新専貨回想

平成の世を駈けたヤード系輸送の末裔

蘇る昭和の亡霊(2)

2014-10-30 21:50:33 | 保存車

 とりあえずいろいろ観察してみる。戦時型タム100(2代)形式の特徴である、帯金が直接突き刺さった受台、こんな構造になっているんですね。製造時期が時期だけに、各部の工作はかなり粗雑で、純アルミ製タンク体の溶接仕上げもかなり凄まじいです。貨物鉄道博物館のタム8000と並べれば、約20年間でのアルミタンク車製造技術の進化を学ぶ絶好の教材なので、そう言う機会があれば、とも思いました。

 

アルミタンク体以外の構造は、戦前期のタンク車としては標準的なもので、戦後の物より側梁のチャンネルが細くて見るからに華奢です。事実、この個体も連結時の衝撃を受け続けたためか台枠が座屈変形気味です。戦災有蓋車の台枠を流用したタンク車が製作されて以降、その太いチャンネル寸法が標準となったのは必然的でありましょうか。

 

小さな製造銘板が片方のみ割れつつも辛うじて残っていました。考えてみればA-Trainに代表される「アルミ車体の日立」の原点でもありましょう。製造時は当然、1段リンク式なので、ヨンサントオ前に大宮工場で2段リンク化されています。

後年の規則改正で、側ブレーキ梃子のストッパーはラチェット式に改造されていますが、旧来のストッパーピン用の穴もそのまま残っています。個人的にはタンク車としては実車にほとんど触れることの出来なかった時期の車なので、これがあると私鉄の貨車を連想してしまいます。

 

で、肝心のこいつの正体は…
タム100形式(2代)15t積み濃硝酸専用車1134(昭和18年日立)→
タ2900形式8t積みメタノール専用車2909→
タ3050形式10t積みホルマリン専用車3077→昭和48年除籍、
所有者は一貫して東洋高圧工業→三井東圧化学、ということで。

錆止め作業とタンク体の研磨作業の途中なので、こんな感じでシートを被った状態で残念。全景は完成した時のお楽しみ、と言うことで。


蘇る昭和の亡霊

2014-10-26 21:40:48 | 保存車

 平成も四半世紀を経過した今、こいつが発掘されたことには驚きの念を禁じ得ません。生まれながらにして昭和の負の歴史の一端を背負い、戦後の復興と高度成長を見届けて、消えゆく運命にあった彼らに価値を見出した人が30年以上前に存在していたことも…


こんなもの拾った

2014-10-19 21:55:17 | 民鉄・3セク

 小田急海老名のイベント、相鉄の物販コーナーでこんなの拾ってきました。「3363」の数字に惹かれて… あれ、厚木の航空燃料輸送列車って3363に継送されていたっけ?と思い、発駅コードの「4301」って…あ、そうそう、越中島だったっけ? で、この指定票は何者?発駅からして、少なくとも航空燃料じゃありません。それなら「4512」(安善)か、「4543」(田浦)ですからね。越中島は化成品タンク車を良く撮りに行っていましたので、隣にレールセンターがあるのを思い出しました。と言うことで、この指定票はレール輸送チキの物と断定。継送ルートは、越中島→小名木川→川崎貨物→相模貨物→茅ヶ崎→厚木です。小名木川→川崎貨物の8997レはかつての新専貨4997レの臨時格下げスジ、ここで一泊して翌朝の3363レに継送されて相模貨物で解放され、9390~9491レで相模線を下ります。元は燃料輸送のスジですが、甲種輸送とかレールの様な業務用貨物にも活用されていたと思いました。相鉄線内は「早レ」と表記されているだけで、列車番号が設定されていない様です。燃料輸送と違い、終電後の深夜の作業だったのかな?(燃料は確か、901~904レが振られていたはずです)

 一般の貨物営業が廃止された後も、この手の業務用貨物は続けられていることも多かったですが、牽引する動力車の廃車進展と共に、今でも残るのは伊豆箱根の駿豆、大雄山両線程度でしょうか?