエリートだったんです。白河法皇の晩年には、正式メンバーが80人を数え、各自の家来などを加えると1000人以上にもなったといわれる。この親衛隊からも武家の存在感が一挙に高まったんですね。

さしもの白河法皇も1129年に亡くなりますが、白河時代はそれでも40年以上も続いた。長くて数年の今の首相の任期を考えると、40年間も一人の法皇が政治のトップを務めていたことはたいへんなことでした。しかし、それだけ力のある一人の人物がいなくなると、その後が複雑になります。なぜでしょうか。

日本の歴史を学ぶときには覚えてほしいのですが、天皇家や貴族や、後の世の将軍たちの奥さんというのは、一人じゃないんですね。たくさんの奥さんをもっていた。つまり後継者もたくさんいるんです。どういう相手と結婚するか、どんな子供がうまれたか、ということが、さまざまな勢力の争いになっていくんですね。

天皇は一人ですが、譲位した上皇は複数もありえます。法皇として采配を振るうには、自分の子が天皇になることが必要条件でした。白河法皇は孫の崇徳を愛していたので、ぜひ法皇の地位を譲りたいと考えたのですね。そこで、息子の鳥羽天皇を譲位させて、崇徳をまず天皇に即位させた。すると、次の法皇は崇徳の父親である鳥羽法皇になる。しかし、この鳥羽法皇は崇徳天皇を嫌った。なぜ嫌ったかというと、実は崇徳天皇は白河法皇の子だったとのウワサもあるんです。

1141年、鳥羽法皇は、法皇の位を譲るとだまして上皇とし、近衛を天皇に即位させたんですね。ところがこの近衛天皇は若くして死んでしまう。そこで崇徳上皇は、自分の子の重仁親王を天皇として院政を継ごうとしますが、鳥羽法皇はもう一人の子、後白河天皇を立てた。これが通って、崇徳上皇の院政は望みを断たれてしまうんです。

こうして崇徳上皇と鳥羽法皇・後白河天皇の間には深刻な対立の構図が生まれます。この翌年、1156年に鳥羽法皇が亡くなったとき、崇徳上皇は臨終の対面さえ断られた。院政は強力だったのですが、この骨肉の争いによって朝廷は分裂し、暗い影が立ちこめてきます。そのとき出現したのが、朝廷の貴族たちが自分たちの意思を通すために武士の力に頼むという事態でした。

法皇の時代は、こうして武士の台頭に重なっていくんですね。次回のY、「平清盛」で、ついに朝廷には兵火がうずまくんです。

【次回は10月30日(土)、07 院政と源平、Y=平清盛の1回目です】



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平安時代が300年を過ぎるころ、いよいよ時代の主役交代が始まりました。その主役が、「武者(むさ)の世」が始まってきたんです。武者すなわち武士、兵(つわもの)、もののふです。太平洋の黒潮に乗って動き、海の力を使う人たちも出てきました。それが馬を使う武士団と重なってきます。東国の源氏ですね。

前回も触れましたが、源氏が信仰したのは八幡大菩薩です。来世の力をもつ仏と違って大菩薩は現世にとどまり、この世の力を授けてくれるんですね。鎌倉の鶴岡八幡宮が源氏の信仰を集めます。一方、西海を勢力下においた平氏の一族が、心のよりどころにした神社があります。どこでしょうか? そう、広島県・宮島の厳島神社ですね。

この2つの武者たち、源平の戦いが、この時代に動き出すのですが、11世紀、力の中心にいるのはまだ源平ではないんですね。それが法皇(ほうおう)と呼ばれた人たちです。すでに藤原氏の摂政・関白の力が衰えた朝廷では、法皇が全体を仕切ろうとしていた。法皇と源氏と平家という3つの力が相互に影響し合う時代になってきます。もうひとつ、そこにはこれまで表立たなかった庶民、農民の力、芸能の力が出てきて、世の中に大きな影響を与えていくんですね。

さあ、新しいXYZは、日本の中世の始まりを「法皇」「平清盛」「源頼朝」という3つの要素で見ていきましょう。最初は「法皇」、天皇より偉いという法皇とは、いったいどんな人をいうのでしょうか?

キリスト教のカトリックにはバチカンに法王がいますね。でも、日本の法皇はそういうものではありません。法皇とは天皇がつぎの天皇に譲位して「上皇」になる。さらにその上皇が落飾(らくしょく)、つまり、頭を剃って出家すると「法皇」というんです。出家するということは、ふつうは政治から離れ、行動的なことはしないと思えますが、実はこの法皇がたいへんな力を持っていた。天皇の意思は法皇が握っていたんです。代表的な存在が白河法皇です。

このような上皇や法皇が政治をする場所が「院庁(いんのちょう)」といい、このような政治形態を「院政」といいます。院政が強力な力をもっていたのは、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇の三人の時代で、これを院政時代といいます。その法皇の力の大きさを象徴するシンボルが、京にはあったんですね。

それが平安京の東の玄関口、1077年に建てられた法勝寺の9階建ての九重塔でした。14世紀、南北朝時代に焼失し、現存はしていませんが、八角形の珍しい形で高さはなんと81メートルもあったといわれます。東国から陸路で都を訪れる人々は、このシンボルタワーに為政者の力の大きさを目の当たりにしたんですね。これを建てたのが、白河天皇でした。

この九重塔の横には、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇った金堂があり、法勝寺はまさに国王の氏寺として威容を誇っていた。この寺院のまわりには、白河法皇が院政を敷いた時代の天皇らが次々に巨大寺院を建てていきます。それが尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺で、それぞれ「勝」の一字がついているので、まとめて「六勝寺」と言います。「勝」は、密教で仏法に敵対するものを降伏させるという意味がある。六勝寺は、天皇一族が法皇をトップに、心を一つにして天下を強力に治めようという意気込みの現れでもあったのです。

平安京の南は賀茂川、桂川、淀川などが合流し、昭和10年代まで残っていた巨大な巨椋池(おぐらいけ)があったように、広大な水郷地帯でした。白河法皇はそこに壮大な規模の別荘、鳥羽離宮(とばりきゅう)も造っています。京の朱雀大路からまっすぐに延びた道路「鳥羽の作道(つくりみち)」をひらき、ここも院政時代の政治の拠点となります。

法皇は、政治力、経済力、そして軍事力を握ることで強大な影響力を持つことができたんですね。法皇は全国から荘園を寄進されて多大な富をあつめ、次回に話しますが、その経済力で軍団をつくっていきます。鳥羽の作道は軍団が動く作戦道路でもあったのですね。そして政治コントロールの手段が、「院宣」(いんぜん)というものでした。

院宣とは、法皇から朝廷に下された命令書なんですね。法皇は院宣で朝廷の太政官組織をコントロールし、国政に影響力を発揮したわけです。この院宣を出したのが法皇直属の機関・院庁(いんのちょう)です。院庁には実力で富を貯えた下級貴族や能力のある文人が取り立てられました。官位や家柄によらない実力主義をとったわけです。

その中から「院近臣(いんのきんしん)」と呼ばれる新世代のトップ官僚たちが出現します。天皇と摂政・関白が、制度的あるいは慣習としてさまざまな関係に縛られていた摂関政治と異なり、法皇一人をトップにいだく院政は、法皇の意思に忠実な官僚を得て、専制的な色合いを強く持っていくことになります。

【次回は10月26日(火)、07 院政と源平、X=法皇の2回目です】



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平安中期に、平将門による関東独立という壮大なプランが描かれるほど、武士団の力が地方で伸長していたんですね。将門の後も、都から遠く離れた東国は独立心を無くすわけではなかった。関東の盟主を目指して、桓武平氏の流れを汲む平氏一族の主導権争いが将門の後に繰り広げられていたわけです。

そこでトップを取り、関東制覇を狙ったのが平忠常(たいらのただつね)でした。将門の乱から90年後の1028年、忠常は安房(千葉県)で国守を襲い、国府を占拠します。平忠常の乱ですね。追討しようとする朝廷との戦いは3年あまり続き、将門の乱を超えた大規模な乱となった。これを収めたのが、名将とうたわれた源頼信(みなもとのよりのぶ)でした。

頼信は、清和天皇の子孫である清和源氏の一族なんです。つまり、このときに関東の支配権が源氏に移ったわけですね。源氏の進出により、桓武平氏の主力は東国から拠点を移していきます。それが頼信とともに武名をはせていた平維衡(たいらのこれひら)の一族でした。行った先はどこでしょうか? 今の三重県の伊勢・伊賀です。維衡は伊勢国司となり、その子孫は伊勢を拠点とした貿易で財力を築き上げ、強大な伊勢平氏となっていくんです。

清和源氏は摂津(兵庫)、河内、大和、美濃、尾張を拠点として勢力を広げ、桓武平氏と並ぶ有力武家となります。その源氏の勢力が平氏と東と西を入れ替えた、ということですね。

こうしてパワーの担い手がハッキリとしてきた中、801年の坂上田村麻呂の遠征以来、落ち着きを見せていた東北の地で独立の動きが起こります。1051年、陸奥の豪族で、俘囚をまとめて勢力を蓄えた阿部氏が、独立を目指して反乱ののろしを上げたんです。12年の間、断続的に続くこの乱が「前九年の役」ですね。しかし、東北は馬や鉄の産地であり、さらに金を埋蔵するという資源大国でもあった。ここでさらなる力を求めて源氏が動きます。

鎮守府将軍として多賀城に赴任していた源頼義は、1062年、出羽の俘囚のリーダーである清原武則の助けを借りて反乱を収めることに成功します。このとき初めて戦に参加した源頼義の子が、弱冠19歳の源義家(みなもとのよしいえ)です。号の八幡太郎から八幡太郎義家と呼ばれた。百発百中の弓の腕前で恐れられ、その名前は全国に広まります。

21年後の1083年に、今度は奥州を治めていた清原氏一族に後継者をめぐる争いがおこる。このとき陸奥守として登場したのが名将八幡太郎義家でした。義家は一族の中から藤原清衡(きよひら)を支援し、苦しい戦いを経て乱を平定します。これが「後三年の役」ですね。

ところが義家の奮闘にもかかわらず、源氏の奥州への勢力拡大を怖れた都の白河上皇は、この戦いを義家の私的な戦いとして、まったく恩賞を与えなかった。さらに、この地の支配権を藤原清衡にゆだねるんですね。

軍団を構成する武士たちにとっては、戦を命を懸けて戦い抜き、恩賞をもらうことは、何よりの目的であり、必要なことでした。朝廷は源氏に強烈なけん制の一手を打ったわけです。ところが、奥州から凱旋した義家は、私財を投じて配下の武士に恩賞を与えたんですね。これで朝廷のねらいとは逆に武士の主従の固い絆が結ばれた。

こうして八幡太郎義家の人気はますます高まり、配下だけではなく、全国の武士からも荘園の寄進が相次ぎます。義家の子孫はその荘園を治めるために全国に散らばっていったんです。

時は12世紀、平安も末期に入っています。この日本列島にはこうして源氏、平氏、朝廷とさまざまな動きが右往左往していったんですね。

八幡太郎義家は、石清水八幡宮で元服したので、その名が付きました。義家は八幡大菩薩を旗印にしていたんです。これは仏教とちょっと違います。こういった新しい神を持ち出して新しい時代をつくろうとしたわけですね。その時代、一人の青年が野望をもって虎視眈々と待っていた。それは誰でしょうか? そう、伊勢平氏に生まれ、初めて武家政権をつくることになる平清盛がその人です。

さあ、平安王朝の特徴を「王朝・密教・荘園」「万葉集・古今和歌集・源氏物語」「みやび・浄土・東国と西海」というXYZで見てきました。どうでしたか? 女性たちが目立っていましたね。でも、末法とか浄土思想が出てくると、そのあとはどうやら新しい男性たちが登場してきた。こうして平安時代、暮れなずんでいきます。

夕暮れのことを黄昏(たそがれ)といいますね。それは誰そ彼(たそがれ)なんですね。夕やみの中で「あれはいったい誰だろう? 高貴な人なんだろうか、いや、あやしい人なのかなあ」と思う気持ちを、たそがれと言うんです。

平安時代はこうして夕暮れに終わろうとしていますが、次の時代はいったい誰が彼、「たそがれ」だったのでしょうか? さあ、いよいよ次回からは、日本のトップをめぐる「武者(むさ)の世」へ、激動の中世の始まりです。

【次回は10月23日(土)、07 院政と源平、X=法皇の1回目です】
 

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以前、03「日本の出現」の藤原仲麻呂のところでもお話ししたように、日本は一つの中心からなっているわけじゃないですね。東と西、北と南で文化や社会が大きく変わっていました。とくに東日本と西日本では、現在でも大きな違いがあります。

たとえばお正月に食べるお雑煮のお餅。東はのし餅で角切りですが、西は丸餅でお餅屋さんが持ってくる。ほかにも東のそばに、西のうどんなど、いろいろ違いがあります。この時代、とくに東の馬を中心とした人々の動きと、西の船を中心にした人々の動きが、大きく日本列島を揺さぶるんですね。

まずは荒ぶる力にあふれた東国の様子から見ると、関東は広大な平野に恵まれて、開拓して荘園を開く土地が豊富に残っていたんですね。10世紀初頭には、東北征伐で得た俘囚(ふしゅう)を労働力として荘園を拡大した土着の豪族が、騎馬軍団をつくりあげたんです。馬の機動力を背景に運送なども扱っていた彼らは、土地などをめぐって他のグループと力で争い、「■(にんべんに就)馬(しゅうば)之党」と呼ばれて恐れられたんですね。

889年、その荒れた東国を桓武天皇の子孫、平高望(たいらのたかもち)が平定に乗り出します。騎馬集団を統制することに成功した高望は、そのまま関東に落ち着いたんですね。高望を発祥とする一族は、その後、桓武平氏(かんむへいし)と呼ばれるようになります。この平氏の一族が関東に勢力を貯えていく。やがて彼らは荘園を自衛するためにあるグループを形成していくんです。トップが武力を背景に威厳を示し、武者、あるいは「兵(つわもの)」と呼ばれるその集団が、「武士団」なんですね。

貴族の中からこうして武士団という存在が出てきた。力の変化が起こってきたんです。なぜそうなったのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには荘園が変化してきて、地方の土地に合った新しいキャラクターが登場してきたということがあります。

また、薬師と阿弥陀に願っていたように、貴族たちは死ぬことを怖れていましたね。武士団というのはそうはいかない。死を恐れない人々という存在は、まったく新しい時代のヒーローだったのかもしれません。935年から940年、まったく同じ時期に東と西に、一人ずつ、代表的な兵(つわもの)が登場します。東の平将門(たいらのまさかど)、西の藤原純友(ふじわらのすみとも)です。世にいう承平・天慶(しょうへいてんぎょう)の乱ですね。

西では、大陸の動向がきっかけでした。中国で3世紀近く支配した唐王朝が907年に滅亡するんですね。そのあとは五代十国の動乱時代に入ります。朝鮮半島でも7世紀に半島を統一した新羅が衰退し、かわって高麗が興った時期です。この大陸の動乱に連動して、玄界灘、瀬戸内を中心とした西海には、武器、食料などの密貿易によって経済力をつけた海のつわものがあふれ、海賊となって横行するようになったんですね。

紀貫之が935年に書いた『土佐日記』には、任地土佐から京に戻る途中の海路で海賊の襲撃を心配する気持ちが記されていますが、国家官僚でさえ怯える姿には、まさにこの時代が映し出されているんです。

強まる海賊の脅威に対して、朝廷は愛媛県伊予の官人だった藤原純友に討伐を命じます。ところがこの純友こそ海賊の首領だったんですね。反乱した純友の軍勢は、瀬戸内海を勢力下におき、九州大宰府まで焼き払ってしまうほどでした。941年に藤原忠文が征西大将軍に任命され、純友を討つことで、この西海の争乱はようやくおさまったんですね。

一方、関東では平高望の孫、平将門が叔父の良兼との領地相続争いを発端として乱を起こします。939年に常陸(ひたち=茨城県)の国府を焼き払った将門は、王朝への反逆者のレッテルを貼られますが、次々と対抗する相手を下して関東を勢力下に収めることに成功するんですね。

その後、将門は、受領を追放し、自らを「新皇(しんのう)」と名乗ります。また、弟や同盟者を国司に任命した。つまり関東に新しく国を興そうとしたわけです。周囲の人望も厚く、戦の実力も兼ね備えていた将門の勢力は、こうして日本に新しい国家を生む勢いだったのですが、この後すぐに起こった平貞盛軍との戦いで、流れ矢があたり、将門はあえなく戦死してしまうんですね。新皇と名乗って数ヶ月後、940年のことでした。

西と東、同時期に起こった兵乱は、貴族を震撼させたんです。この同期性はパワーが新たに起こっていることの象徴でした。平将門は敗北しましたが、その行動は『将門記』などの伝承物語を生み、神田明神など将門を祀る神社が、関東にはいまでもたくさんあります。つまり、関東独立、国を自分でつくろうというまったく新しい力を示した将門は、時代の転換点をつくったまさにヒーローでもあったのですね。

天神となった菅原道真もそうでしたが、負けた人々でも、長く語り継がれていることに、時代の共感と影響の大きさを見ることができる。勝者だけでなく、敗者の残した意味を考えることも、歴史の流れを読み解く大切な視点なんですね。

【次回は10月19日(火)、06 生と死の平安京、Z=東国と西海の2回目です】 

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現実の世界、ときにもっと恐ろしい世界さえも繰り返し生きる輪廻転生の世界、平安京の人々が恐れたのは、なかなか抜け出せない輪廻だけではなかった。そこへもっと怖いウワサがたちます。それが末法(まっぽう)の世、世界の最後が来る、という話ですね。お釈迦さま、仏陀が亡くなって、1500年経った1052年に末法の世を迎えるとされた。

これは平安末期の仏教思想の一つで、末法が始まると1万年もの長い間、そこから抜け出ることはできないという考え方です。もはや、いかなる修行を積んでも仏教が教える悟りが開けなくなり、仏法がもたらす順調な自然、社会の運行も狂いはじめるというのです。キリスト教にもある終末論とおなじですね。ヨーロッパでも900年代の末に世界終末の恐怖が広まりました。

実際にこのころ、列島には疫病や地震・洪水といった災害が相次ぎ、人々の不安は増すばかりだった。また、加えて平安の都には、災害により土地を失った流民があふれ、下層の武士たちが起こす盗難や放火など、都の生活を脅かすことが日常茶飯事だったんですね。

庶民はもちろん、貴族たちにとっても、この世が末法に向かうのが目に見えて感じられた中、人々は浄土に行くことに間に合いたい、往生したいと強く願います。自分の力で悟りを開くことはあきらめて、阿弥陀如来などの慈悲にすがり、その浄土に生まれ変わるよりほかに救われる道はない、と思われたんですね。

そのため、たくさんの阿弥陀如来を本尊とする寺が平安京をはじめとして各地に建てられた。その寺には人々の願う浄土を実感させる、この世のものとは思えない姿が描かれていくのです。

そういった絵の中で、今に伝わる代表的な絵画に、奈良の当麻(たいま)寺に伝わる当麻曼荼羅というものがあります。そこには浄土がまさに目を奪うよう壮麗な金色の光景が描かれている。このように、浄土とは目を奪う景色に音楽が鳴り、すばらしい香りがする世界と人々が信じていたことが伝わってきます。

しかし、絵ばかりではないんですね。このような浄土の姿は、そのまま建築にも写されていく。宇治の平等院がそうですね。

末法の世が到来するとされた1052年のその年、藤原道長の子・頼道は、道長から譲られた宇治の別荘を寺院とし、この世に阿弥陀の浄土をうつした平等院を建立したんです。これが貴族たちの大評判を呼んだ。平等院鳳凰堂は、「まことの極楽いぶかしくば、宇治の御堂(みどう)をうやまえ」とまで歌われます。

こうして藤原氏を中心に、貴族たちは、続々と阿弥陀を信仰しはじめたんです。平安京の周辺には、それまで中心だった密教寺院に代わって、貴族たちが一族のための寺をたくさんつくり、また、自分の邸宅の中にも阿弥陀堂を建て始めた。ちなみにこのような私設の寺は従来の寺に対して、院と言います。「寺院」という言葉はここから来たんですね。

3人の皇后の父親となり、摂関家の絶頂を迎えた藤原道長の臨終には、貴族たちの思いを表す大変有名な話が伝わります。1027年に62歳で世を去るとき、あの栄華を極めた道長でさえ、地獄に落ちるのを恐れて、自邸に建立した阿弥陀堂で九体仏から蓮の糸を引いて手で握り、念仏を唱えながら息を引き取ったというんです。

このように末法の世を迎えた平安王朝は、実際にも王朝の力が中心から微妙にスライドを始めていくことになります。歴史をみるときの大事な視点は、パワー、時の権力が生まれ、中心となったあとに、どのような形で中心外に新たな力が出現してくるか、対抗してくるのかということを見ることにあります。

平安京のパワーが衰えた時代、新たなパワーが起こったのは、地方でした。みやびなパワーに対抗したやり方は、東国と西海の荒ぶる力の行使にあったのです。

【次回は10月16日(土)、06 生と死の平安京、Z=東国と西海の1回目です】



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