水曜インタビュー 国立婦人教育会館館長 縫田曄子さん
比企郡嵐山町菅谷に、国立婦人教育婦人会館が誕生してからほぼ四年。緑の比企丘陵に囲まれ、茶色のシックな建物がよく映える。会館では数々の国際会議や全国的な集会のほか、女性グループを中心にした研修が連日、開かれている。特に、夏休み中の七、八月は一年中で最も利用者が多い。「地元の皆さんの理解がなければ、会館の運営はうまくいかない」とユニークな協調路線をとっている縫田曄子館長(59)から、地元との協力関係を中心に聞いてみた。
もっと会館利用を
-館長はNHKの解説委員から美濃部都政時代の民生局長、それから初代館長へ、と多彩な経歴ですね。
「私は上海生まれ。父が中国駐在の新聞記者で名前も“日”と“華”を並べたのです。津田塾を出て生まれ故郷の上海へ行き、終戦直前までミッション系の学校で中国女子に日本語を教えていました。帰国して間もなくNHKに就職、戦後は婦人番組を担当していました。憲法学者の宮沢俊義先生など各界の方をお呼びして婦人学級を編成したのも楽しい思い出。考えてみますと、当時から文部省の婦人教育課と接触が多くて館長になってからも助かっています」
-初代館長にという要請があったときは、どんなお気持ちでした?
「嵐山という土地に、思い出があるのですよ。(古いアルバムを広げて記念写真を指差し)ご覧なさい。立教高女二年の十月に、嵐山渓谷に遠足に来ているのです。クラスメートとおしゃべりしたり、お弁当をひろげたりね。都心から離れ、とても景色の良い所という印象です。こちらに赴任して、早速、思い出の渓谷へ行って見ました」
-地元、特に嵐山町とは協力関係がうまくいっているようですね。
「なんといっても、会館は埼玉県や嵐山町のご協力で全国初の施設として生まれたわけですから、十分に会館を利用していただこうと思って……。五十二年(1977)十月に開館して、まず、地元の婦人会の方々に見学していただきました。関根茂章町長はじめ町の皆さんには、本当にお世話になっています。お話を聞いて、私とてもうれしかったことがあるんです。足の不自由な方が武蔵嵐山駅(東上線)を降りて、駅前の商店に入ってタクシーを頼んだそうです。運悪く一台もないので途方に暮れていると、その店のお嬢さんが気軽に車で送ってくれました。会館までの道をたずねる来館者が“この町の人は親切だ”と、良い感じを持ってくれています。」
-ボランティアというと、すぐ福祉に結びつけがちですが、会館の制度はユニークですね。
「この制度は開館一年後にスタートしました。私は、ボランティアのあり方として、職員の手不足を補うというものでなく、ボランティア自身が活動をすることで、自己開発や学習をしてほしいということを願ってきました。現在、約七十人で登録しています。野の草花を会館のあちらこちらに生けて下さったり、来館者の案内、情報図書室のお世話、中には国際会議の通訳やアナウンスを奉仕してくれる人もいます。最近は、館内の催しにミニコミを出したり、機関紙を発行してお互いの親睦に役立たせています。いずれも、自発的に始めたもので、会館としても、最近、皆さんの活動拠点としてボランティア・ルームを設けました」
-会館の利用者は、やはり本県の人が多いのですか。
「昨年度、(五十四年四月から一年間)でみますと、五万三千二百人のうち四二%(二万二千五百人)を占めてトップです。市町村別にみますと、県庁や団体関係者などの多い浦和市の約七千人を別として、嵐山町(三千八百人)、川越市(千二百人)、東松山市(七百七十人)、上尾市(七百五十人)、川口市(七百人)がベスト5です。
-ホテル並みの宿泊施設、視聴覚設備、日本家屋、美術・工芸室、体育館、プールとそろい、地元にある会館をもっと利用しなければ損ですね。
「宿泊費(千二百円)と食事(三食で二千五百-三千円)は有料ですが、会場、施設の利用は無料です。二、三人のグループから数百人の会合まで、利用の方法はさまざまです。男性だけでも、女性についてのテーマで研修、研究をするのなら大歓迎。嵐山町では六月から町民文化大学を開いています。もっと県内の方々が利用してほしいものです。」
会館は東武東上線武蔵嵐山駅から徒歩十五分。利用やボランティアの問い合わせは【電話番号略】
『毎日新聞』1981年(昭和56)8月12日