新専貨回想

平成の世を駈けたヤード系輸送の末裔

3363レ

2008-06-29 22:57:31 | 東海道線

 白昼の東海道線を駈けた3363レ、新専貨の中でも一二を争う人気列車でしょう。バラエティに富んだ編成内容も然ることながら、首都圏、中京圏、京阪神からアクセスが良いこと、有名撮影地の通過時間帯が撮影に適していること、旅客ホームのすぐ脇に停車する駅も多いことなどで、多くの走り写真派や編成記録派、貨車ファンに愛された列車でしょう。

 さて、最末期の同列車しかご存知でない方から見れば、何故、東海道線みたいな列車密度が比較的高い線区で、昼間に75km/h制限の列車が設定されていたのか、と疑問に感じるかも知れません。スジを引く立場なら、遅い列車は出来るだけ列車密度が低い早朝、深夜に押し込めたくなるでしょう。

 手許に私が本格的に私有貨車を追い掛け始めた年、1993年の貨物時刻表があったので、ちょっと開いてみました。問題の3363レはというと、
  (始発)川崎貨物749発
  西湘貨物941発
  吉原1124発
  清水1221発
  静岡貨物1232着/1301発
  磐田1433発
  天竜川1504発
  西浜松1607発
  豊橋1635発
  (終着)笠寺1941着
この様に、連解結を伴う停車駅が途中に結構ありました。これでは作業上、深夜帯の運転にする訳には行きませんね。それが新専貨の衰退にも直結していくのですが。末期の同列車は、一応相模貨物、吉原、静岡貨物、西浜松で作業あり停車が設定されていたものの、途中連解結も殆ど無くなり、最早昼間に運転する意義もほぼ失われていましたが。。。


移ろい行くミナトの風景

2008-06-22 00:53:29 | 東海道線

 20年程昔の話、横浜の高島臨港線の探検に出掛けたときのこと、横浜機関区のラウンドハウスこそ無かったものの、高島駅のヤードはいまだ健在で、まだ真新しかった、そごうの屋上からその様子を一望できたこと、ヤードから分岐して車もまばらな埠頭へ伸びる広い道路を悠々横切り、古ぼけた倉庫の狭間に消えていく引込み線、英国製古典ポニートラス橋、まだ観光地化されていなかった赤レンガ倉庫に原形を留めていた旧横浜港駅旅客ホーム、山下公園を横切る高架橋、これらの情景も全てあっという間に幻と消えてしまいました。単にレールがそこから姿を消したという以上に、周囲の情景が一変してしまったことにただ驚くばかりです。倉庫の薄汚れたコンクリートに支配されたモノトーンの街も、再開発事業で大変綺麗な近未来都市に生まれ変わりましたが何か物足りない…

 それ以外にも東新潟港、名古屋港、汐見町、安治川口と、少し昔とは様相が一変してしまった「ミナトの線路」は沢山あります。写真に挙げた西名港の化成品センター界隈も、貨物線旅客化と前後して昔日の面影を完全に失ってしまいました。一昔前の刑事ドラマに登場したようなミナトの貨物駅の情景も、今や絶滅寸前です。少し前までは東高島が良くこの種のロケに使われていましたが、この駅のシンボルだった、海陸積替えホームと立派な上屋も既に姿を消しています。

 こうして見ていると、日常の記録を残すことの重要さを痛感します。それと共に、街が綺麗になるのは結構な事なのでしょうが、汚いモノ、危険なモノを覆い隠し、表面的な綺麗さを追求する余り、何か大事なものを見えなくしているような気もします。最近増えてきたという、自分のクルマのボンネットを自分で開けることの無いユーザーみたいに…


イリュージョン

2008-06-15 23:22:53 | 民鉄・3セク

 ちょっと本題から外れますが、一応これも「貨物列車」なので。

 B型電機や、2軸電動貨車の類、私の世代だと、車籍が残ってはいても滅多に動かないものと相場は決まっていました。現に本当の「現役」で動く姿を見ることが出来たのは三井三池のシーメンスコピーしかありません。銚子のデキ3も、豊鉄デワ11も、静鉄デワ1も、地元小田急のデキ1051ですらも、構内走行ですら一度も動く姿に遭遇したことがありませんでした。「本線走行」なんて夢のそのまた夢、でありました。銚子デキ3がたった1輌のハフを牽く客車列車、五城目軌道の元東急デワが牽くキハ改客車、京福テキ9が牽く味タム、北鉄の電車改造ED…全て古い写真を見て羨ましがることしか出来ませんでした。

 しかし、熱心なファンたちが鉄道事業者や関係当局を動かし、そんなファンの「夢」が現実として叶えられる日がやってきたのでありました。福井口工場の主として長年鎮座していた京福テキ6が、古典無蓋車ト68を従えて「ポー」と少し間抜けなホイッスルと共に現れ、目の前の本線上をトコトコと軽快に走り去っていく姿は、まさにイリュージョン、感動的、その夢のシーンを必死に追ってシャッターを切りました。

 その後も数回イベント走行しましたが、夢は夢でしかなかったということか長く続くことはありませんでした。2回に及ぶ衝突事故と京福電鉄福井鉄道部の解体、えちぜん鉄道への路線継承の一連の流れの中、福井口の主という元の鞘に収まり、一度は復活した車籍も抹消されて、国交省の方針として保安基準の強化もあり、もう本線走行は絶望的な状況にあるのは残念です。

 こんな素敵なイベントを企画した中心メンバーの中の一人、岸由一郎氏が昨日の東北を襲った地震による土石流に巻き込まれて亡くなられたとのことで、謹んでご冥福をお祈りします。鉄道保存のあり方について、彼の投げ掛けたものは非常に大きいと思います…

(撮影:1998年9月 京福電気鉄道三国芦原線 西長田駅付近)


当たり前に見られるうちに。。。

2008-06-12 22:15:18 | 臨海鉄道

 味の素所有のタム5000形、所謂「味タム」、在籍輌数も多く、平成に入ってからも北は石巻港、南は熊本と広い範囲で運用され、2軸タンク車の代名詞的存在として親しまれてきた形式でしょう。私が良く撮影に出掛けた川崎貨物駅にも、常時何輌か転がっていたし、東海道線の3363レにも良く2輌位入っていたもので、余りにも当たり前過ぎる存在だった所為か、今振り返ると綺麗な写真が意外に少ないことに気付く始末で。。。

 写真を撮影したのは衣浦臨海鉄道の半田埠頭駅、同駅は私有貨車のとして有名ですが(バックにいる日鉱金属のタキ5750も敦賀から解体のため送られてきたものです)、通常運用で味タムと日本化学のリン酸タキ(タキ1250、11300)が到着し、醤油臨専のタキ3500が発送されていました。架線も背景に邪魔なものも無く、気持ち良い雪晴れで光線状態も申し分無いだけに、もっと気合を入れて撮っていればと。。。

(撮影:1995年12月 衣浦臨海鉄道半田埠頭駅)


身近な貨物列車

2008-06-07 11:51:22 | 首都圏各線

 良くありがちな話ではありますが、「最寄り駅で写真を撮ったことの無い」人って非常に多いのではないのでしょうか? 最寄り駅に限らず身近な鉄道、いつでも見られるからと、ついつい記録を怠ってしまい、気が付いたら被写体は無くなって後悔するパターン。。。小田急の1800やFM/HE、荷電、貨物列車は、カメラを持って撮影する年齢になる前に消えたので諦めも付きますが、大雄山の17m省電、箱根登山や江ノ電の旧型、せたでんの旧型。。。気付いたら殆ど消えていて愕然。。。

 写真は最寄り駅ではありませんが、自宅から1時間足らずで行ける駅の十数年前までの光景、かつてはDD51の牽くセメント列車が1日1本到着し、DDから切り離された貨車をアント15が側線で押す長閑な情景が展開されていました。しかし現在は三菱の生コンプラント自体がマンションになり、往時の面影は微塵も感じられません。因みにこの列車、「横浜線最後の定期貨物列車」でしたが、まだ宅地開発も途上で武蔵野の面影残る、相原~片倉あたりで走りを記録しておかなかったのは今でも悔いが残ります。

(撮影 1995年11月 相模線南橋本駅)


奇蹟の再会-後編-

2008-06-07 11:10:09 | 化成品タンク車

(前編から続く)
 それは、1996年夏のことでした。魚津から長岡まで北陸特急に乗車中、途中黒井駅を通過しようとしていた時、ヤードの彼方に一瞬見えたのでした。夕刻の逆光線下ではっきり見えなかったので、その時は見間違えかな?とも思いました。しかし心の奥底では奇跡を願っていました。。。

 後日、一つの情報が私の許に届きました。

 「北一産業のタキ85759と85760、神岡鉱業に転属」

そうです、生き延びることが出来たのです!あの日見たものは幻覚ではなかったのです! その後の春先、羽越本線の中条駅で、「神岡鉱山前駅臨時常備」と独特な書体で書かれた札も誇らしげに、冷たい雨の中佇むタキ85759と再会できたときは、正直嬉しかったです。神岡転属後は、吉原の岳南ヤードにも時折姿を見せてくれ、2003年に2輌揃って廃車となるまで、すっかりお馴染みになりました。

 冒頭の写真は2000年5月4日に神岡鉄道の終点、奥飛騨温泉口駅で撮影したものです。同鉄道は列車本数が何分にも少なく不便なので、列車利用で訪問した貨車ファンなら、神岡鉱山前で下車し、鉱業所を見て、そのまま猪谷へUターンしたくなるところですが、終点まで乗り通すと良いことありますよ。。。そう、かつて、ここから原木が無蓋車に積み込まれて、各地へ発送されていたであろう同駅の側線は、遊休タンク車の置き場となっており、バラエティ豊かな硫酸タンク車を良い条件で撮影できたのも懐かしい思い出です。


かつて原木を貨車に積み込んでいたであろう貨物ホームから。


シンプルだけど力強さすら感じる北一の社章


「汽車型軽量タンク車」の象徴、ハット断面の台枠中梁。


当日は僚車タキ85759の姿もあり、全2輌(!)揃っていました。


当日いた珍車その1、タキ6252。稀有なキセ付き濃硫酸専用車ですが、無水硫酸専用車時代に装備されていた、特徴的なドーム上プロテクタが専用種別変更後に撤去されたので、まるでタキ7750型カセイソーダ専用車みたいです。


当日いた珍車その2、タキ1337。当時は既にタキ300形式現存最若番でした。昭和31年日本車輌本店製造。
(写真は全て2000年5月4日 神岡鉄道奥飛騨温泉口駅で撮影)


奇蹟の再会-前編-

2008-06-01 23:38:13 | 化成品タンク車

 私有貨車に限らず、「撮り潰し」を実行された方なら必ず何度も経験しているであろうとは思いますが、目の前にいて撮りたいのに撮れない、というのは何度経験しても悔しいものであります。夜間のホームで乗り継ぎ列車を待っている時、目前を通過して行く貨物列車に未撮影の形式が入っていたり、ヤードで両サイドを他車に挟まれた所謂「ゼロ線空き」だったり、手前をコンクリの塀やトラックにブロックされていたり。。。

 そこで今回取り上げる北一産業運輸所有のタキ85790と60、同車は昭和45年に汽車会社東京支店で落成以来、長らく北海道内で運用されてきましたが、恐らく平成4年頃にはるばる大分県の幸崎に異動し、日鉱金属佐賀関製錬所で生産された濃硫酸を、山陰、山陽方面の需要家に輸送していました。同駅は古くより珍車や旧車の姥捨て山(失礼)として知られ、戦前製タキ300やタム400最終ロットの終焉の地でもありました。

 その「愛しの彼女」との出会いは1995年の暮れ、新南陽駅のヤードの真ん中でした。第一印象は、汽車独特の細身のドーム付きタンク体と、このタイプでは珍しい帯金の無い押さえ金式受台と相まって、大変スッキリしたフォルムに、シンプルだが力強いデザインの「北一」ロゴがとても格好良く映りました。一緒にいた日鉱商事のタキ14079共々、絶対撮りたい、しかし、両サイドをコキ5500とトラ45000にブロックされ、たとえ入構許可が得られて間近に寄れたとしても、まともな形式写真はとても撮れない状況、日程上時間も限られていたので、周囲の道路より望遠でロングショットしたのが、このお粗末な写真です。そんな彼女との再会を誓い、新南陽を後にし、次の目的地に向かいました。


一緒にいたタキ14079もご覧の通り

 

 今なら後日、都合を付けて飛行機なり新幹線なりを駆使して幸崎まで追い掛けるでしょうが、当時はまだ自分の自由になる金に乏しい学生、居住する関東から南九州は余りにも遠く、「青春18きっぷ」で行くにも非常に不便な場所で、とうとう1996年3月の幸崎駅貨物扱廃止の日まで行くことは叶いませんでした。タキ85759・60も当然、当時既に珍しかった、日鉱金属のタキ300などと一緒に南九州の地に消えたものとして諦めかけていました。

(後編に続く)


太郎代駅2002番外-新潟臨海鉄道の終焉-

2008-06-01 11:36:51 | 臨海鉄道

 最初は当時、太郎代駅で見ることが出来た貨車たちを紹介するつもりでしたが、末期は形式が集約されていて、個人的には面白くないと感じたので、2軸タンク車などバラエティ豊かな形式が健在だった95~98年頃の様子を、機会を改めて紹介したいと思っています。

 冒頭で述べたとおり、新潟臨鉄は2002年9月末日限りで廃止されましたが、その直前まで藤寄~黒山間のみ存続させる方向で準備が進められていたのは、ご存知の方も多いかと思います。

 その「象徴」が、藤寄駅にあった日本曹達苛性ソーダ荷役施設を撤去した跡地に整備された、真新しいコンテナホームと、新車で配置されたトップリフターです。当初の計画では、従来太郎代からタンク車で輸送していたアセトンとメタノール、硫酸を、タンクコンテナに積み替えて藤寄までトレーラーで運び、そこからコキ車に積んで、オンレールで輸送するという形態だった模様です。

 しかし、最大荷主であるK社からこの案を一蹴されたという話で、(まあ新潟東港~中条間の短距離輸送で、わざわざ積み替えなければいけないんじゃ、東港からトレーラーで直接中条まで運んだ方が良いじゃん、という論理ももっともではありますが)、未来へ希望を繋ぐ「象徴」は、皮肉にも「墓標」へ転じる方向へ流されていくのでありました。。。