新年あけましておめでとうございます。今年こそはもうちょっと更新しなくては、と思うのですが…
今年の一発目の写真は、何か2025年や干支に因んだネタを、と思ったのですが、すぐに出てこなかったので、取り敢えず目に留まった一枚を...東邦亜鉛のタキ4000ですが、何か違和感がありませんか?
新年あけましておめでとうございます。今年こそはもうちょっと更新しなくては、と思うのですが…
今年の一発目の写真は、何か2025年や干支に因んだネタを、と思ったのですが、すぐに出てこなかったので、取り敢えず目に留まった一枚を...東邦亜鉛のタキ4000ですが、何か違和感がありませんか?
デンカのアセトアルデヒドのことを調べ始めたついでに、1960年代以降の同業他社を含む動向を検索ヒットした範囲でざっくりまとめてみました。貨車運用と直接関連の無い事項も多いですが悪しからず…
電気化学工業:68年に青海のアセチレン法アルデヒド停止、以後は千葉の日本アルデハイド(住友化学とダイセルの合弁)より調達、69年千葉工場のアルデヒド法酢酸設備完成により、71年青海の酢酸設備停止。76年千葉にアルデヒド自社設備完成するが、80年協同酢酸への出資によりアルデヒド、酢酸設備停止。
ダイセル:62年に三井石化のエチレン法アルデヒド(97年休止)供給による大竹での酢酸製造開始、68年に千葉にエチレン法アルデヒド(日本アルデハイド)完成により、新井のアセチレン法アルデヒド停止、80年にダイセル、三菱瓦斯化学、電化、協和発酵、チッソの合弁で設立した協同酢酸により網干にメタノール法酢酸設備稼働で、新井の酢酸設備休止。
日本合成化学:64年稼働の化成水島(三菱化成系)からのエチレン法アルデヒド、酢酸調達に変更し、64年大垣、65年宇土のアセチレン法アルデヒドと酢酸の設備停止。
協和発酵:大協石油との合弁で設立した大協和石油化学により、63年四日市にエチレン法アルデヒド設備稼働。70年協和油化により四日市に酢酸設備稼働。
チッソ:64年五井のチッソ石油化学でエチレン法アルデヒド、酢酸設備稼働により、水俣のアセチレン法アルデヒドと酢酸の設備停止。78年五井のアルデヒド設備停止。80年五井の酢酸設備停止、協同酢酸へ参加。
昭和電工:64年、日本瓦斯化学との合弁企業、徳山石油化学により、更に69年、味の素、三楽オーシャンとの合弁の昭和アセチル化学大分工場により、エチレン法アルデヒド、酢酸が稼働、それにより65年鹿瀬のアセチレン法アルデヒド、酢酸設備停止。97年大分にエチレン直接酸化法酢酸設備稼働。
日本瓦斯化学→三菱瓦斯化学:徳山石油化学への出資により64年新潟のアセチレン法アルデヒド停止、77年協同酢酸への出資、徳山石油化学より撤退。
鐵興社:64年酒田でのアセチレン法アルデヒド設備停止。
***
電化青海が71年に酢酸製造を停止、ダイセルが80年に協同酢酸のプラント完成により新井の設備休止は、それぞれタキ9250形の他社放出、タキ6850形の廃車時期と一致します。電化は数年後の千葉のプラント完成までのつなぎでタキ9250形を造ったことになりますね。まあこれは計画時に同業他社の動向や転用先なども織り込み済みだったのでしょう。タキ6850形は車齢11~16年だったのでちょっと勿体無い気もしますが、酢酸製造プロセスが10年そこらで一変してしまうのはなかなか予測できませんし、そこは特殊構造の貨車の宿命でしょう。
あれ?青海のアルデヒド、酢酸プラントは71年まで、電化自体の酢酸も80年までに操業停止している筈なのに、その後も残ったタキ9250の用途は?なんですが、電化青海では酢酸ビニルモノマーから酢酸ビニル樹脂(PVAc)→加水分解してポリビニルアルコール(PVAL)を製造しており、その際に回収される酢酸から水素化して造られるアセトアルデヒドを運ぶためでは?と推察しました。酢ビモノマーからPVALを一貫生産している工場なら、回収される酢酸はモノマー合成工程にリサイクルされますが、酢ビモノマーを他から調達する工場なら他に使い道が無ければ、他の工場に持って行くか売るかしかありませんし。(因みに電化青海でのアセチレン法酢ビモノマーは86年に設備停止) 同じ新潟県内の東の端の方にあるクラレ中条工場(現、新潟事業所)もPVAc、PVALの有力な生産拠点ですが、ここも以前はあった天然ガスからアセチレンを経て酢ビモノマーを生産する設備が83年に停止されています。(ここが持っていたタム8400、タキ10400形アセトアルデヒド専用車は恐らく酢ビモノマーの併産品として出来るアルデヒドを運んでいたとみられ、プラント休止と同時期に廃車となっています)従って、クラレ中条からダイセル新井にタンク車輸送されていた酢酸はPVAL製造過程で回収された副産物だと思われます。クラレとしても千葉やら四日市やらの酢ビモノマープラントまで長距離輸送するより、ダイセルとしても協同酢酸(網干)→安治川口→新井と輸送するより、中条→新井の県内輸送ならお互いに運賃が節約できる、上手いこと考えたものですね。
デンカ原石のテコ401の素性の話でカーバイドホッパの話をしたところで、思い出したのがこれ、タキ9250の青海―新井間の短距離輸送について。確かに1968年まで電化青海工場ではカーバイドの水和で得たアセチレンよりアセトアルデヒドを生産していましたけど、それ以降は京葉コンビナートに設立したデンカ石油化学(専用線所管駅:京葉臨海鉄道玉前駅)でのエチレンからの製法に転換したはずでは?と気付いた方もおられるかと思います。さて、千葉に大規模なプラントを造ったはずなのに、何でわざわざ青海で小規模に?なんですが、他所からエチレンを持って来てわざわざやるには如何にも不合理です。ではアセチレンから造っているかと言えば、それは「水俣病」の問題が付きまとうので最早無いでしょう。そこで、アセトアルデヒドの工業的製法について改めて調べてみました。
ここで化学反応式を出すのも何ですが、(1)はアセチレンから水銀(II)塩触媒(cat.は触媒を示す)で水を付加する、高校教科書にも出てくる有名な反応ですが、日本を始め先進国では過去のものとなっています。(もしかすると中国とか北朝鮮とか、石油資源に乏しくて石炭が豊富にある国ならやっているかも知れませんが…)このプロセスを巡る経緯は、興味があればこのリンク先を読んでみると色々発見があるかも知れません。
https://kagakushi.org/wp-content/uploads/2022/08/Kagakushi_053_1990.pdf
(2)はエチレンの接触空気酸化法(ヘキスト=ワッカー法)、石油ナフサの分解でエチレンが安価に得られるようになったため、電力コストが高くつくカーバイドアセチレン法よりコスト的に有利となった60年代以降主流になりました。ただ石油ショックで原油価格が高騰する中、また新たなライバルが登場してきます。
(3)70年代以降、天然ガスや石炭から大量生産されるメタノールを一酸化炭素でカルボニル化する方法(モンサント法、カティバ法)で安価に酢酸を製造するプロセスが確立したので、昔はアセトアルデヒドを酸化して造っていた酢酸を、逆に水素化してアセトアルデヒドを造った方が簡単じゃない? となってきてます。
これを踏まえ、貨車の動きを見ていくと、電化青海へは太郎代からタンク車積メタノールの到着もあったので、これも関連していたと見られます。ところで電化のタキ9250は、石油化学プラントの新設に合わせて玉前→八木原、青海の工場間輸送用に21輌(伊藤忠所有の9271を除き全部)を用意したのに、数年後には5輌を残して大半を他社に放出したのは、酢酸プロセスの転換絡みでしょうか?
ヤフーでなかなか興味深い記事を見つけたので書いてみます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/80988583a0d7a515b0fdf6aa1a3bc0d841ef749f
デンカ青海工場原石線の近況について取材した記事なのですが、鉱石車テコ300,400の一部に入れられた白帯が積み荷の粒度を示すものであるとか、1輌だけ在籍するテコ400形401がカーバイト専用車の改造であることなど、初めて見聞きしました。
さて、そのテコ401、銘板が2枚付いていることから、何らかの改造車であることを示唆するレポートはこちらでも目にしたことはありましたが、その正体について触れた記事は初めてではないでしょうか。更に、具体的に種車となった形式が気になりますが、記事と銘板の写真によると、製造は昭和36年日立製作所、改造は昭和46年で同じく日立、該当しそうなのはホキ5600形5611-28のロットですが、5612-28は昭和46-47年にホキ6300形セメント専用車に改造され、5611のみ昭和45年に車籍除外されています。と言う事でテコ401はホキ5600形5611の成れの果てと推定されますが如何でしょうか? ホキ5600形を含むカーバイトホッパ車は普通の平台枠の上に箱を載せた構造だけど、このタイプの鉱石車は台枠の中梁を省略して、漏斗状の荷台を落とし込む構造になるのが通常で、写真を見る限りでもそのように見えます。但し外見上は種車の台枠は流用したと思われるので、種車の台枠にあるはずの中梁を除去して、空制装置一式を台枠上に移設して側梁間に新造したホッパを落とし込むという結構面倒そうな改造をしていることになりますね。そう聞くと間近で確認してみたくなりますが、ここはえちごトキめき鉄道あたりとコラボしてTSD40ボンネットバスで巡る見学撮影会でも実施してくれないかな…勿論只とは言いません。有料でもある程度需要はあると思いますが如何でしょうか?
塩酸タンクローリーの漏洩事故とか言うニュースを聞いて、やっぱり半世紀前に江津でタム5000形がやらかしたあれか? 報道ではローリーの現車映像が出ていなかったので、それともFRP製タンク体だったのか?とかまず考えてしまいます。FRPの塩酸タンクの天板を踏み抜いて転落した話は聞いたことがありますが、タンク体にいきなり亀裂が入ってダダ洩れになったそうなので、やっぱりゴムライニングの不良で鋼製タンク体が腐食して割れたのでしょうか?
それは良いとして本題、塩酸やカセイソーダ液のタンク車には欠かせないゴムライニング、東新潟港駅跡の近くに社屋を構える「日本海護謨」という会社があります。特にタキ2600形の車歴を調査すると良く出てくる社名ですが、昭和58年度専用線一覧では、東新潟港駅は新潟臨港の海陸4番線に第三者利用者の記載があります。既に跡形もありませんが、焼島駅接続の旧新潟硫酸石山工場→サン化学跡地の専用線を間借りして作業中と思われる日本曹達のタキ7750?を見た記憶があります。東新潟港の臨港線廃止後は新潟臨鉄の藤寄でやっていましたっけ?
それにしても、このサイトにある施工実績、社名をイニシャルにしているけど、業界の人や私有貨車ファンならほとんどバレバレで伏せる意味が無いような(笑)
酒田港駅から東北東ソー化学酒田工場の北側を回って、旧日新電化工場(現、東北東ソー化学酒田西工場)と米田物産へ至る専用線について、日新電化と米田物産の構内で各1回ずつスイッチバックしていたり、何だか不自然な線形だと前から思っていたのですが、かつては海沿いを通り、大浜運河を跨いで工場内に入る専用線だったんですね。
https://akumisakata.exblog.jp/29511405/
当然運河の入り口に鉄橋があれば、大きな船や艀は出入りできないので、後に北側に迂回する公共臨港線が建設され、こちらの線路は廃止されましたが、大浜運河はその後も本来の目的で十分活用されることなく現在に至っています。お馴染みの羽越線資料館
https://uetsumuseum.web.fc2.com/sakatako.html
でも良く見ると配線図にさらっと紹介されていたのですが、このあたりの経緯については詳しく記述が無かったので見逃していました。どうせなら可動橋にしてくれれば面白かったのですが、この位の距離なら迂回線を敷いた方が、後々の維持費が有利と判断したのでしょう。時系列的には、
1937(昭和12年) 鐵興社酒田大浜工場(現・東北東ソー化学酒田工場)開設
1943(昭和18年) 帝國マグネシウム工業所(後の日新電化酒田工場)開設
※この時に大浜運河入り口の鉄橋を架橋?
1955(昭和30年) 鐵興社工場北側を迂回する山形県営公共臨港線開通(鉄道公報掲載は昭和31年10月)。
これにより日新電化/米田物産の旧専用線を廃止。
1961(昭和36年)頃 大浜運河の鉄橋を撤去。
1969(昭和44年) 米田物産専用線開通。
1975(昭和50年) 鐵興社が東洋曹達工業に吸収合併。
1980(昭和55年) 日新電化が東洋曹達と業務提携。
1983(昭和58年) 旧鐵興社の酒田大浜工場が分社化、東北東ソー化学に。
1988(昭和63年) 日新電化が東北東ソー化学に事業譲渡。同社の酒田西工場となる。
※この頃に旧日新電化線の使用を休止?
2008(平成20年) 新専貨全廃により東北東ソー化学の専用線扱い廃止。同時に公共臨港線使用休止。
日新電化線の先に接続していた米田物産に関しては廃止時期は判然としませんでしたが、少なくとも昭和58年の専用線一覧表には掲載があるので、ヤード系輸送が無くなった59-2頃かと思われます。それにしても日新電化に関する情報がネット上に極端に少ないのは何故でしょう? 法人格が消滅している(だよね?)とは言え、そこそこの規模があった中堅化学メーカーなのに、と思うのですが。一方の鐵興社は傍系だけど、東ソーのサイトでも沿革は簡単に紹介されていますが、日新電化は完全スルーです。
晩年の旧日新電化線は、ご存じの通り、使わなくなった貨車の捨て場になっていました。既に旧鐵興社の工場と施設の統合が進んだ結果、旧工場施設は大半が撤去され、荒涼とした異様な風景が広がっていたのが記憶にあります。昭和63年に事業譲渡とありますが、私有貨車は昭和62年時点では全て東北東ソーに名義変更済みで、実態は既にほぼ抜け殻になっていたみたいですね。
残された旧社章標記もう一件、伊藤忠商事の私有貨車は1993年頃から順次新ロゴに切り替えられましたが、貸出先によっては、かなり遅くまで旧社章のまま残っていたばかりか、何故か旧菱CIマークとITOCHUロゴが共存しているのまで存在していました。残っていた車輛は流石に社名板がボロボロで消えかかっているのが多かったですが、神岡鉱業とかはご丁寧にも旧社章のまま奇麗に描き直していましたね。
最近は珍しくなった小規模の石油基地、タンク車の形式はお馴染みのタキ1000JRF形のみで面白味は無いですが、スイッチャーもいるし、そこは贅沢は云えまい。スイッチャーも昔は珍しい東芝製の液体式(東芝製DL、電気式は今となってはさほど珍しくなくなりましたが、液体式は合計で10輌も造ってないはず)がいたんだよな…
それでも、若番の1000-9とか居たりします。それにしても、1993年の試作車2輌から、昨年の現時点での最新グループまで、30年近く大きな設計変更はおろか、塗色すらも変わっていないのには驚かされます。タキ1900や3000の方が製造期間は短いですが、これらは途中で幾度かの大きな設計変更を経て最初と最後ではかなり別物になっています。ベースとなったタキ43000が1967年の登場ですから、ここからカウントすると半世紀以上ほぼ同じ形で造り続けていると言う事になります。それだけ貨車の設計が熟成の域に達しているんでしょうね。
それに対し、こちらは後年の製作になる835番、変化したのは台車くらいかなーと思ったら...
右が初期量産車23番、左が835番、ジャッキ受けの形態が変わっています。
他にもブレーキダイヤフラムの支持具や、ブレーキリンクの取り回しが若干変化しています。
(2022年1月22日 しなの鉄道 坂城駅)