ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-
2010年/日本
ラストのオチについて
総合 30点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
一般的にヒーローは白黒つけたがるものであり、シマウマは白黒の柄だからという安易な理由で創作されたに違いないゼブラーマンというキャラクターは、『ゼブラーマン』(2004年)においてそのデタラメさを何としてでも補おうとするかのように、例えば鈴木京香が演じた浅野可奈が宇宙人を目の当たりにした時の手を口に当ててする驚き方のように、過去のSF/怪奇映画やテレビドラマの作品からの引用を駆使した結果、生身のヒーローの悲哀が描かれることになり、観賞するに堪えられる以上のものになっていた。『ゼブラーマン』が傑作であるとするのならば、脚本家の宮藤官九郎が自らに‘ゼブラーマン’というお題を与えて、そのお題に見事に答えた結果による。
『ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲』において宮藤官九郎は再び自らにお題を出した。「白黒つけるはずのゼブラーマンが最初から白と黒に分かれていたとするならば?」‘白黒つけるぜ’とは勿論善し悪しをはっきりさせるという意味であり、白と黒を分けるという意味ではないことは宮藤官九郎本人は十分に理解した上で自らに試練を与えているのである。
何故逆襲するのが‘街’なのかは、スターウォーズのエピソード5のタイトルである‘帝国の逆襲’をそのまま踏襲したからである。つまりこの作品においてはゼブラーマンがルーク・スカイウォーカーであり、完全にレディー・ガガのパクリであるゼブラクイーンがダース・ベイダーと思われる。前作では父親と家族の間に漂うペーソスが感じられたのだが、ゼブラーマンとゼブラクイーンの間には父親と娘という関係性はない。近親相姦になってしまうからである。
その結果白黒つけられなかったゼブラーマンの答えはお寒いものだと思う。宮藤官九郎が意図的に外したという見方もできないことはないが、やっぱり良いアイデアが思いつかないまま苦しまぎれに‘置きにいった’ラストがスベっていると見る方が自然だと思う。前作が良かっただけに残念と言わざるを得ない。Wコロンのねずっちのようには上手くはいかなかったのである。
愛子さま、出席時限増える 雅子さま付き添い3時限ほど(朝日新聞) - goo ニュース
皇太子ご一家が新幹線でJR宇都宮駅に到着した際の愛子内親王の様子をテレビ
で見て驚いた。笑顔が無いことはいつものことなので問題はないが、愛子内親王は
笑顔が無いどころか顔が引きつっていたように見えた。しかし番組のコメンテーター
や司会者は誰もそのことに触れることもない。学校に毎日登校されているといっても
母親が同伴しなければ登校できない状況が続いているのに、そのことに関しても
誰も触れようとしない。そもそも乱暴な児童に対して何故他の女の子は誰も不登校
になっていないのか? とにかく愛子内親王が病気になっていることに対して誰もが
回復傾向と前提してしまう限り、親子の病気が回復する事はありえないと思う。