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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

地元とのユニークな協力関係 1981年

2008-12-29 18:46:44 | 1981年

   水曜インタビュー 国立婦人教育会館館長 縫田曄子さん
 比企郡嵐山町菅谷に、国立婦人教育婦人会館が誕生してからほぼ四年。緑の比企丘陵に囲まれ、茶色のシックな建物がよく映える。会館では数々の国際会議や全国的な集会のほか、女性グループを中心にした研修が連日、開かれている。特に、夏休み中の七、八月は一年中で最も利用者が多い。「地元の皆さんの理解がなければ、会館の運営はうまくいかない」とユニークな協調路線をとっている縫田曄子館長(59)から、地元との協力関係を中心に聞いてみた。

   もっと会館利用を
 -館長はNHKの解説委員から美濃部都政時代の民生局長、それから初代館長へ、と多彩な経歴ですね。
 「私は上海生まれ。父が中国駐在の新聞記者で名前も“日”と“華”を並べたのです。津田塾を出て生まれ故郷の上海へ行き、終戦直前までミッション系の学校で中国女子に日本語を教えていました。帰国して間もなくNHKに就職、戦後は婦人番組を担当していました。憲法学者の宮沢俊義先生など各界の方をお呼びして婦人学級を編成したのも楽しい思い出。考えてみますと、当時から文部省の婦人教育課と接触が多くて館長になってからも助かっています」
 -初代館長にという要請があったときは、どんなお気持ちでした?
 「嵐山という土地に、思い出があるのですよ。(古いアルバムを広げて記念写真を指差し)ご覧なさい。立教高女二年の十月に、嵐山渓谷に遠足に来ているのです。クラスメートとおしゃべりしたり、お弁当をひろげたりね。都心から離れ、とても景色の良い所という印象です。こちらに赴任して、早速、思い出の渓谷へ行って見ました」
 -地元、特に嵐山町とは協力関係がうまくいっているようですね。
 「なんといっても、会館は埼玉県や嵐山町のご協力で全国初の施設として生まれたわけですから、十分に会館を利用していただこうと思って……。五十二年(1977)十月に開館して、まず、地元の婦人会の方々に見学していただきました。関根茂章町長はじめ町の皆さんには、本当にお世話になっています。お話を聞いて、私とてもうれしかったことがあるんです。足の不自由な方が武蔵嵐山駅(東上線)を降りて、駅前の商店に入ってタクシーを頼んだそうです。運悪く一台もないので途方に暮れていると、その店のお嬢さんが気軽に車で送ってくれました。会館までの道をたずねる来館者が“この町の人は親切だ”と、良い感じを持ってくれています。」
 -ボランティアというと、すぐ福祉に結びつけがちですが、会館の制度はユニークですね。
 「この制度は開館一年後にスタートしました。私は、ボランティアのあり方として、職員の手不足を補うというものでなく、ボランティア自身が活動をすることで、自己開発や学習をしてほしいということを願ってきました。現在、約七十人で登録しています。野の草花を会館のあちらこちらに生けて下さったり、来館者の案内、情報図書室のお世話、中には国際会議の通訳やアナウンスを奉仕してくれる人もいます。最近は、館内の催しにミニコミを出したり、機関紙を発行してお互いの親睦に役立たせています。いずれも、自発的に始めたもので、会館としても、最近、皆さんの活動拠点としてボランティア・ルームを設けました」
 -会館の利用者は、やはり本県の人が多いのですか。
 「昨年度、(五十四年四月から一年間)でみますと、五万三千二百人のうち四二%(二万二千五百人)を占めてトップです。市町村別にみますと、県庁や団体関係者などの多い浦和市の約七千人を別として、嵐山町(三千八百人)、川越市(千二百人)、東松山市(七百七十人)、上尾市(七百五十人)、川口市(七百人)がベスト5です。
 -ホテル並みの宿泊施設、視聴覚設備、日本家屋、美術・工芸室、体育館、プールとそろい、地元にある会館をもっと利用しなければ損ですね。
 「宿泊費(千二百円)と食事(三食で二千五百-三千円)は有料ですが、会場、施設の利用は無料です。二、三人のグループから数百人の会合まで、利用の方法はさまざまです。男性だけでも、女性についてのテーマで研修、研究をするのなら大歓迎。嵐山町では六月から町民文化大学を開いています。もっと県内の方々が利用してほしいものです。」

 会館は東武東上線武蔵嵐山駅から徒歩十五分。利用やボランティアの問い合わせは【電話番号略】
     『毎日新聞』1981年(昭和56)8月12日


運営支える婦人ボランティアたち 1981年

2008-12-29 18:25:40 | 1981年

比企郡嵐山町菅谷の国立婦人教育婦人会館(縫田曄子館長)を訪れる人たちは、受付や情報図書室で親切な応対を受け、玄関、ラウンジなどに飾られている草花の美しさに目を奪われる。国際会議の通訳、利用者の子どもたちの世話、陶芸、茶道、華道などの研修のお手伝い……。同会館独自のボランティアの協力で、スムーズに運んでいる。五月からは、大きな集会や、会議のたびに来館者に「情報」を伝えるミニコミも誕生、訪れる人から「心にくいばかりの心配り」と喜ばれている。

   嵐山の国立婦人教育会館 運営支える婦人ボランティアたち
     受付、通訳、研修の手伝い 68人…“ミニコミ”も発行
       活動通じて高めあい、勉強

 同会館は五十二年(1977)十月に開館、約一年後にボランティア制度を採用した。十四万平方メートルの広い敷地に本館や研修棟、日本家屋、体育館、プールと施設が多く、三百五十人が泊まれる宿泊棟の管理(民間委託)を除いて職員はわずか三十四人。利用者が年間十万人に増えるにしたがってボランティアの協力が欠かせなくなった。
 しかし、縫田館長の方針は「ボランティアの方々は、単に会館の人手不足を補ったり、時間つぶしであってはならない。最も良い理解者、支持者であって、お互いもまた勉強し合って、高めてほしい」。だからボランティア活動に対する意欲と学習に対する熱意を必要とするわけだ。
 スタートした五十三年(1978)九月には四十人だったのが、現在は六十八人に増え、毎日、欠かさず訪れる受付カウンターの人たち十二人が「なごみグループ」を。情報図書室で世話をひとたち二十五人は「JTVグループ」を結成した。このほか、特技を活かし協力する人、幼児の面倒を見たり、英会話を生かして外国人の世話をする人などがいる。全員女性というのも会館らしい。
 中でも、華道を教えている人が、ボランティアとして本館の玄関ロビーや休息するラウンジなど二十カ所に欠かさず生け花を提供。外国からやってきた人たちも「日本古来の芸術をさりげなく見ることが出来てすばらしい」と激賞している。生ける花は山野に自然に咲く草花ばかりで、素朴な味わいが見る人たちの心を打つ。このほど、プロの音楽家やアナウンサーが歌唱指導、ピアノ、エレクトーンの演奏や司会などの協力を申し出ている。
 会館行事の際、発行されているミニコミはワラ半紙半分の大きさで「ふれあいニュースかわら版」。なごみグループのアイデアで、新刊書やレコードの紹介、行事のお知らせなどを随時発行している。先月末、開かれた全国婦人団体研究集会の際は、出席者に配られた資料の正誤表や、会館前から出るバスの時刻表などを載せて好評だった。「受付でもらった資料は漢字で印刷されたものばかり。手書きのかわら版を見てホッとしました」と言う声もあった。
 ボランティアの窓口になっている同会館の大野曜事業課長は「皆さん方が独自に考えて生み出したすばらしいアイデアで、会館運営の潤滑油-というボランティアの意義が生かされています。生け花奉仕の方に、山野の花を提供する協力者も現れるなど確実に輪も広がってきました。会館の協力を通じて勉強をする人、特技を生かす人の登録を待っています」と語っている。ボランティアは交通費などの実費を支払うほか、年一回の一泊研修会への参加が義務。問い合わせは【電話番号略】同会館事業課。
     『毎日新聞』1981年(昭和56)7月1日


町民文化大学の開始 1981年

2008-12-17 15:15:01 | 1981年

   豊かな“里づくり”をめざし 嵐山で町民文化大学開く
 豊かな“里づくり”を進めている比企郡嵐山町はこのほど、その一環として「町民文化大学」を開講した。
 同町では、五十四年度に住民、文化団体、学識経験者らメンバー二十人で「嵐山町文化行政懇談会」(簾藤惣次郎代表)を作り、報告書「里づくり文化構想」をまとめた。それは「美しい自然」「ゆかしい歴史」「近代的な公共施設」という嵐山町の“独自性を生かした里づくり”を推進しようというもの。町民文化大学は、その構想に基づく里づくり推進の第一弾。「学習の場を通じて嵐山町を愛する心を養ってもらおう」というのがねらい。
 この日は、同町菅谷の国立婦人教育会館の研修棟で、関係者と受講生百七十一人が参加して開講式が行われた。開講式では関根茂章町長が「ふるさとである嵐山をみなさんに十分に知ってもらい、手作りのわが嵐山を作って行きましょう」とあいさつした。その後、作家の松本清張氏による「古代史と私」と題した講演が行われ、この日の開講式を終えた。
 なお、同大学では今後、必修コースの「里づくり教養講座」と選択コースの「歴史講座」「焼きもの講座」「女性講座」「健康講座」を来年三月まで毎週土、日曜日に開く。
     『埼玉新聞』1981年(昭和56)6月24日