仙台から中山道路を下って国道457号線を右に進む(根白石バイパスではなく)と根白石の町に入る。
町内の道路は、城下町の名残りだろうか幾重にも鍵形になっている。
町並みも、白石城が造られた15世紀初め(1423)頃から基本的には変わっていないのではないだろうか。
朝早く、あらためて町の通りの様子を見てみることにした。
◎根白石下町(しもまち)
国道457号線が寺岡方面からの道と合流する所から振り返って仙台中山方面を見る
◇直ぐ右に根白石駐在所、左先に「JA根白石」がある
◎町に入る最初の曲がり角(直角に左折)
◇右側に「新堰」の案内板が見える
◎町のメインストリート
◇直ぐ右側に郵便局、中程に根白石小学校入口がある
◇同じ側に作り酒屋(’11震災で今は製造していないようだ)
◎根白石・町の中心
◇正面の老舗商店は「何でもあるよ」のキャッチフレーズで町のスーパー的存在
◇白壁の蔵、ポンプ式の井戸
◇穴の開いた「馬つなぎの石」は店で一休みする時に馬を繋いだものといわれる
◎直角に右折
◇左側に「太桂山満興寺」
◎直角に左折
◇突き当りは丁字路、昔、旧藩校・小学校があった
◇バス停「町頭」は、城から下りて「町の入口」の意味か?
◇周囲に「ここは旧門前町」の看板
◎丁字路を直角に右折
◇先に白石城跡の杜、根白石中学校・その奥は泉パークタウン
◇昼過ぎ「中学校の奥に熊出没」のアナウンスが流れた。
◇直ぐに馬橋(幅が狭く車は交互通行)
◎馬橋を超えてすぐ左折
◇川沿いに桜並木(春は花が見事)
◎町の端で457号線が分岐
このあたりが根白石町の端にあたる、457号線は川向バス停のところで223号線(左)と分岐
◇457号線は次第に細くなり、山道を経て再びバイパス道路と合流し朴沢・宮床方面へ
城下町であり、宿場町の名残を残す「根白石」として、以前、河北新報に紹介された記事が印象的だ。
根白石は、仙台城下に存在した14の宿場町には含まれないが、町の出入り口と中程で直角に曲がる道路と両側に家が建ち並ぶ様は、宿場町そのもの。
記録に宿場町とは現れないが、かつては仙台から宮床に通じる街道があったという伝承も残っている。
また、幕府の法令を掲げる高札場が、仙台藩では宿場町以外にも例外的に根白石に存在した。
根白石はある時期に、おそらく江戸時代のごく初期に宿場町であった可能性が高い。
仙台城下以北の奥州街道は、富谷や七北田の宿場町が形成された元和期(1620年前後)に完成するが、それ以前の経緯ははっきりしない。
そこで、奥州街道が根白石を通って宮床へ抜けていた可能性が考えられる。
宿場町は、旅人を宿泊させるだけではなく、重要な機能として物資の輸送がある。
すなわち江戸時代は宿場町ごとに荷物を積み替えるのが原則で、通過する物資の量を勘案して宿場町には輸送に携わる人が集住していた。
直線道路の全長が600メートルに及ぶ根白石の町の規模は、七北田(推定500メートル弱)を上回る。
おそらく、根白石が宿場町として機能したのは十数年程度の短期間だったのだろう
町内の道路は、城下町の名残りだろうか幾重にも鍵形になっている。
町並みも、白石城が造られた15世紀初め(1423)頃から基本的には変わっていないのではないだろうか。
朝早く、あらためて町の通りの様子を見てみることにした。
◎根白石下町(しもまち)
国道457号線が寺岡方面からの道と合流する所から振り返って仙台中山方面を見る
◇直ぐ右に根白石駐在所、左先に「JA根白石」がある
◎町に入る最初の曲がり角(直角に左折)
◇右側に「新堰」の案内板が見える
◎町のメインストリート
◇直ぐ右側に郵便局、中程に根白石小学校入口がある
◇同じ側に作り酒屋(’11震災で今は製造していないようだ)
◎根白石・町の中心
◇正面の老舗商店は「何でもあるよ」のキャッチフレーズで町のスーパー的存在
◇白壁の蔵、ポンプ式の井戸
◇穴の開いた「馬つなぎの石」は店で一休みする時に馬を繋いだものといわれる
◎直角に右折
◇左側に「太桂山満興寺」
◎直角に左折
◇突き当りは丁字路、昔、旧藩校・小学校があった
◇バス停「町頭」は、城から下りて「町の入口」の意味か?
◇周囲に「ここは旧門前町」の看板
◎丁字路を直角に右折
◇先に白石城跡の杜、根白石中学校・その奥は泉パークタウン
◇昼過ぎ「中学校の奥に熊出没」のアナウンスが流れた。
◇直ぐに馬橋(幅が狭く車は交互通行)
◎馬橋を超えてすぐ左折
◇川沿いに桜並木(春は花が見事)
◎町の端で457号線が分岐
このあたりが根白石町の端にあたる、457号線は川向バス停のところで223号線(左)と分岐
◇457号線は次第に細くなり、山道を経て再びバイパス道路と合流し朴沢・宮床方面へ
城下町であり、宿場町の名残を残す「根白石」として、以前、河北新報に紹介された記事が印象的だ。
根白石は、仙台城下に存在した14の宿場町には含まれないが、町の出入り口と中程で直角に曲がる道路と両側に家が建ち並ぶ様は、宿場町そのもの。
記録に宿場町とは現れないが、かつては仙台から宮床に通じる街道があったという伝承も残っている。
また、幕府の法令を掲げる高札場が、仙台藩では宿場町以外にも例外的に根白石に存在した。
根白石はある時期に、おそらく江戸時代のごく初期に宿場町であった可能性が高い。
仙台城下以北の奥州街道は、富谷や七北田の宿場町が形成された元和期(1620年前後)に完成するが、それ以前の経緯ははっきりしない。
そこで、奥州街道が根白石を通って宮床へ抜けていた可能性が考えられる。
宿場町は、旅人を宿泊させるだけではなく、重要な機能として物資の輸送がある。
すなわち江戸時代は宿場町ごとに荷物を積み替えるのが原則で、通過する物資の量を勘案して宿場町には輸送に携わる人が集住していた。
直線道路の全長が600メートルに及ぶ根白石の町の規模は、七北田(推定500メートル弱)を上回る。
おそらく、根白石が宿場町として機能したのは十数年程度の短期間だったのだろう