快気分析

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仕組みとアプローチ -  織田信長が上総守(後に上総介に変更)を名乗ったのは何故か

2020-10-27 13:01:27 | 明智光秀
 前々回の記事の中で書いた織田信長が上総守信長(後に上総介信長に変更)と名乗っていた件ですが、大体思いつく範囲で書いてみたいと思います。
 通説では信長の家系が平氏の流れと言われているようですが、ただこれも実際にはよくわからないとかの見方も有るようです。
 しかし当時は由緒ある家系を名乗って家の格式を高める事はよく行われていたようなので、別に織田信長が実際に平氏の流れであろうがなかろうがあまり関係ないのかも知れません。
 少なくとも信長は平氏の流れを汲んでいると言う事を強調したかったのだと思えます。
 では何故それが上総介と結びつくのか?と言うと、それは平広常と言う上総で力を持っていた武将こそが「上総介広常」と名乗っていたからです。
 平(上総介)広常はその武力をもって挙兵したからこそ源頼朝の軍勢が勢いに乗り、次々と他の武将を取り込んで強大化し、戦いに勝利したのは史実であり、源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開けたのもこの上総介広常の挙兵がなければ成し得なかった事と言うのが通説となっています。
 そして上総介広常のプライドの高さと軍勢の強大さがアダになり源頼朝に警戒され、謀反の疑いをかけられて梶原景時に暗殺されてしまいました。
 こうした点から考えると織田信長は、甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家に対する対抗意識から「源氏の政権である鎌倉幕府は平氏である平(上総介)広常の挙兵と戦力がなければもともと存在しなかった」と強調したかったのではないでしょうか。
 もう一つは、「信長と言う名前が上総武田氏の祖である武田信長と同じであったのでその向こうを張った」、と言うようにも見えますが果たしてどうでしょう。
 そして当時の上総、安房では上総武田家(庁南武田氏と真里谷武田氏)がどのような立ち位置と力関係だったのかについても信長は有る程度観察していたのかも知れません。
 当時は里見氏に敵対すると言う点で、真里谷武田氏の一部と庁南武田氏、そして上総土岐氏が同じ立場でした。
 なので織田信長が里見氏と敵対して上総で覇権争いをしていた後北条氏に対してもあまり接近しなかった(つまりは間接的にはやや敵対関係)と言うのは理解できるような気がします。
 


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